表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
41/78

39

 突然、鐘の音が鳴り響く。


 城の鐘楼よりも大きく、澄んだ音。ハッとして顔を上げれば、湖に向かって走り出す、黒猫の姿が目に入った。


「──アイリス! どこへ行くんですの?」

「これが合図の鐘なの! 君はさっきの泉に戻ってて。たぶん、あの辺りに茨のアーチが出たはずだから!」

「で、でも、殿下がまだ……それに、イヌルも消えてしまいましたわ」

「あの犬っころならヴェラドフォルクが抱えて行っちゃったよ! 水竜皇子はぼくが連れてくる。鐘が鳴り終わればアーチが閉じちゃうんだから、君はそこの影猫と先に行ってて! ──早く!」

「……分かりましたわ」


(さっきのは夢、だったのかしら)


 もし現実なら、あのルドルフはヴェラドフォルクが化けていたのか。

 ──いったい何の目的で? よく分からないが、彼はマシェリをテラナ公国に帰したかったと言っていた。


(当然か。魔力もない、たかが伯爵令嬢のわたくしでは、初めから殿下には相応しくなかったんだもの)


 マシェリとグレンの婚約は、始祖として許し難いものだったのかもしれない。


(だから黙って見ておられず、ふたりの仲を引き裂こうと現れたのだろうか)


 やっぱりあの時、怯えたふりで逃げ去ればよかった。

 唇を噛み、踵を返したマシェリの赤髪を、強く吹いた風が乱す。


 一歩踏み出したとたん光の粒がはじけ飛び、白い靴が透明なハイヒールに姿を変える。地面を蹴って進むごとに、可愛らしいドレスのリボンやレースも、巻き上がる魔力の風の中で変化していった。

 最後──すらりと伸びた指先で、残滓がきらめく。


「にゃっ、にゃあ!」

「いらっしゃい、サラ。……帰りましょう。ふたりで」


 追ってきた影猫を肩に乗せると、元に戻った手でしっかりドレスを掴み直す。


 獣道を一気に駆け抜け、出現した茨のアーチに足を踏み入れた瞬間──魔法の靴が片方脱げ、草原に落ちた。

 最後に聞いた鐘の音が、振り向くマシェリの耳を震わせる。


(まるで本当の御伽話みたいだわ)


 目の前が真っ白に変わる直前、苦笑いで呟いた。











 聞き覚えのある柱時計の音が、一回、二回、三回……と、鳴り響く。

 最後の六回目で、マシェリはぱちりと目を開いた。


「お姉様ったら。こんなところで眠っては、風邪をひいてしまいますわよ」

「……サマリー⁉︎」


 横たわっていたソファから跳ね起きると、金髪碧眼の美少女が「きゃっ」と飛び退く。


「ど、どうなさいましたのお姉様。もしかして、悪夢でもごらんになってたのかしら?」

「……いいえ。──いいえ、違うわ」


 夢なんかじゃ決してない。

 言いかけたマシェリの言葉を、扉叩の音が遮る。


「おや、眠り姫のお目覚めだね。馬車のほうの準備もできたし、そろそろ出かけるよ。マシェリ」

「お父様……その格好は」


 応接室に入ってきた父は、夜会服に身を包んでいた。しかもマシェリが知る中でいちばん上等な仕立ての品だ。


「まだ寝ぼけているのかい? 今日は城の夜会だろう。お前もちゃんと支度できてるじゃないか」


 呆れたように言いながら、眼鏡の鼻当ての位置を直す。

 父の言葉に困惑し、よくよく自分の姿を確認してみれば、きちんと髪を結い上げ、シルクのドレスに身を包んでいた。

 履いているのはごく普通のハイヒール。


 マシェリは混乱し、ぐるぐると目眩がした。今自分が座っているソファも、目の前のテーブルも。窓から見える中庭の景色も──テラナ公国の実家のもので間違いない。


 しかし自分はついさっきまで、フランジア帝国にいたはずだ。

 なのになぜ、あのアーチからここへ出てきてしまったのか。


(……まさか、未来が変わってしまった?)


 宵闇が迫る空の下、馬車に揺られながらきゅっと唇を噛む。あのあと──グレンはどうなってしまったのだろう。


「実はねマシェリ。今日の夜会でお前に会わせたい人がいるんだよ」

「……会わせたい人?」

「ああ。今日はじめて夜会に出席する、エクスター侯爵家の四男坊だ。わたしも知らなかったんだが、薬師の資格を持っていてね。侯爵に、お前とその四男との縁談を持ちかけられたんだ」

「エクスター侯爵家の……四男」


(アディルのことだわ……!)


「結婚相手としては申し分ない。それに、お前が手がけてる新事業には薬師が必要だろう? ま、あの侯爵の子息でなければなお良かったんだが」

「え、ええ。……そうですわね」


 これとまったく同じ話を、以前父から聞かされた。さっきまでいた世界で、マシェリがフランジアへ行く前に。

 だが父の口ぶりは明らかに、初めてマシェリに話すときのものだ。そして、この父は悪趣味な嘘や冗談を言う人ではない。

 もう、疑いようがなかった。

 自分が今いるこの場所は──何らかの理由で未来が変わってしまった世界なのだ。


「お久しぶりでございます、ダグラス侯爵」

「おお、久しぶりだなマシェリ嬢。今夜はまた、より一層美しいの」


(ほんの数日前にお会いしたばかりですけど)


 時が経つごとに、現実を突きつけられる。

 ため息とともに見上げた白亜の城の出入り口には、すでにたくさんの人が集まって来ていた。


(アディルは……まだ来てないみたいね)


「なんだ、やけにそわそわしているな。そんなに気になるのかい? 四男のことが」

「そんなんじゃございませんわ。……でもお父様、そろそろ先方のお名前くらい教えてくださいませ」

「それは会ってのお楽しみだ。しかし決してお前をがっかりさせはしないから、信じて待っているといい」

「……はい」


 かつん、と床にハイヒールの音が響く。

 マシェリは天鵞絨の絨毯の上に立ち、ぐるりとパーティー会場を見回した。煌びやかなシャンデリアの光が照らす、乾杯のワイングラス。そこかしこで紳士と淑女が愛を語らい、皆、ひとときの夜の宴を楽しんでいる。

 かつての自分はここで理想の婿探しに奔走していた。そして──その願いが今、叶おうとしている。


(そう……わたくしにとって、ここはまさに理想的な世界だわ。たまたまだけれど、もう殿下との婚約は破棄されているし、新たに誰かと婚約しても何の問題もない)


 視線を落とした左手をきゅっと握り締める。


(殿下だってきっと大丈夫。女嫌いじゃなかったし、初恋のお姫様と再会さえできれば、あの腹黒宰相が、きっと上手いことふたりをくっつけてくれるはず)


 考えようによっては、この世界のほうがお互い幸せになれるのかもしれない。

 マシェリはひとつ深呼吸して、淑女の笑みを浮かべた。


「そろそろ彼も到着するころだ。飲み物をとってくるから、お前はそこで待っていなさい」

「はい」


 笑顔の父に頷き、壁にもたれる。


「マシェリ!」


 名前を呼ぶ声にぎくりとして顔をあげれば、夜会服のアディルが近づいてくるのが見えた。

 ドクン、と胸の鼓動が波打つ。


「すぐに会えてよかった。実は、君に大事な話が──」

「ああ大変、わたくしったら大切なものをどこかに落としてきてしまいましたわ!」


 大声でさえぎり、マシェリはその場から駆け出した。


(やっぱり無理! なんか無理! アディルと手を繋ぐとか、ダンスとか恋の駆け引きとか、ましてやキスするとかなんて、わたくしには想像できない!)


 ──自分は、いったいどうしてしまったんだろう。

 人をかき分けて進みながら、マシェリは自問自答しはじめた。


 アディルの外見も中身も間違いなくマシェリの好みで申し分ない。おまけに侯爵家の四男である。これ以上の優良物件、この先どんなに探しても絶対に出てきやしない。この機会をみすみす逃すなんて、クロフォード伯爵家の長子として完全に失格である。


(……っ。それでも……!)


「マシェリ、待って!」


 声を上げたアディルに皆の注目が集まりはじめる。父が気付いて、捕まってしまえばそこで終わりだ。

 分かっているのに逃げるのをやめられないマシェリは、人の影に身を隠しながらテラスへ出た。


 ──そのとたん、手首をガシッと掴まれる。


「ようやく捕まえた」


 マシェリの顔から血の気がひいていく。振り返ることすらできず、ただ……夜空に浮かぶ満月を見上げた。


「君の落とし物を届けにきたよ、マシェリ。それと是非、僕の二度目の求婚を──」

「わっ、わたくし……っ、他に愛する男性(ひと)がいるんです! だから貴方の求婚は受けられません! ごめんなさい!」


 大声で叫びながら、思いきり手を振り払い──ハタ、とする。

 今、『二度目』と聞こえたような。


(それに……この、声は)


「ひどいな。婚約を解消したからって、もう心変わりしちゃったのかい? マシェリ」

「……! 殿下」


 振り返れば、夜会服に身を包んだ皇子様が苦笑いで立っている。

 マシェリは、迷わずその胸に飛び込んでいった。


 視界の端に見えた、呆気にとられるアディルと父には知らん顔をしたままで。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ