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「エクスターって……まさか、あの侯爵家?」
「はい。そしてわたしが、薬師の四男です」
アディルに爽やかな笑顔で言い切られ、マシェリは眉を吊り上げた。
「ふざけたことをおっしゃらないで。貴方は、わたくしの家の」
「ずいぶんと賑やかだな」
突然割り込んできた声に、背筋がぞくりとする。
知らぬ間にドアが開き、皇帝がマシェリのすぐ背後に立っていた。
肩に大きな手を回され、そのまま抱きすくめられる。
「へ、陛下……? あの」
「お前は確か、ルディが連れて来た薬師だったな。テラナ公国の出身だとは聞いてなかったが」
「自己紹介が不充分で申し訳ありません。ルディ様とは以前、テラナ公国でお会いする機会があり、その時にお声掛けしていただいたんです。」
「侯爵家の子息なら、夜会に出ることぐらいあっただろう。マシェリと初対面だというのは筋が通らん」
淡々とした口調ながら、アディルを見る皇帝の目の奥は物騒に輝いていた。
一瞬言葉に詰まったアディルが、意を決したように口を開く。
「わたしは妾腹の子なのです。父がわたしを実子と認めたのはごく最近、母が病で亡くなった後のこと。……ですから夜会への出席はおろか、社交界デビューもしておりません」
仄暗い過去を吐露する、縹色の瞳と視線が出会う。
だがアディルは、すぐにマシェリから目を逸らした。
(……なぜ?)
彼の家庭事情は知らなかった。けれどアディルは間違いなく、テラナ公国の実家で庭師をしていたはずだ。なのになぜ、マシェリを見るなり『初めまして』と言ったのか。それに──それにどうして。恋人でもなく、しかも皇太子の婚約者となったマシェリを、『諦めない』などと父に宣言したのだろう。
聞きたいことや言いたいことがありすぎて、上手く言葉が出てこない。
「なるほど。今の話が本当なら、マシェリと面識がないというのも頷ける」
「はい、神に誓って本当です」
「神にではなく、死してアンゼリカにでも誓え」
皇帝が剣を抜き、アディルの喉元に突きつける。
「わたしを謀ろうとした、懺悔とともにな」
「! どうして母の名を」
「マシェリは皇太子妃候補だ。屋敷の使用人も含め、身辺調査は念入りに行われている」
「……」
無言で俯くアディルの額に、汗が伝った。
今さらながら思い知る。
自分を拘束しているこの腕が、手が。剣を握り、攻め入った他国の兵をなぎ払い、幾人もの命を奪ってきた皇帝のものなのだということに。
「ルディの奴がここ最近、陰でコソコソ動いているのは知っていた。……さあ吐け。お前たちは一体何を企んでいる?」
「陛下? お、おやめください。アディルは何も」
マシェリが伸ばしかけた手を、皇帝が掴む。
ハッと顔を上げたとたん、凶暴に光る瞳に射抜かれ、身動きがかなわなくなる。
「どうにも疑わしい。マシェリ、お前が本当にグレンの婚約者に相応しい女かどうか、わたしみずから確かめてやろう」
「確かめる……?」
「そうだ。その身に穢れがないかどうかを、たっぷりと、な」
皇帝の手が、戸惑うマシェリの頰を包む。アディルがガタンと椅子を立った。
「やめろ! マシェリに何を」
「そこを動くな薬師」
アディルの喉元を、剣の切っ先がかすめる。
血が一筋、首を伝った。
「──アディル!」
「マシェリ、お前もだ。死にたくなければ大人しくわたしに従え。……これは、皇帝命令だ」
剣をおさめた皇帝が冷ややかに言い、マシェリを抱き上げる。その肩越しに、首元を押さえたアディルが床に崩れ落ちるのが見えた。
一体何がどうなってるのか。頭の中が混乱し、冷静な判断ができない。
大声で呼び止めるジムリを無視し、ズカズカと医務室を横切ると、皇帝は出入り口の扉を乱暴に開いた。
(どこへ行くつもりなのかしら)
不安だけが胸の中に渦巻く。
「いいか。わたしがいいと言うまで、誰であろうと正殿への立ち入りは許さん。……意味は分かるな?」
「御意」
廊下の護衛が頷き、足早に立ち去る。
マシェリは青ざめた。自分が今どんな状況にいるか、理解するにはそのひと言で十分だった。
(確かめるって、まさかわたくしの体を)
逃げ出したくとも、これは皇帝命令。
逆らう事は許されない。それがどんなに理不尽で、人道に外れた行いであったとしても。
組み敷かれた寝台の上で、マシェリは唇を噛んだ。
見上げた天蓋の月と太陽が、皇帝の髭面に遮られる。
「そう睨むな。ドレスのホックを外しづらい」
「……おそれながら陛下。わたくしの身の潔白を証明するのに、どうして裸になる必要が?」
「女の体が男を知ったかどうか。至って簡単に、それでいて確実に判別できる方法がある。服を脱ぐのは、そのための過程の一つだ」
カーテンが閉じたままの薄暗い空間に、ふたりの衣擦れの音だけが響く。蒼色を基調とした寝所には、どこかひんやりとした空気が漂っていた。
シーツも、マシェリの肌を荒々しく触れてくる手も冷たい。
(こんなことなら一昨夜、殿下の右側で眠ればよかった)
ふとよぎった思いに、自分自身で驚く。ここへ来て真っ先に頭に浮かんだのは、皇帝に斬られたアディルではなく、昨晩キスで別れた皇子様の笑顔だった。
自分はなんて薄情なのだろう。そして、なんて愚かだったのだろう。
こんなことになるまで、気付かなかっただなんて。
「身辺調査をおこなった、なら……わたくしが潔白なことくらい、陛下はご存知なはずじゃありませんか」
「やったのはルディだ。忙しさにかまけて提出を怠っているのかと思ったら、管理している宝物庫に隠してあった。それを見つけたのが今朝。さっきの薬師の件は当たりだったが、調査報告の内容すべてが真実かどうかは疑わしい」
下着の裾をたくし上げ、皇帝が手を差し入れてくる。
「思ったより反応が薄いな。……怖くないのか?」
「裸を他人に見られる事など、慣れていますわ。わたくしはドレスもひとりでは着られない、貴族の令嬢ですもの」
「なるほど。……その言葉、後悔するなよマシェリ」
皇帝が耳元で囁き、首筋に舌を這わせてくる。マシェリは血が滲むほど唇を噛んだ。
「我慢しないで声を出せ。楽になれるぞ」
「……! だ、れが」
「ふふふ、相変わらず……いや。今のお前はただの女か」
足を撫で上げながら、愉しげに笑う。
履いていた魔法の靴が、片方脱げて床に転がり落ちた。
「少しばかり予定とは違うが、これはこれで悪くないな」
「……予定?」
「グレンの求婚は正直想定外だった。わたしは初めから、お前たちを結婚させるつもりなどなかったんだよ、マシェリ」
「それってどういう……」
「お前はわたしの林檎だ。グレンなら、他にいくらでも相応しいお姫様がいる」
胸がひどく痛むのは、のしかかってくる体の重みのせいだろうか。
「今夜のパーティーに、ブルーナ公国のアズミ公女を招待した。彼女が、グレンの初恋相手というのは知っているか?」
「ええ。……話だけは」
「グレンが誰とも婚約しなかったのは、おそらくアズミへの未練のせいだろう。ふたりきりで会いさえすれば、必ず上手くいくはずだ」
(どこかで聞いたような話ね)
思わずマシェリがふっと笑うと、その頬に皇帝が手を伸ばしてくる。
「お前はわたしだけのものになれ、マシェリ」
噛みつくように何度も唇を重ねられ、息継ぎもままならない。
溺れたような呼吸困難に陥りながら、マシェリは涙で濡れた目を逸らした。
歪んだ視界の中に浮かぶ、二つの青い光。
目を凝らしてよく見てみると、暗闇の中で光っていたのは、小さな猫の眼だった。
(もしかして……あの時の仔猫?)
「どこを見てる」
再び顎を掴まれた時、黒い毛玉がマシェリの影から飛び出した。