虚と実と
※ 本編第51話「叱責と記憶」あたりの話
(番外編アレックス視点「依依」は本話と同時刻)
ハイドランドでの内乱と敵国の侵略を鎮めてカザックに戻り、ようやく落ち着いてきたその日、ソフィーナは新しく赴任してきた駐カザックハイドランド大使を招いて、私的なお茶会を開いていた。
「っ。……失礼しました」
その人の前でくしゃみをしてしまったソフィーナは、即座に謝罪を口にする。公式の場ではないとはいえ、無作法には違いなく、眉尻を下げた。
「風邪か」
共に茶を囲んでいた横のフェルドリックが顔を曇らせた。
「え、いえ、そういうわけでは」
慌てて否定したのに、彼の表情は更に険しくなる。不機嫌そうに眉間にしわを寄せた彼に顔をのぞき込まれ、ソフィーナは息を止めた。
(……魔力、があるのかも……)
結婚してそれなりの時間が経った。毎日のように顔を合わせてもいる。ハイドランドから戻ってきてからは日中に顔を合わせ、なんでもない時間を共に過ごすことも増えた。
なのに、金と緑の不思議な色の彼の瞳を目の前にすると、毎回魅入られでもしたかのように動けなくなる。
「君はすぐ無理をする」
(……いつも、は、憎たらしい顔で毒ばかり吐くくせに……)
真剣に心配されて、前に体調を崩した時もそうだった、と思い出したら、徐々に顔が赤らんできた。
不意に、彼の視線が大きな手のひらに遮られた。
ほっとしたのも束の間、額にあたる温かい感触にソフィーナは硬直する。さらに頬が熱くなっていく。
「顔も赤い。やっぱり熱があるんじゃ……」
「そ、れは……」
全部あなたのせい――。
ソフィーナは唇を引き結ぶ。なぜだろう、嬉しいのに呼吸が苦しい。
「コホン」
「……っ」
(って、人、人の目の前、来客中……!)
お茶を注いでいるアンナの不自然そのものの咳払いに我に返ると、ソフィーナは顔を引きつらせた。
ばっとフェルドリックの手を両手でつかみ、胸元に引き降ろす。
「……」
そして、おそるおそる本日の客、向かいのソファに座るハイドランド大使へと目だけを向けた。
(……ああ、完全に呆れられてる……)
兄セルシウスのハイドランド王即位に伴い、新しく赴任してきた彼はソフィーナの母方の叔父でもある。いつも冷静なその人が、案の定目をまん丸にし、口を開けているのを見て、ソフィーナは呻き声を上げたくなった。
公式な信任状の捧呈は既に済んだ上での私的な訪問ではあるし、気安い間柄でもあるにはあるのだが、だからこそ余計居心地が悪い。ソフィーナは指先まで赤く染め上げる。
「……」
目を瞬かせて不思議そうにそのソフィーナを見つめるフェルドリックへと、アンナが呆れ交じりの半眼を向けた。その目に覚えがあった。
(また『やっぱりずれていらっしゃる』とかなんとか考えているんだわ……)
――実際そうだけど。
(多分この人、恥ずかしいという感覚がないんだわ、これまでの人生で恥ずかしいと思うこともからかわれることもなかったから……。そりゃあ、誰より美人だし、何をやらせてもそつがないし、いつも自信満々だし……って、それはそれでなんかムカつく)
八つ当たり気味に目の前の整った顔を睨めば、彼は疑問と心外半々に、顔の片側だけを器用にしかめた。
「ソフィーナさまはお元気ですよ、フェルドリックさま」
「そう、か……? まあ、アンナが言うなら……」
納得したようなしていないかのような顔で呟いたフェルドリックに、大使がふふっと渋い笑い声を漏らした。
「東方には人の口の端に上ると、くしゃみが出るという俗信があるそうです」
「……」
彼の意図が読めず、ソフィーナも目を瞬かせる。
「きっと素敵な噂でしょう。ソフィーナさま、そしてフェルドリックさまにこうしてお会いして、そう確信できるようになりました」
彼はおもむろに手にしていた茶のカップをソーサーに戻し、居住まいを正した。
目を丸くするソフィーナに笑み崩れる。
「遅れてしまいましたが、ご結婚、おめでとうございます。一ハイドランド国民として、叔父として心よりお祝い申し上げます。私の兄や妹もですが、誰より天国にいる姉こそが今きっと同じ思いでいることでしょう」
「……っ」
思いやりに満ちた茶色の瞳、目尻の優しい皺、左頬の微かなえくぼ、人の幸せを前に弧を描く下瞼――その人の笑顔に母の面影を見つけて、ソフィーナは胸を詰まらせる。気管が震え、咄嗟に言葉が出せない。
「……この先も賢后陛下はもちろん、あなたがた兄妹に同じように思ってもらえるよう努める」
察したのか、フェルドリックが代わりに応じてくれた。そして、その言葉にまた泣きそうになった。
「さすがメリーベルの弟というべきか……」
大使を見送った後、フェルドリックはソファの背もたれに身を預け、「あれほどのけん制はない……」とぶつぶつと呟いた。
共感してソフィーナも笑いを零す。
優しいけれど、抜かりはない――叔父のやりようは母そっくりだ。ソフィーナを心から心配してくれているところも。
「母の兄弟というか一族というかは、皆仕事熱心で優秀な者がそろっています」
「……だからこそ前国王の治世下では疎外されていたというわけだ」
ソフィーナの結婚時、母の兄弟三人からの祝いはなかった。皆王都ハイドから遠く離れた、困難を抱えた地での職や地位を与えられていたから仕方がないと思っていたけれど、彼らはソフィーナの結婚について知らされることさえなかったらしい。フェルドリックはそのことを言っているのだろう。
(この人、あの時から私のそんなところまで把握していたのね)
その上あんな適当な持参品とくれば、私、多分ものすごくかわいそうな子に思われていたんだわ、と思わず苦笑する。
(……そうか、あれこれ贈ってくれていたのは、そのせいもあったのかも。みすぼらしい格好でいられたら自分が恥をかくとか言っていたけれど)
あんな態度だったくせに、ちゃんと気にかけてくれていたということ――本当に妙な人だ。
「父は母と伯父たちを疎んじていましたから、母が亡くなって真っ先に彼らを誰もが嫌がるところに追いやった――と信じていたでしょうね」
ソフィーナはくすっと笑う。
「?」
「実際は母が存命の時から彼らはそうだったんです。王后の身内だからこそ誰よりも国の、皆のために働かなくてはと言って、難しい領地や仕事ばかり引き受けていました」
「……そうか。セルシウスはこの上なく厄介な人間を大使として送り込んできたわけだ。本当に食えないな。前任者は王の機嫌を取ることしかできない能無しだったから、どうとでも手玉にとれたのに」
ソフィーナの説明に柔らかく微笑んでおきながら、フェルドリックは毒を吐いた。
(本当に変な人。アンナのセリフじゃないけど、どこかずれてる)
それからハイドランドに戻る前の自分に、しみじみとため息をついた。
彼がわからないと嘆いていたけど、当たり前だ。だって、完璧だと勝手に思い込んで、実際のこの人がどんな人か、欠片も見ていなかったのだから。
「……」
だからだろうか、不意にその彼がどんな反応をするのか知りたくなった。
立ち上がって横の席から移動し、彼と同じソファの真横に座ってみる。その瞬間、彼は露骨に笑いを止めた。
(……大丈夫、だって私のこと、好きって言ってくれた。ずっと見てたって……)
怯みそうになるのをハイドでの夜を思い出して堪え、そのままじっと見つめてみる。
「……何」
眉根を寄せ、見返してくる彼を引き続き見つめれば、ソファの背に置かれていた彼の長い人差し指がトントンとそこを叩き出した。知っている。これは彼が落ち着かない時の癖だ。
「……」
顔を背けられてしまった。が、横目でちらりとソフィーナを見、目が合ってまた逸らす。
(そういえば、私から側に行くことってなかったかも)
その結果がこれだとしたら?
(……すごく嬉しい)
知らず口元が緩んだ。それから勇気が湧いてきて……もっと試してみたくなった。
躊躇する気持ちももちろんあったけれど、大丈夫、と自分に言い聞かせる。
心臓の拍動が増していくのを感じながら、ソフィーナはフェルドリックへと手を伸ばす。最近の彼がいつもソフィーナにそうするように。
「……」
信じられないものを見るような目で見られて、気恥ずかしさが一気に増したけれど、勇気を振り絞って、震える指をその頬に向けた。
目の前の美しい目が見開かれる。
そして、指が触れる……――寸前、彼は怖いほどの真顔になった。
「医師を呼ぶ」
「……え?」
「やっぱり熱がある」
そう言って、彼はソフィーナの返答を待たずアンナを呼び、迷いなく出ていってしまった。
と思ったら、「馬鹿は風邪をひかないというのは嘘だな。気付けないが正解だ」と憎まれ口を叩きつつ戻ってきて、手にしていたブランケットをソフィーナへと丁寧にかける。
「安静にしていろ。悪化したら面倒だ」
明らかに心配しているとわかる顔で、突き放すような言葉を甘やかすように囁き、壊れ物を触るように優しく頭を撫でてまた出ていく。
「……」
何にどう反応すべきか、呆気に取られる間に、ソフィーナは部屋に一人取り残されてしまった。
「ソフィーナさま……? フェルドリックさまが、やはり熱がある、行動がおかしいと仰っていましたが……」
入れ替わりに部屋に戻ってきて、困惑を漏らすアンナの顔を正面から見る勇気はない。
「…………隣に座っただけ」
ソフィーナはブランケットを顔まで引き上げ、縮こまる。
(ちょっと、ちょっとだけ近づきたかった、それだけだったのに……)
私にしてはすごく頑張ったのに、触れることすらできなかった上、病人扱いされた――涙目になる。
沈黙が室内を支配して、窓の外の木々の梢で遊ぶ小鳥たちの鳴き声が一際大きくなった。
「その、なんと申し上げたらいいのか、愛されていらっしゃるのは確かだと思いますが、色んな意味で前途多難、ですね……」
「言わないで……」
あまりに情けない声だったからだろう、アンナが吹き出した。
笑いを含んだ声で、「おいでになるのは、きっとウェインさまですよ――この国で一番のお医者さま」と追撃を喰らって、ソフィーナはブランケットの陰で呻き声を上げた。
「また呆れられる……」
「お二人にとってそれが一番の薬だとご存じなのでしょう」
さすが名医、と言いながら、アンナはまた部屋を出ていった。
眉尻を落としつつ、ソフィーナは顔の覆いを外した。
噂されるとくしゃみが出るという叔父の話が本当なら、誰かは知らないが、もっと盛大に噂してほしい。
そうすれば、本当に風邪気味なのだと言い張れる、ウェイン医師の残念な子を見る目を見ないで済む――。
(でも……そうなったら?)
「……私、この先フェルドリックに近づくたびに病人扱いされることになる……?」
愕然としながら独り言を口にした後、ソフィーナは情けなく肩を落とす。
さっき喜んでくれた叔父には口が裂けても言えないけれど、それでも多分母はお見通しだろうけれど、アンナの言う通りだ……――道のりは多分険しい。







