後書きのようなもの
後書きと言うより戯言ですが……。
前回書いた、倭建に対する「待遇の差」の疑問について考えます。
『記』が成立した712年と、『紀』が成立した720年の間に、一体何があったんでしょう?
結論から言うと、倭建は物部氏が伝承した英雄だったから、と考えています。
以下、検証を書いていきたいと思います。
まずは、関係年表を挙げます。(敬称敬語略)
後でその都度取り上げますので、飛ばして読んでも構いません。
587年4月:仏教推進の蘇我馬子に物部守屋と中臣勝海が反対
587年6月:「丁未の変」蘇我馬子が物部守屋を倒す
626年5月:蘇我馬子が死去
644年:蘇我倉山田石川麻呂が中大兄(天智)と中臣鎌子(鎌足)に協力
645年6月:「乙巳の変」中大兄と中臣鎌子が蘇我入鹿を殺し蝦夷が自害
649年2月:蘇我倉山田石川麻呂が自害
669年10月:中臣鎌足が藤原の姓を受け、翌日に死去
671年12月:天智が死去
672年7月:「壬申の乱」大海人(天武)が大友(弘文)を倒す
686年9月:天武が死去、鸕野讃良(持統)が称制
690年1月:持統が即位
697年8月:持統が文武に譲位、文武が藤原不比等の娘・宮子と結婚
701年12月:首(聖武)が誕生
703年1月:持統が死去
707年7月:文武が死去
707年8月:元明が即位
708年3月:藤原不比等が右大臣に昇進
●712年1月:古事記が完成
714年8月:首が立太子
715年10月:元明が元正に譲位
717年:首と藤原不比等の娘・安宿媛(光明)が結婚
●720年5月:日本書記が完成
720年8月:藤原不比等が死去
721年12月:元明が死去
724年3月:元正が聖武に譲位
次に、関係系譜を載せます。(数字は即位順)
同じように、参考程度に見てください。
さて、年表から分かるように、712年から720年の間には、元明が元正に譲位し、藤原不比等が着実に権力掌握を進めています。
言うまでもありませんが、藤原不比等は中臣鎌足の息子です。
11歳で父親を亡くし、壬申の乱の時は13歳なので連座を免れたものの、中臣一族が没落したため、下級官吏からスタートしたと見られています。
そこから、大宝律令制定の功績や外孫の誕生で、一気にトップへ昇り詰めていきます。
そんな中、『紀』が完成しました。
(藤原の姓は不比等の子孫だけ名乗り、それ以外は中臣のままです)
一方、『記』は天武の時に、各氏族が好き勝手な歴史を伝えているので一本化させようという理由で着手され、天武の姪かつ息子の嫁の元明の時に完成しました。
まだ、不比等は『記』の編纂に口出しできる立場ではなかったと思われます。
『紀』も天武辺りから編纂作業に入ったようですが、本格的に取り掛かったのは持統の死去後で、不比等は根本から覆す事はできないものの、ちょこちょこと話を差し挟んだり変更したりできました。
「話を差し挟んだ」代表例としては、神武東征の時、菟狹津媛を神武の家臣で中臣の祖先である天種子命と結婚させた、というのがあります。
「話を変更した」代表例は、もっと露骨で、神功西征の時、『記』では神託する神功の言葉を建内宿禰が聞く事になっていますが、『紀』では武内宿禰を脇役に追いやり、神功の命令で中臣烏賊津が神託しています。
ここで重要なのはハブにされた武内宿禰で、その理由は武内宿禰が蘇我の祖先だからです。
乙巳の変で蘇我の本家は滅びましたが、傍流の石川麻呂が天智側に付いて生き長らえ、後に自害する羽目になるものの、その血は持統や元明に引き継がれました。
古代においては、母方の力が強いのは周知の通りです。
『記』のヤマトタケル物語は、その支配下で執筆されました。
蘇我が倒した物部の英雄は、粗暴な面が強調され、父親に嫌われ、騙し討ちを連発し、倫理に反する行為までしでかします。
悲哀が漂う台詞も歌も、どこか仰々しくて空々しく、滑稽さえ感じられます。
ところが、持統が死に、元明も体が弱って、娘の元正に譲位すると共に、蘇我も表舞台から姿を消していきます。
それに代わって台頭してきたのが、不比等です。
『紀』ではヤマトタケルは復権され、父親との関係は良好で、時々ミスはするものの概ね優秀で、その死も惜しまれています。
そこで疑問に思うのが、なぜ、中臣がヤマトタケルを復権させなければならなかったか、です。
その理由は、『紀』執筆時には、中臣と物部は一心同体だったから、でしょう。
『紀』には、景行が祈った神として直入物部神と直入中臣神がセットで出てきますし、そんな神話ではなくて史実に近いと判断されるところでも、欽明の時に仏教排斥に動いたのは物部尾輿と中臣鎌子(鎌足とは別人)で、年表にも書いた通り、用明の時に物部守屋と中臣勝海が再び仏教排斥で結託しています。
蘇我馬子に物部守屋が倒されてからも、乙巳の変後の蘇我氏もそうであったように、権力はなくなりましたが物部の子孫は残り、天武の時に物部を石上と変えた石上麻呂は、藤原京から平城京に遷都した時に、藤原不比等から旧都を託されています。
物部は、神武より先に倭にいた饒速日命を始祖とし、中臣は天照大御神の岩戸隠れの時に活躍した天児屋命を始祖とし(天種子命はその孫)、一見繋がりはないように思えます。
ただ、物部に関係が深い石上神宮の祭神である布都御魂大神と同一視されている香取神宮の祭神である経津主大神と対になる鹿島神宮の武甕槌大神を共に中臣の氏神として春日大社に迎えているところから、丁未の変で没落した物部を新興の中臣が乗っ取った以上の縁故があるようです。
その鹿島神宮があるのは常陸国ですが、そこの地誌の『常陸国風土記』には、ヤマトタケルが多く登場します。
(香取神宮があるのは下総国ですが、古代の地形では鹿島の対岸だったという事もあり、香取も多く登場します)
『先代旧事本紀』では、常陸の北部を治める久自国造に、物部の先祖が就任していた事を載せています。
しかも、着任したのは、ヤマトタケルが東征した後に景行を継いだ成務の時です。
さらに、参河国造、遠淡海国造、久努国造、珠流河国造、伊豆国造と、ヤマトタケルが通った国々にも、成務または次の仲哀や神功の時に物部の先祖が就任しています。
『先代旧事本紀』自体が物部と関係する史書と言われていますから、ヤマトタケルが物部の英雄だという有力な根拠になるでしょう。
もっとも、物部がヤマトタケルを無から誕生させたという訳ではないようで、征服した氏族や土地の物語を取り込んで発展させたと思われます。
(余談ですが、石上神宮は物部の武器庫が元になっている説が有力です)
特に、『常陸国風土記』の出てくる建借馬命の賊を騙し討ちして全員焼き殺す話は、直接のモデルになったように見えます。
以上、つらつらと自説を書き連ねましたが、全ては素人が考えた与太話です。
歴史学者さんたちの中には、アマチュアが口出しするのを快く思っていない方がいると聞きます。
しかし、古代史は史料も限られていて手が出しやすい事もありますが、頭の体操程度に想像を働かすのも良いのではないでしょうか。
そこから、思わぬ発見があるかもしれません。




