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「拾われた恩も忘れ、わたしに牙を剥くとはな。目ざわりだがユーリィの飼い犬だからと見逃してやっていたのに。──どいつもこいつも、甘い顔をすればつけあがる。だから嫌いなんだ」

「ええー、違うよ? ぼくを拾ったのはヴェラドフォルクじゃ」

「黙れ。恩知らずが、まだ戯れ言をぬかすか」


 満月を仰いだヴェラドフォルクが、両手を高く掲げる。

 そのとたん、湖の水面に五つの渦が巻き起こった。


「あれは……! まさか」

「水脈の門を全開にした。三十年前はわたしが不在の上、役立たずの雨季のせいで各国の貯水湖は渇水気味だったからな。水を生み出さず、満杯になるまで水資源を供給し続ければ……どうなると思う?」


 愉しげに口端をあげる顔も、答えの分かっている問いをわざわざ振ってくる厭らしさも。

 父と重なって見えて辟易する。

 魔法障壁を拳で打ち、グレンは歯ぎしりした。


(このテアドラ湖は大陸一広大。……とはいえ、五公国の湖すべてを満たせば確実に枯渇する)


 脳裏をよぎる残酷な未来を裏付けるように、湖畔に立つイヌルの白い毛皮から光が消え失せ、魔法障壁がみるみる薄くなっていく。


「イヌル、この障壁を解け! 水が底をつけばお前は消えてしまうぞ!」

「うん。……でもねえ、ぼく約束したから。王族を……人界のみんなを護る、って……」

「──イヌル!」


 半透明になった水の精霊が、パタリと横に倒れる。

 消えかけた球体の魔法障壁の真下、水を吐き出し続けるテアドラ湖が、浅瀬から徐々に水底をさらし始めた。


 月を映していた水面も、グレンからはもう見えない。


「水が渇れ果てるまで、残り数分。さて、どうする?」

「……ずいぶんと楽しそうだな」

「満月の夜だからさ。すまし顔をしているが、お前も内心、魔物の血が滾っているんだろう? 本能の赴くまま、わたしに向かってくればいい」


 煽るようなものの言い方に、思わず眉をひそめる。

 〝穏やかで思慮深く、理知的〟

 今は亡き前国王──祖父から聞いて抱いていた、ヴェラドフォルクのイメージとはずいぶん違う。


(何千年と生き、人の姿を模してはいても、中身は所詮ただの魔物か)


 水を求め、貢ぎ物を差し出す少女を無理やり娶った忌むべき存在。

 それでも水を失いたくない五公国は、事実を湾曲した物語を伝えることで、罪深い真実から目を逸らした。


(人と魔物。そのどちらでもないこの身が憎い)


 葬式の夜──母が早くに死んだのは、水竜の血を引く子どもを産んだせいだと親族の誰かが言った。

 悲しくて辛くて、蒼い目と鱗を隠すのも忘れ、中庭でひとり泣いていた。

 アズミは何も悪くない。

 頭では分かっていても、幽霊でも見たかのように逃げ出された時、自分の中の何かが壊れた。


(ああ、僕は化け物なんだ)


 『記憶は消しておきましたからご安心を』ビビアンが熱量のない声で言う。あいつが彼女にいつ、何をしたかは分からない。けれどその言葉どおり、数ヶ月後のパーティーで会ったアズミは、屈託のない笑顔で自分に話しかけてきた。

 でももうその時には心は空っぽで、冷え切っていて。アズミと乾杯してグラスが凍りついたのが、初めて使った氷魔法だった。


 きっと、もう二度と恋はできない。

 ひっきりなしに届く妃候補の釣書も、まともに目を通したことはなかった。


(皇位を譲れる者がひとりでもいれば)


 だが皇帝の兄弟にも残念ながら男児の子どもがおらず、フランジア帝国の未来のためには自分が結婚せざるを得なかった。

 当然、最低ひとりは世継ぎも必要だ。愛情など無くていい。ただ、なるべく健康で、元気な女性を妃にしたい。十四の誕生日にグレンがぽつりと漏らしたひと言を、どう勘違いしたのか──皇帝の父がテラナ大公に、〝気が強い女性〟を貢ぎ物として差し出せと言い放つ。

 無論、自分に受け取る気などさらさらなく、水脈の開放を約束した上で送り返すつもりだった。


(まさか、彼女のほうから僕を捕まえに来るとはな)


 半透明から色を取り戻し始めた手で、そっと首元に触れる。


「卵が間に合ったか。やっとわたしの子孫らしく、人間離れした魔力になったな」

「僕は水竜(おまえ)が大嫌いだ。……だが彼女が、マシェリが素敵だと笑ってくれるなら、自分に宿ったこの力を誇ってやる」





 ◆

 ◇





 森を出ると、イヌルが湖畔で倒れていて、湖の水が空っぽになっていた。


「これはいったい、どういうことですの?」

「ぼくが知るわけないでしょ。とりあえず……ほら。気付け薬代わりに飲ませてやりな」


 半眼で応えたアイリスが、魔法で再びティーセットを出す。

 薬湯を冷まして舐めさせると、イヌルが青い眼をぱちぱちさせてマシェリを見た。


「……あれーえ? どうして、姫がここにいるの?」

「さっき戻ってきたんですのよ。そんなことより、殿下はどこへ行ってしまわれたんですの? まさか湖じゃありませんわよね」


 桟橋のある浅瀬には姿が見えない。まるで断崖絶壁のような湖の底を、おっかなびっくり覗き込む。

 すると暗闇の中に、蒼く輝く小さな光が見えた。


「! あれは」

「おかえり、マシェリ」


 突然うしろから目隠しされ、低い声が耳元で囁く。


「ちょうどいい時に帰って来たな。君に、アレの正体を見せてやろう」


 閉じた視界に映ったのは薄暗い洞窟と、剣を手に駆け寄ってくる、翡翠色の髪の少年。蒼く光る剣を振りかざすと、洞窟内から水が一気に溢れ出た。

 ギリギリで水を避け、しかめた顔に見覚えがある。


「殿……下?」

「そう。アレはわたしの子孫の中でも、とりわけ竜の血が濃い。満月の夜のみという条件付きだが、水を生み出す魔法も多少は使える。人の姿をしてはいるが、どちらかといえば魔物よりだ」

「……貴方はなぜ、わたくしにこれを見せようと?」

「なぜ、だと? 君は、まだ分かってくれないのか」


 不意に抱きしめられ、グレンの映像が消え失せる。

 目を丸くしたマシェリを、子どもみたいな膨れ面のヴェラドフォルクが睨んだ。


「どうしてあの時も今も、アレの魔物の姿に怯えてくれない? 泣き喚き、テラナ公国に帰りたいと縋り付いてくれてたら、すぐにでも家族のもとに送り届けてあげられたのに」

「え? あ、あの、ヴェラドフォルク様?」

「それもだ。『様』付けはやめてくれと言っただろう!」


 コツン、と額が触れる。


「……可笑しいな。君に敬称で呼ばれると、なんだかひどく寂しくなる」


 今にも泣き出しそうな顔が、優しいけれど怖い、騎士の笑顔と重なった。

 思わず名を呼びかけた時、流れを止めた雲に気付く。


(景色が、ハリボテに戻った?)


「そろそろ時間だ。……さよなら、マシェリ」


 手を放したヴェラドフォルクが、まるで幻のように消えた。

 


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