白いのと黒いのと
倭建を弔うために、倭から妻や子供たちが能煩野にやってきました。
日本各地を飛び回っていたわりには、倭建は弟橘以外に妻が5人(大橘と美夜受は含まない)、子供が6人いるのです。
妻たちが倭建の墓を作って泣いていると、墓から白い鳥が飛び立ちました。
この鳥、絵画ではよく、英語で言うところのswanが描かれていますが、『記』では「八尋白智鳥」となっています。
「八尋」の「尋」は長さの単位で、1尋=8尺、つまり約19.2m(1尺≒30cmで換算)の白い千鳥という訳です。
千鳥は全長20cmにも満たない小さな可愛い鳥ですが、それが全長20mとは、巨大な小動物の態で、千鳥饅頭もびっくりでしょう。
まあ、「八尋」は厳密な寸法ではなくて、漠然と「かなり大きい」という意味なんですが。
『紀』には「白鳥」と書いてあるものの、古代ではswanは「鵠」と呼んでいたので、この「白鳥」がswanかどうかは微妙な感じです。
それはさておき、巨鳥は一度、河内の志幾に降り立ち、その後再び飛び立って、空の彼方へ消えていきました。
「倭が懐かしい」と歌った割には、故郷に帰っていません。
一方、『紀』では、まず、倭の琴弾原に降り立った後、河内の旧市邑にも降り立って、天に昇ったとされています。
『記』と『紀』に見られる、景行との仲の違いが、ここにも表れているようです。
もっと如実なのが倭建の死後の扱いで、『記』では倭建の系譜を書いてから景行が137歳(!)で死んだとあるだけで終わっているのに対し、『紀』では景行が倭建の死を嘆き悲しみ食事も喉を通らなくなり、倭建を記念して武部という部民(貴人に服属し労役や生産物を提供する集団。平たく言えば古代の国家公務員)を創設し、ついには「愛しい我が子が通った場所に行きたい」と言い出し、伊勢やら東海やら関東を巡る始末。
この待遇の差は何でしょう。謎です。
また、倭建が関東から連れ帰った蝦夷は、初め、伊勢神宮に献じられますが、日夜騒いだので、倭比売に「神宮に近付いたらあかん!」と言われ、御諸山(三輪山)に移されたものの、そこでも騒動を起こし、景行によって播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の5ヶ国に送られ、各地の佐伯部の祖先になりました。
『播磨国風土記』には、神前郡の大川内と湯川にそれぞれ、「異俗人が30人ほど住んでいる」と書いてあります。
この「異俗人」は蝦夷の事だというのが通説で、常陸国風土記→日本書記→播磨国風土記という見事な連携が見られます。
それにしても、可愛がっていた甥っ子の戦利品なのに、倭比売の態度が冷たいです。
倭建は倭比売の言いなりで操られていたように思えます。
「ヤマトタケル物語」の陰の主役または黒幕は倭比売なんじゃないでしょうか。




