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黒い子猫が毛を逆立て、鳴き声を上げる姿は勇ましかった。
「にゃあっ! にゃあっ! にゃあ──あぁ!」
短い足をめいっぱい突っ張り、寝台から飛び降りた皇帝に向かって威嚇のポーズをとる。
目をぱちくりさせながら見下ろす、マシェリの手のひらの上で。
「サ、サラ。違うんだ。これはその、純然たる愛の行為で」
「にゃっ!」
「たっ、確かに……乱暴だったのは認める。それは謝ろう。だが、マシェリを妻にするのは諦めないぞ。グレンはまだ若いんだし、他にいくらでも相手が」
「にゃっ、にゃ、にゃあーあ⁉︎」
「──分かってる! いくら真剣な愛だとしても、息子の婚約者を奪い取ろうとするなど、悪魔の所業だ。わたしは、悪魔に魂を売り渡してしまった……!」
(魂を売り渡しても、悪魔にはならないと思うけど)
まったく意味が分からない。両手で顔を覆い、寝所の隅でガタガタ震える皇帝を、マシェリは半眼で一瞥した。
「あなた、サラちゃんっておっしゃるの? ……助けてくれてありがとう」
寝台の上に降ろし、顎を撫でてやる。ごろごろ喉を鳴らしながら、サラは手のひらに頭をすりつけてきた。
この反応といい、どう見てもただの猫だが、影に隠れていたということは、魔物か、イヌルと同じ精霊の類なのだろう。
マシェリは床から魔法の靴を拾うと、丁寧に履き直した。ぴったりと爪紅の足を包み込む透明なハイヒールに、なぜか鎖付きの足枷がだぶって見える。
ふと口元を綻ばせて立ち上がった時、叩扉の音が二回響いた。
「ビビアンです。陛下、ルシンキとカイヤニから先ほど大公が到着いたしました」
「ずいぶん早いな。分かった、今行く」
「それと、つかぬことをお伺いしますが、うちのサラがそちらにお邪魔していませんか?」
「あ? ……ああ。サラならここに」
マシェリにぴったり寄り添う子猫を、皇帝がそろそろと振り返る。「ハーッ!」と、また威嚇され、ビクッと肩が跳ねた。
「さっ、さっきからずっといる! 早いとこ引き取ってくれ。コーネリアに睨まれてるみたいで、もう限界だ。耐えられない」
「御意。──では、失礼致します」
静かに扉を開け、入り口で礼儀正しく一礼したのは、紺色の衣を着た美しい少年だった。
白銀の髪に赤橙色の瞳。肌は白く、フェイスベールも手袋も着けてない。マシェリが知る、影のような姿のビビアンとは似ても似つかぬ別人である。
「久しぶりに見たな、その姿」
「ええ、もう七年になりますか。皇妃様がお亡くなりになった後、サラはずっとわたしに張り付いておりましたから」
「にゃっ!」
「迎えに来たよ、サラ。……おや。いらっしゃったんですか、マシェリ様」
前言撤回。
どれだけ外見が違っても、嫌味たらしい口調と目付きは、腹黒宰相のビビアンそのままだった。
「足が痛いと言うので、わたしがマッサージしてやってたんだ。他意はない」
「んにゃっ⁉︎」
「ええ。無論、わたしは陛下を全面的に信じます」
(この男……皇帝の命令とあらば、例え不正があったとしても、黒を白だと言い切るんでしょうね)
尻尾を振る駄犬を冷めた目つきで見ながら、マシェリはドレスのリボンを結んだ。
「そういえばマシェリ様。さっき、フローラが探してましたよ。フランジアの挨拶の作法を叩き込む、とかおっしゃってて」
「フローラか……怒らせると後々面倒だ。マシェリを連れて行ってやれビビアン。ああ、サラを忘れるなよ。絶対にだ」
「御意。──では、参りましょうマシェリ様」
サラを肩に乗せ、ビビアンが扉を開ける。
ちらっとこちらに向けた涼しげな瞳が、微笑って見えたのは気のせいだろうか。
「……ビビアン様、なんですよね? 本当に?」
「文法が間違ってます、疑問形で念押ししないでください。……ちょっとこちらへ」
素早く廊下を見回したビビアンが、近くのドアを開け、マシェリの手を掴む。
あっという間もなく部屋の中へ引き入れられ、声も出せずに呆然としていると、カチャリと鍵をかけられた。
「ビ、ビビアン様? いったい何を」
「そんな、警戒心剥き出しの顔で見ないでください。わたしの矜恃が傷付きます。……はみ出た口紅を拭いてあげますから、少しだけ顔を上げて」
「にゃ」
明るい部屋で見ると、サラの毛並みはつやつやしていた。ビビアンの頭の上にちょこんと乗っかり、ご機嫌な様子で鳴き声をあげる。
(『大丈夫だよ』って言ってるみたい)
「ええ。お願いします、ビビアン様」
「マシェリ様のこんな顔、殿下に見られたら大変ですからね。宮殿に血の雨が降りかねない」
ビビアンはポケットから取り出したハンカチで、優しくマシェリの口元に触れた。
見つめる赤橙色の瞳が、物言いたげに揺れている。マシェリは少し考えた後、口を開いた。
「未遂、ですわよ。キスだけです。殿下が気にするような事は何も」
「それでも十分殿下は気になさいます。……貴女という女性は、男というものを全く分かってらっしゃらない。念のため、サラを影に隠しておいて正解でしたね」
「影に……隠す?」
「サラは『影猫』という精霊なんです。護衛として人の影に潜り込ませたり、こんな風に、体に纏わせる事もできる」
パチンと指を鳴らすとサラの小さな体が分散し、ビビアンの頭から爪先までを黒く包み込む。銀髪と緑色の瞳に黒い顔。フェイスベールを装着すれば、いつもの腹黒宰相だ。
「この通り、色々と隠せるので非常に便利なんです。何しろ、フランジアの宰相というだけでしょっちゅう命を狙われるものですから」
「ビビアン様は精霊使いでしたのね」
「一応。ですがわたしは宰相の方が向いてますので、そっちは副業のようなものです。サラも、護衛をしていた皇妃様が亡くなってからすっかり元気を無くしてしまって。わたしにしがみついてばかりでしたし」
しみじみとビビアンが語る言葉に、マシェリは首を傾げた。
「でもさっき、陛下に向かって元気にシャーシャー唸ってましたわよ?」
「それは貴女のおかげです。昨日の夜、皇妃様の意思を受け継ごうと動いてくださったでしょう。サラは、きっと嬉しかったんですよ。……わたしでは、余った果物を廃棄と称して孤児院へ届けることくらいしかできませんから」
「ビビアン様……貴方は」
「勘違いしないでください。わたしは今も貴女が皇太子妃として相応しいとは思っていないし、正直、気も合いません」
パチン、とビビアンがもう一度指先を鳴らす。
霧散した黒い影がひとところに纏り、ちょこんと座る子猫の姿を象る。
「ただ、この子は貴女を主人にと望んでいる。……そうだろう? サラ」
「にゃっ!」
床を蹴ったサラは、マシェリの肩へ飛び乗ると、ごろごろと喉を鳴らして頰にすり寄った。
(かっ、可愛い……! で、でも。この子はビビアン様の精霊なのよね。ペットは飼い主に似るって言うし、もしや中身はけっこう腹黒子猫ちゃんなんじゃ……?)
そんな生き物に護衛を頼むのは、一抹の不安がよぎる。眉根を寄せるマシェリに向かって、ビビアンがコホンと咳払いした。
「陛下除けにサラは適任ですよ。ずっと一緒にいたせいか、サラは皇妃様と性格や雰囲気が似ているらしくて、サラに鳴かれるとコーネリア様に責めたてられているようだと陛下は怯えてらっしゃいますから」
「そんな、虫除けみたいにおっしゃらないでくださいませ」
真っ直ぐにマシェリへの想いをぶつけてくれたグレンと、一度も真摯に向き合おうとしなかった。
ビビアンに言われるまでもなく、今の自分が皇太子妃に相応しいとは思えない。
「わたくしには、この子に付いてもらう資格なんてありませんもの」
「おこがましい事を。……それを決めるのは、貴女ではありませんよ」
皮肉めいた口調で言う、ビビアンが赤橙色の瞳を細め微笑んだ。




