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「意地悪ですわね。ビビアン様は」
口を尖らせ、頰を染めた顔でそっぽを向く。本当に、姿形だけは愛らしいご令嬢だ。
だがあの皇太子は、女性の外見に惹かれたりはしない。気の強い女も、アズミ公女で懲りているはず。
公私ともに長くそばにいた自分が、グレンのことは一番よく解っている。彼は常に人を、特に父である皇帝を冷めた目で見ていた。色や欲に溺れ自分を見失ったり、禁忌を破ることなど絶対にない。──そう、思っていた。
(どうやら殿下は、この跳ねっ返りを本気で愛してしまったらしい)
なんとも物好きな、そしてはた迷惑な話だ。
「お褒めいただき、ありがとうございます。──さ、早いとこ会場の控え室に行っちゃってください。フローラ様が首を長くして待ってますよ」
「ええっ⁉︎ そ、それって本当の話でしたの?」
「もちろん。わたしは、嘘が嫌いですから」
こわばる顔を気取られぬよう、にっこり微笑む。
すると何を思ったのか、マシェリが頰を引きつらせた。
相変わらず無礼な女だ。
貼り付けた笑みのままドアを開け、サラとともに送り出す。
(殿下のため、わたしがして差し上げられるのはここまで。……あとは神に祈るしかない)
閉めたドアに寄りかかり、大きく息を吐く。
そのとたん、大きな手で全身を鷲掴みにされたような圧を感じた。──息ができない。
魚みたいに口をぱくぱくさせながら、床に転がる。
「人間はひ弱だな。この程度の魔力で死にかけるのか」
「……ヴェラド・フォルク……!」
「精霊使いごときが、このわたしを真名で呼ぶな。不愉快だ」
低い声とともに現れた人影が、腕組みをして自分を見下ろす。
「どこにいようと人界ではルディと呼べ。特に、我が妹のユーリィの前では絶対にだ」
翡翠色の髪の下で蒼く光る右眼。真珠のような光沢をもつ白い肌の顔立ちは、男にも女にも見えた。
蒼い衣のよく似合う、美しい天使の姿を象りながら、その上に纏っているのは禍々しいほど強大な竜の魔力。
人界の神とされる存在──左眼の蒼竜石を遺し、湖に沈んだはずの水竜がそこに立っていた。
「……失礼いたしました。ルディ様」
「まあいい。今日はお前の飼い猫が頑張ってくれたしな」
ヴェラドフォルクが指を鳴らすと、一気に体が軽くなる。
ビビアンは、二つの意味でホッとした。一つは呼吸、そしてもう一つはこの水竜がサラに対して油断していること。
(『影猫』に全身を覆われた主人は、特定の相手から完璧に姿を隠すことができる。魔王クラスの竜の魔力をもってしても見つけ出せない)
最悪、サラにマシェリを攫わせる算段だ。ヴェラドフォルクは怒り狂うだろうが、どれだけ痛めつけられようと構わない。
どうせ、殺そうとも死なない体なのだから。
「あの愚か者がマシェリに手を出すことくらい、予想はついていた。彼女が水竜の卵を逃した時、それを理由にさっさとテラナ公国に帰すべきだったんだ」
「申し訳ございません。……まさか、イヌルが彼女に従うとは思わなかったもので」
「わたしに口ごたえするな、人間」
細く長い指先が、顎を掴んで持ち上げる。
ヴェラドはそのまま、冷たい唇をビビアンに重ねてきた。
「……!」
「どうだ、喉を通るのが分かるか? わたしのかわいい分身が」
返事は、ゴクンと鳴った喉に消えていった。ぬるりとした何かが、蠢きながら体の奥へと入り込んでいく。
「これは……まさか」
「二度とは言わぬからよく聞け。次にわたしの命令を違えた時、貴様の命はなくなる」
その言葉にピンときた。──『竜の呪い』か。
誓約を破ると、相手を死に至らしめる恐ろしい呪いだ。
だがこれも自分には無効。死にゆく呪いと生かされ続ける呪い。どちらが勝つか賭けてみるのも面白いが、蒼竜と黒竜ではおそらく勝負にもならないだろう。
(まあ、勝ったところで嬉しくはありませんがね)
つい綻びそうになる口を、きゅっと引き結ぶ。
「肝に銘じておきます。それで、次は何をすればよろしいのですか?」
「わたしがいない間、二人の大公を見張っておけ。一応結界は張っていくが、ルシンキの大公は魔力が多少強いからな」
「もうひとりはカイヤニの大公でしたか」
「そうだ。ルシンキの大公は魔物の密猟と密売。買い取っていたのがカイヤニの大公のほうで、見世物小屋で働かせたり、殺して毛皮や剥製にしていたらしい。証拠もすべて揃っている。……重大な、平和条約違反だ」
テーブルに頬杖をつき、ヴェラドフォルクがため息を吐く。背が高く足も長いため、座ると少々窮屈そうだ。
「魔界からの捕縛礼状もやっと下りたし、ふたりとも『檻』に突っ込んで連行する。何かの罰で済めばいいが、無理ならそこで終わりだろうな」
「終わり……って、まさか」
「もちろん処刑だ。多数の魔物に危害を加え、殺めた事を魔王は烈火の如く怒っているし、わたしとて同情はしない。魔界で隠居生活を送ってたところを人界の調査に駆り出され、六年以上も人間のふりをするハメになったのだから。おかげで、残り少なかった寿命がさらに縮んだ」
ヴェラドフォルクが立ち上がると、宝石のような艶髪がさらりと背中に流れる。
彼は男であるはずなのに、色香に当てられ、くらくらしてしまう。ついビビアンが目を逸らすと、ヴェラドの紅い唇が弧を描く。
「惚れても無駄だぞ。わたしの愛はすべてユーリィのものだからな」
くすくすと笑いながら、ビビアンの顎をつつ、と指先で撫でる。
この水竜の奇行は多々あれど、ユーリィとの兄妹設定は特に謎だらけだ。
(竜は長命だが、不老不死ではない。もしかしたら、多少耄碌してきてるのか?)
もし自分の勘が当たっているなら、あのふたりのために、まだできることがあるかもしれない。
「……マシェリ様のほうは、どうなさるおつもりですか?」
「さっき傀儡を用意してきた。少々手荒だが『檻』に封印し、左手の〝蒼竜紋〟を消す。アディルの怪我が回復しだい、ふたり一緒にテラナ公国へ帰国させる予定だ」
「アディル、とは何者なんです?」
「テラナ公国の侯爵家の四男で、妃候補の件さえなければマシェリと結婚するはずだった男だ。彼女のエスコート役として、早めに皇城へ呼びよせておいたのに……あの皇帝は、どこまでも愚かな男だ」
吐き捨てるように言いながら、花瓶の花を無造作にむしりとる。
床にヒラヒラ落ちた花びらを見下ろす、蒼い右眼が暗く光っていた。
「あの皇帝と皇太子に、わたしの血が流れてるのかと思うと反吐が出る。──貢ぎものへのささやかなお返しと思って、せっかく水を豊かに与えてやったというのに。感謝の気持ちも忘れ、自分たちの欲に溺れて水脈を利用した挙句、他国を支配し蹂躙し続けていたとは」
「ま、待ってください! 陛下はともかく、殿下の方は他人を踏みつけになど」
「黙れ」
長い手を伸ばし、ヴェラドフォルクがビビアンの首を掴む。凍てつくように冷たい魔力の風が、部屋の中に巻き起こった。
(しまった……! 逆鱗に触れたか)
意識が飛べば、サラとの繋がりを保てなくなる。
──負けるものか。ビビアンは必死で己を鼓舞し、落ちかける瞼をこじ開け続けた。
「あの皇太子は、父親と同じ罪を犯した。蒼竜石を宝物庫から無断で持ち出し、禁忌の魔法を使ったんだ。むろん仕置きはしたが、それで赦されるものではない」
「あの……靴が、なぜ禁忌に……?」
ビビアンの問いに、水竜が蒼い右眼を細める。
「媚薬だからさ。……貴様は、そんなものを愛する女に履かせた男を庇うのか?」