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──こんなはずじゃなかったのに。
アイリスと森の中を歩いている途中。ヒビが入り、金貨ほどの穴が空いてしまった卵を前に、マシェリは困惑の表情を浮かべていた。
(ど、どうしましょう。だって、十七歳の体の時と比べて腕が短いし……。落とさないようにと緊張してたら、つい力がこもってしまったんだもの)
大きさはたぶん、テラナ公国産のメロン程度。だがこの卵、見た目以上に重いのだ。
「ア、アイリス。卵のことでちょっと相談が」
「なに? 時間がないから手短に頼むよ。あのふたりは今ごろ、道からはずれて夜光性の虫を追いかけてる。戻って来るまで三分もかからない。……急がないと」
「では、単刀直入に言いますわ。実はこの卵、穴が空いてるんですの」
「穴⁉︎ ……ああ、足の。それなら、ぼくが魔法で直すから問題ないよ。──さ、着いた」
慌てふためくマシェリをさらりとかわし、木の節から水がチョロチョロと流れ落ちてる、小さな泉をしっぽで示す。
(そっちの穴のことじゃないんだけれど……でも、直せるなら黙ってても平気かしらね)
少々ホッとしながら、泉の前にかがみ込む。
「ここが、水竜のケルトの生まれ故郷なんですの?」
「そんなわけないでしょ。その卵は今日、魔界から運ばれてきたの。あの皇帝はたぶん、それをどこかで見てたんだ。でなきゃたどり着けるはずないよ。こんな、雑草と茂みしかない陰気な場所」
鼻で笑ったアイリスの言葉に、マシェリも頷く。
ここは湖の北側に広がる雑木林。人の通れる道は、城のある東から西に抜ける、ぐねぐねと曲がりくねった獣道一本しかない。泉のあった場所は、西の出口近くにある大きな木の下。城からさほど遠くではないものの、子どもが散歩していて、たまたま発見するような場所ではなかった。
「魔界から運んで来たのは、この子のお母様? それともお父様なのかしら」
「それは秘匿事項だから言えません。──はいはい。殻を直してあげるから、卵をさっさとそこに置いて」
(ずいぶんと口の固い使い魔ね。それにこの、真面目で融通のきかない感じ。どこかで……)
アイリスと重なった腹黒男を、ぶんぶんと頭を振って脳裏から消し去る。──ダメダメ。
今は、目の前の卵に集中しなければ。
アイリスから見えないよう、空いた穴を自分のほうに向け、卵を地面に置く。が、飛び出た足はクタッとしていて、まったく反応がない。
もしや、逃げ疲れて眠ってしまったのだろうか? それとも……。
少々心配になり、穴から中を覗き込む。
(……蒼色の、宝石?)
ぱちぱちと瞬きする、きれいな水竜の双眸が、マシェリをじっと見つめてきた。
「ア、アイリス! 水竜が、卵が」
「今度はなに? あとで聞くから、そのまましっかり押さえてて。──なにしろ、水竜の寿命八十年分の修復魔法だからね。集中しないと」
「……はちじゅうねん……」
まぶしく煌めくしっぽを見て、マシェリはごくりと喉を鳴らした。ここで下手に横槍を入れて失敗でもしたら、代わりの対価は支払えそうにない。
(ま、まあいいか。どうせ、サラが張り付いて真っ黒なこの姿じゃ、見ても人相は分かりませんわよね。それでなくとも幼女の姿だし)
そう自分に言い聞かせつつ、アイリスの魔法でピカピカになった、まだら卵を持ち上げる。
「こっちこっち! ほら、水の音が聞こえるだろう? ネア」
「ま、待ってください殿下。……わたし、呼吸が……」
遠くから聞こえる子どもの声に、ハッと振り向く。目を凝らして見ると、暗闇にランプの小さな明かりが揺れていた。
「どうやら来たみたいだね。ギリギリ間に合ったかな」
「卵、泉に置きましたわ」
「よし。ぼくらはこれで退散しよう。……あっ、そうだ」
アイリスが再びしっぽを立て、左右に大きく振る。
ポン、と宙に現れたのは、さっきコーネリアの膝に巻いてあげたマシェリのハンカチ。慌てて受け止めると、にじんだ血が消えていた。
「これ……どうして」
「あんたが皇妃に貰ったハンカチと、魔法で交換したんだよ。この世界に過不足があると良くない影響が出るから」
「過不足?」
「あったはずの物が消え、ないはずのものが現れるってこと」
「この、卵みたいに?」
「そ。でもまあ、無事にあるべき場所に収まったし、水竜皇子も今ごろ元気になってるよ。──さ、戻ろう」
一つあくびをしたアイリスが、泉に背を向け歩き出す。
そのとたん、コーネリアと鳶色の髪の少年が茂みの中から飛び出してきた。
未来の皇帝と皇妃が揃って登場。一瞬ギョッとしたが、特定の人間から存在を隠せる影猫の効果で、マシェリたちの姿は見えていないはず。
(分かってはいるものの、やっぱり多少ビクついてしまうわね)
泉の前ではしゃぐふたりを、横目でチラリと見る。
するとコーネリアの瞳に、涙が光っていた。思わず足を止め、聞き耳を立てて様子を伺う。
「すごいだろ? この卵。きっと、ヴェラドフォルクが産み落としていったんだ!」
「ヴェラドフォルクって雌でしたの? 絵本で読んだ雰囲気だと、雄っぽかったけれど」
「うーん。僕もまだ会ったことないから、雄か雌かは分からないな。でも、どっちでも産めるのかもしれないよ。だって竜だし」
「そう……ですわね。たしかに、竜なら雄でも産めそうですわ」
真剣な顔でこくこく頷き合うふたりを見て、笑うのを必死に堪える。これをヴェラドフォルクが聞いたら、きっと激怒することだろう。
(でも、特に問題なさそうね。思い過ごしで良かった)
「なにやってんの? 早く来なよ。合図の鐘が鳴る前に水竜皇子と合流して、元の時間へ帰らなきゃいけないんだから」
『にゃあーあ……』
「サラ? ご、ごめんなさい。体を二分割してるから、あまり離れると辛いんでしたわね」
アイリスに触れて影を一つに繋ぎ、サラを子猫の姿に戻す。
ひとりと二匹で再び歩き出すと、その背後で少年の声が上がった。
「……どうして! なんで、僕とは結婚できないなんて言うんだ? ネア!」
「ご、ごめんなさい、殿下。実は今日、パーティーが始まる前にお父様が陛下とお話して……もう、決まってしまったことなんです。体の弱いわたしでは、王太子妃候補として相応しくない。婚約内定は取り消す、と」
「──そんなこと、僕は一切聞いてない!」
拳を地面に叩きつけ、蒼い軍服姿の王太子が立ち上がる。
あどけない少年の顔に豊かな髭はまだ無く、悲しみに濡れた瞳でコーネリアを、元婚約者を見つめていた。
(……ああ、だから)
木の陰で棒立ちになり、無意識に呟く。
「何が『誕生日おめでとう』だ! 父上もラドシエル侯爵も、上っ面の愛想笑いと贈り物でご機嫌取りして誤魔化して。その前に、僕らの婚約を無断で解消してたなんて……! 絶対に許さない‼︎」
「──殿下!」
走り去っていく後ろ姿に、目に涙を溜めたコーネリアが力いっぱい叫ぶ。
(だから彼は、父である国王を玉座から引き摺り下ろし、皇帝になったのだ。誰にも何も言わせず、彼女を妃にする。……ただ、それだけのために)
──この先きっと、何百、何千という兵や民が犠牲になるのだろう。
けれどそれが分かったところで、止める術などない。
マシェリは熱くなる瞼にハンカチをぎゅっと押し当て、震える唇を噛み締めた。