08
マークはウィリアムを庇うように剣を構え、エリオットを見据える。その目は獣のように血走っていた。一体どうしてトリスタンが急に倒れてしまったのか、彼には皆目見当もつかなかったのだ。
ウィリアムはそんなマークの背後で自ら床に膝をつき、顔を伏せたトリスタンの肩を揺り動かす。
「トリスタン!どうした、返事をしろ!」
「……申し訳……ございません。――急に……眠気が」
「眠気?どういうことだ」
ウィリアムは尋ねる。しかしトリスタンは答えることなくそのまま眠り込んでしまった。だがそれに代わるようにエリオットの声が返される。「睡眠剤だよ」と。
「睡眠剤だと?」
「この部屋の空気に混ぜさせてもらったんだ。とても気化しやすい薬でね。即効性はないけど、二時間も吸えば効果は確実だ。一度眠れば余程のことがない限り八時間は目覚めない」
「――だが、それではお前も」
「うん、そうだね。だから……」
エリオットが何か言いかける。――と同時に、今度はマークがバランスを崩し剣を床に突き刺した。トリスタン同様、彼も強い睡魔に襲われたのだ。マークは剣に身体を預け苦し気に呻く。「どうかお逃げください」――と。そしてその場で気を失ってしまった。
だが鍵はシャンデリアにぶら下がっているのだ。逃げられる筈がない。それにトリスタンとマークを置いて、自分だけ逃げるわけにもいかなかった。
――それにしてもおかしい。何故自分とエリオットは眠気に襲われないんだ。
ウィリアムは自分に歩み寄ってくるエリオットを鋭い眼差しで見据える。けれどエリオットは笑みを崩さない。
「食事に中和剤を混ぜたんだよ。全員分の食事に混ぜたんだけど……そこの二人は食べないだろうと思ってたからね。僕だって伊達に千年も生きてない」
「……卑怯な」
「卑怯?ちゃんと全員分に混ぜたじゃないか。そもそもこれはクリケットでもなければチェスでもない。ルールなんて何ひとつ無いんだ。卑怯もなにもあったものじゃないだろう。
それに、それを言ったら先生なんて僕の何倍も卑怯で卑劣だよ。この期に及んでそんなことを言っているようじゃ、君にアーサーを守るなんて不可能だ。勿論、ユリアだって守れない」
「――黙れ」
ウィリアムはエリオットを心底軽蔑したように吐き捨てた。だがエリオットはそれを気にも留めない様子でテーブルのナイフを手に取り、それをウィリアムの眼前に突き付ける。
「――、何を……」
「大丈夫、君に怪我はさせない。これから僕が使う大切な身体だからね。ただ君、あまり食事に手を付けなかっただろう?もう少し食べてくれないと困るんだよね。このままだと君もそのうち眠ってしまう。折角その身体を手に入れても、眠ってしまったらどうしようも出来ないから」
「……つまり、俺にこの料理を食えと言うのか」
「そう。もしくは今すぐ僕にその身体を差し出すか」
「――断る」
「……へぇ?」
「眠られたら困る?――ならば俺は、敢えてその選択肢を取るまでだ!」
刹那――床に膝をついたままのウィリアムの右腕が動いた。
彼はエリオットから視線を外すことなく、テーブルクロスを掴み一気に引っ張る。並んでいた食器が床に落ち、皿の割れる音と同時にそこに乗っていた料理が散乱した。
「――これでも食えと?」
ウィリアムが凄む。だがエリオットはくぐもったような笑い声を上げた。
「いいね、面白い。今の君はこの千年の間で出会ってきたどの君よりも素敵だよ。頭もよく回るようだね。僕は君の半身として、君の成長をこの目で見られて心底嬉しいよ。……だけどね、ウィリアム。やっぱり君は甘いんだ」
瞬間、今度はエリオットの右手が動く。彼は掴んでいたままのナイフを、勢いよく投げたのだ。だがそれはウィリアムにではなく、トリスタンの太ももへと突き刺さった。
「ぐああッ!」
トリスタンが悲鳴を上げる。いくら薬で眠らされているとは言え痛みには敵わないのだろう。傷口から血が溢れ出し、彼の軍服を赤黒く染めていく。
「何ということを――!」
ウィリアムは今度こを怒りに顔を赤くした。今にもエリオットに掴みかかりそうな勢いで肩を小刻みに震わせる。だがそれでも彼は何とか踏みとどまっていた。ここで自分が切れれば、エリオットの思う壺だとわかっていた。
「君が僕に逆らうからさ。さっきの僕の言葉をちゃんと聞いていなかったのかい?君を傷つけるつもりはないと言ったけど、そこの二人に対してもそうだとは一言も言っていないよ。
とは言え流石の君も今ので理解しただろう?どうして君だけでなく、その二人も共にこの部屋に閉じ込めたのか」
エリオットの冷えた視線がウィリアムに突き刺さる。それはアーサーの夢の中で出会った、あの少年を彷彿とさせた。
「――人質、か?」
ウィリアムが呟けば、エリオットは片方の口角を上げる。
「そうさ。でも大丈夫、内臓はちゃんと避けるよ。罪もない人間を殺すのは流石の僕も躊躇われるからね。それにこんな食事用のナイフで刺したところで、致命傷にはならないし。
――とは言えこれは銀製だ。おまけによく磨き上げられている。刺さればそれなりに痛いだろうな」
「――貴様」
「ははっ、いい眼だ、怒っているね、ゾクゾクするよ。
さて、ではもう一度聞こう。僕に身体を差し出すか?そうすると言うのなら、僕はもう二人を傷つけないと約束する。だがそうでないならば――次はもちろん、もう一人の方だ」
「……っ」
エリオット無慈悲な言葉に、ウィリアムの両目がこれでもかと見開かれる。
「今度は右腕にしようかな。もしくは手の甲でもいいね。二度と剣が握れないように指の神経を絶ってやろうか。君を守れなかっただけでなく剣も握れなくなったとなれば、アーサーの側を離れることは必至。きっと彼は死んでも死にきれないほど絶望するだろう」
「黙れ、エリオット!」
ウィリアムはとうとう激怒した。まさかライオネルとして生きてきたエリオットが、騎士が剣を振れなくなることの意味を理解できない筈がない。それなのにエリオットは、冷酷な表情で平然と言い放ったのだ。
――今俺が頷かなければ、こいつは確実にマークを傷つける。
ウィリアムはそう確信していた。だが、だからと言って素直に頷けるほど簡単な問題ではない。
「許せないって顔だね。なら力尽くで止めて見せてくれよ。その拳で僕を殴り飛ばして――あるいは、僕がやったように君もこの僕を刺せばいい。ナイフなら君の足下に落ちている。
――なぁに、ライオネルはたかが騎士の家系の次男。殺したって誰も文句は言わないさ。せいぜい母親が泣くくらいだろう」
「――っ、黙れと言っている!俺はこのような卑怯な手には屈しない!お前には従わない!」
「くっ――はははは!いい顔だね、ウィリアム!僕が憎いだろう?軽蔑するだろう?だが僕に従わなけえば悪戯に被害を拡大させるだけ。それでも僕に逆らうと?
いいかい、ウィリアム。この際だからはっきり言わせてもらうよ。――僕はね、君が大嫌いだ。この千年の間、ユリアの愛を一身に受け続けてきた君の存在が、憎くて憎くて堪らない。僕の半身のくせに――彼女を見殺しにした記憶を忘れ、何の苦しみも後悔もなくのうのうと生きている君を……僕は心底許せない。ユリアがその器をエリオットと呼びさえしなければ、今すぐ殺してしまいたい程にね。
あの頃の僕に瓜二つのその顔も、彼女をユリアと呼んだ君の声も……忌まわしく幸せだったあの頃の記憶の中のまま。――その眼を見ていると吐き気がするんだ。彼女を惹き付けるその君の眼が。――あぁ、どうして君なんだ、どうしていつも彼女に選ばれるのは僕じゃないんだろうって。……でもそれは仕方ない。元はと言えば僕の撒いた種だから」
怒りに打ち震えながら、けれどその場から動くことが出来ないでいるウィリアムを他所に、エリオットは腰を屈めて床から一本のナイフを拾い上げる。
「だけどさ、それでもどうしても許せないんだ。だって君は、いつだって彼女を泣かせてきたから。君の愛を求め続けるユリアを、裏切り続けて来たのだから」
「……どういう意味だ。お前は何を言っている」
「僕はね、この千年の間ずっと君の隣にいたんだよ。君の側にいる人間の身体の魂の奥底に、静かに身を潜めていたんだ。そうすればユリアの側にいられるってわかっていたからね。君はわからずとも、ユリアは必ず君を見つける。僕の魂の本体を宿した、君のことを――」
エリオットの笑顔が歪んだ。言葉少ななウィリアムの鼻先に、エリオットの握るナイフが据えられる。
「今でも忘れられないよ。最初の転生のとき――君は街の領主の息子だった。僕は君の付き人の身体にとりついて、君の様子を伺っていた。何も覚えていない、思い出す様子もない君を四六時中ね――。そしていつしか君は領主になり……そこにユリアが現れた。
そのときの僕の中に沸き上がった興奮は、君には決して理解できないだろう。屋敷の門の前で涙を流しながら、僕の名前を叫ぶ彼女の姿を目の当たりにしたときの、言葉に出来ない程の高揚感を――。僕は感激した。僕が彼女を覚えていたように、彼女も僕を忘れていない。これぞ運命だと思ったよ。神が僕の願いを聞き届けてくれたんだと……僕らの愛が“死”すらも乗り越えたのだと。
――なのに」
薄暗い部屋で、エリオットの瞳が陰る。鼻先に据えられたナイフから一瞬たりと視線を放すことが出来ないウィリアムの首筋を、エリオットの左手が――その指先が――ゆっくりとなぞった。
その不気味なほどの気持ち悪さに、ウィリアムは背筋を震わせる。
――こいつは、ヤバイ。
そうは思っていても、どう切り返せばよいのかわからなかった。いや、それどころか彼は気が付けば、金縛りにあったかのように指一本動かせなくなっていた。恐らく薬が聞いてきたのだろう……。
首筋をなぞっていたエリオットの左手が、ウィリアムの肩を押し倒す。抵抗することも出来ぬまま、ウィリアムは背中から床に倒れ込んだ。その上に馬乗りになったエリオットの身体が、ウィリアムの身体と重なる。
「君は何て言ったと思う?屋敷の窓から彼女を見下ろしながら、“あんな女は知らない、直ぐに追い払え。二度と屋敷に近づけさせるな、不愉快だ”――と、そう言ったんだ。せめて話だけでも聞いてあげたらどうかと言う、僕の宿主の言葉を一蹴してね」
「……そんなこと、知らない。俺は……何も覚えていない」
「あぁ、そうだろうとも。そんなことは百も承知だ。けどさ、覚えていないからって許されるのか?無かったことに出来るのか?あの後彼女はすぐに死んだんだ。失意の中で流行り病にかかって、あっと言う間に死んでしまった。まだ成人もしてなかったのに。
お前に彼女の苦しみがわかるか?彼女はな、ずっとずっとそうやって生きてきたんだ!僕のせいで――お前のせいで、千年もの時間を深い苦しみの中で生きてきた!お前が事故で死んだときなんて見ていられなかったよ、彼女は水すら飲み込むことが出来なくなり、衰弱して死んでいった。いくら僕の宿主が励ましても無駄だった。彼女には、お前しか見えていないから。彼女の瞳にはお前しか映らないんだから――」
「……エリオット」
ウィリアムに突き付けられるナイフが、小刻みに震えていた。それは怒りのせいなのか、あるいは……。
「お前にはわからない、わかるはずがない。忘れたくても忘れられず――うっかり人に話せば魔女狩りに合うような世界で……。お前を守る為に人を殺す術さえも身に付けた彼女の葛藤を、お前なんかが理解できる筈がない!」
「――っ」
エリオットの声が次第に熱を帯びていく。捲し立てるように、責め立てるように――それはウィリアムに一言も言葉を許さない。
「……僕は君が恨めしい。人殺しさえ厭わない彼女の愛を一身に受けるお前が心底憎い!だがそれも今日までだ。ようやく僕は報われる。僕らの魂を一つにし、君の身体を僕のものにしてね。
さぁウィリアム、君はどうする。このままじゃお前の負けだ。こんなところで足止めをくらっているようじゃ、先生を相手に戦うこともアーサーを守ることも出来ない。無論、ユリウスを説得するなんて不可能だ。ほんの一瞬の迷いや躊躇いが命取りになる。僕はユリアを失ってそれを学んだ。
――だがお前はどうだ。無様に床に転がり僕に見下ろされている君は、何の力も持たない只の人間でしかない。僕やユリアの生きる世界は、君の生きてきた世界とは違う。思考も、価値観も、生きる目的だって全く違う。同じ景色を前にしたって、そこから何を感じるかは天と地ほどの差があるんだ。
親の引いたレールの上で貴族という傘を着て、権力さえあれば全てがどうとでもなる社交界ではないんだよ。自らの手を血に汚す覚悟がなければどんな誓いも全くの無意味。僕らの魂は永遠の眠りにつき、ユリアは未来永劫世界を彷徨うことになるだろう。
だが僕は絶対にそんなことにはさせない。僕は今度こそ彼女を手に入れる。君の身体で――エリオットとしてユリアとこの世界で生きるんだ。その為には誰を傷つけることも厭わない。それが、千年前に僕がこの石に願った誓いだ。君には――いや、誰一人として僕を止めさせはしない!これは――その為の鍵なんだからな!!」
エリオットの罵声にも似た声が部屋に響く。それと同時に、エリオットのシャツの中から溢れ出す白銀の光。それは部屋の暗闇を打ち消すように白く輝き、ウィリアムの眼を眩ませた。
「――な」
――何だ、この光は!?
ウィリアムは反射的に両目を庇う。だが、直ぐに視界は白以外の何も見えなくなった。
同時に意識が遠退いていく。それは嫌がおうなしに、少しの抵抗も許さなかった。
――く……そ。
薄れいく意識の向こうから、エリオットの声だけが頭に響く。
「――おやすみ、ウィリアム。……君の、負けだ」
そしてその言葉を最後に、ウィリアムの意識は途切れた。




