27.盾と鎧
「人間のために命を賭しますか。ジェネフィス卿もお気の毒なことだ」
(どの口が言うのかしら)
まるで情を持ち合わせているかのような口ぶりだ。『大事な』花嫁が血を流すのを、眉一つ動かさず見ているくせに。
別に動揺を誘うための作戦ではない。が、実に腹立たしい。
「ウィズリー様への処罰の軽減を望むなら、交渉相手は魔王様でしょう。すでに相手の手の中にあるものを、取引きには使えませんもの」
「……なるほど。婚約者の自覚がおありのようで、なによりです」
そう言って、大仰にため息を吐く。
行動がいちいち癪に障る男だ。破片を突きつけてやりたい衝動をぐっと堪える。
(今は、リダの身の安全を確保するのが先決だ)
無関係な者の命を、危険にさらすわけにはいかない。
「分かりました。あの少年には金を渡し、すぐにここから帰しましょう。ですのでどうか、その物騒なものをお離しください」
「いいえ。ちゃんとリダが解放されたかどうか、窓から確認させてもらうわ。これを離すのはそのあとよ」
「……用心深いかたですね。では、兵を寄越しますので、せめて床の破片だけでも片付けさせてください」
「分かりましたわ」
「ありがとうございます。ついでにお茶も持って来させますよ」
軽く会釈し、ヤヌシュがくるりと背を向ける。廊下に響く足音が徐々に遠ざかっていくと、全身から一気に力が抜けた。
そのまま床にへたり込む。
(……魔法の靴、ヒビが入ってしまったわね)
さっき馬車を飛び降りた時だ。
三十年前のフランジアから帰った後、グレンが履かせてくれた靴。
二度目の求婚とともに。
割れて、取れかけたヒールのかかとをそっと撫でる。
「……殿下……!」
こぼれそうになる涙を、唇を噛んでグッと堪える。──負けるものか。
諦めなければ、きっとまだ打つ手はある。
だがそれ以前に、違う不安要素が寝台に横たわっていた。
体の消えかかったシュカはもとより、サラも、魔力を奪われて相当消耗している。
時間的にあまり余裕はない。
マシェリの手元にあるのは荷物のカバン一つと、ケルトが眠る魔本だけ。
この状況で、自分に一体何ができるだろう。
やっぱりもう少し魔力を鍛えておくべきだった。再びくじけそうになった時、窓ガラスに何かがぶつかる音がした。
「ク、ククッ」
白い背景の中に、赤い翼がくっきり見える。脚には、主従契約のリボン。
戻ってきてくれたのか。鉄格子の隙間から手を突っ込み、なんとかククが通れるくらい窓を開ける。
(諦めるのはまだ早いわ)
希望の光が一筋射した。カバンから出したパンで餌付けしながら、ククの羽根をごそごそと探る。この奥に仕込んである収納魔道具には、『アレ』が入っているはずだ。
取り出したのは、水竜を捜索するために陛下から借りて来た蒼竜石。
これがあれば、マシェリのなけなしの魔力でも多少は強化できる。
部屋をぐるりと見回し、ふっと微笑む。──ここから逃げ出すくらいなら、なんとかなりそうだ。
(でも、問題はそのあとか)
相手は力のある魔人。他に兵も大勢いるし、上手く部屋から逃げ仰せたとしても、すぐ捕まってしまうだろう。
仮に運良く外へ出られたとしても、ここは魔界の関所。馬車などの出入りはあるものの、乗っている者のほとんどが魔人や魔物。故に、逃亡の手伝いは期待できない。
やっぱりどうしても、ここまで誰かに迎えに来てもらう必要がある。魔界に今いる、マシェリの味方に。
(ウィズリー様……は、たぶん無理だし。結局、殿下とビビアン様の二人だけか)
けれど彼らに連絡する手段がない。魔本に呼びかければケルトが出てきてくれるかもしれないが、体調が不安だった。それに、ケルトが万が一ヤヌシュに捕らえられでもしたら、それこそ窮地に陥ることとなる。
それだけは、絶対に避けなければならない。
厳密にいえばあと一人。いるにはいるが、この状況での彼が敵か味方かは、正直判断いたしかねる。
どうしよう。床に座り込んで腕組みをし、うんうん悩むマシェリの膝の上に、食事を終えたらしいククが舞い降りてきた。
「ク、ククッ。クッ?」
「まあ、わたくしのこと、心配してくれるんですの? 師匠に似て、優しいんですのね。貴女も」
魔王城付近からここまで、ほとんど休みなしで飛び続け、とても疲れているだろうに。
いい子だ。柔らかい冠羽の頭を、そっと撫でる。
(師匠……)
不意に、ルシンキの城でのルドガーとの再会を思い出す。
あの時、別れ際に彼が言っていたことも。
『また、城で会おう』
あれがもし、フランジアの王城のことではなかったとしたら。
(連絡を取るための手段ならここに全部そろってる)
マシェリは胸元に仕舞っていた招待状の封筒の中から、一枚だけ入っている白い用紙を取り出した。
出欠の返信用紙。使う予定のなかった物だが、入れっぱなしにしておいてよかった。黒一色の招待状では、赤色がまったく目立たない。おまけに、既に固まりかけた血では、たった数文字書き連ねるのにも苦労する。
それでも、用紙の裏に指を走らせるマシェリの気分は、とても晴れやかだった。
ククの足からリボンを解き、細く巻いた用紙にきゅっと結ぶ。
マシェリはそれを、羽根の魔道具の中へ祈りとともに押し込んだ。
(どうか、無事に届きますように)
「お願いね、クク。それと……今日は、本当にありがとう」
「ク、ククッ」
窓に留まった深紅の使い鳥に、頬ずりして別れを惜しむ。──あとでまた、きっと会おう。願いを胸に、空へと送り出した。
(さてと。今度はわたくしの番ね)
ここは魔界。人間としてのマシェリの味方など、ゼロに等しい。
けれど自分にはもう一つ、ここでの盾となりうる顔がある。
マシェリは下着の裾をほんの少し破り取ると、カバンから液の入った小瓶を取り出した。
破った布に液を染み込ませ、靴を脱ぐ。
ここで戦う、鎧を纏うために。
「──ねえ。どなたかいらっしゃる?」
「おります。……何か、ございましたか」
扉をノックし、声をかける。冷ややかで小さな声だが、返事があってホッとした。この作戦は、話ができなければ始められない。
「わたくし、少し喉が乾いてしまって。できればお水を持って来ていただきたいの。お茶ではどうも潤わなくて」
「……少々、お待ちください」
見張り兵らしき男はぶっきらぼうだが、仕事は早かった。数分ほどでワゴンを引く音とともに戻ってくると、無言で二回叩扉する。
魔物か魔人かは知らないが、きっと真面目で、魔王やヤヌシュに忠実な者なのだろう。
(今のわたくしにとって、実に都合がいい)
思わずくっと口端を上げる。
「どうぞ、お入りなさいませ」
マシェリは素足で扉に歩み寄ると、淑女の礼で兵を出迎えた。