07
「次の王はローレンスだ。父上が身罷られその時が来たら、僕らは国を追われることになるだろう。いくらローレンスが止めようとしたところで、どうにか出来るものではないからな」
「……そんな!」
そう、リッキーゼンがユリウスとソフィアを野放しにしておく筈がない。何故ならユリウスは、ソフィアは、“普通の人間”ではないのだから――。生かしておくには、あまりにも危険すぎるのだから。
「……僕は近いうちに王位継承権を返上し、母上を連れて国を出ようかと考えている」
「――っ」
ユリウスの苦しみに満ちた声、そしてその瞳に揺らめく黒い影に、ナサニエルは絶句する。
「それは……亡命と…………いう?」
「そんな格好のいいものではないさ。
ナサニエル……僕はね、本音を言ってしまえば、この命一つでローレンスの未来が保証されるというのなら、リッキーゼンにくれてやってもかまわないと……そう思っていたんだよ」
「――な」
苦渋か、それとも諦めか……ユリウスの怖い程に穏やかな声が、静かに部屋の空気を震わせる。
「けれど……それでは母上が一人きりになってしまうだろう?
母上が故郷を離れてから凡そ三十年。それは僕やお前や……父上にとっては十分すぎる程に長い時間だっただろう。けれど、母上にとってはそうではない。何百年か――それ以上か……果てしない時間をただ何事も無く生きてきたであろう母上に、この三十年はあまりにも短く、そして多くのことがあり過ぎた」
ユリウスはそう言って、切なげに目を伏せる。
「だから……母上には受け入れられないのだろう。父上の老いを、受け入れることが出来ないのだ。人の移りゆく心を、受け止めることが出来ないのだよ。この僕の、成長さえも――」
「…………」
「だが……そうは言っても、彼女が僕の母上であることに変わりはない。母上の中に流れる時間に、ほんの少しでも寄り添えるのは僕しかいない。だから……死ぬわけにはいかないんだ。僕は何としてでも生き延びなければならない。例え母上が僕のことをわからなくても、この先一生、思い出してもらえないとしても……それでも……彼女と共にあれるのはこの世にたった一人……僕しか、いないのだから……」
「……ユリウス様」
「だから……誓ってくれ。お前だけは、僕の側を離れないと。お前だけは……決して僕を裏切らないと」
それはどこか怯えるような、すがるような眼差しで……ナサニエルは――。
「――そのようなこと、言葉にするまでもございません。私は今でもソフィア様の騎士。けれど同時に今の私の主人は、殿下……貴方様でございます。この命尽きるまで、忠誠を誓うとお約束致します」
――そう言って跪くと、恭しく頭を垂れた。
*
同じ頃、ローレンスは自分の置かれた状況を呑み込めず立ち尽くしていた。今彼の目の前には、床に座り込んだまま泣き続けているソフィアの姿がある。
「……あ、あの……妃陛下……?僕……何か失礼なことを……?」
今より少し前、ユリウスの部屋を出たローレンスは、怒りに我を忘れてしまっていた為か離宮内で迷ってしまっていた。
けれどそれは無理からぬこと。彼は毎月の様にこの離宮を訪れているとは言え、ユリウスより立ち入りを許されているのはほんの一部の場所のみだったのだから。加えて道を聞こうにも、使用人の一人とも出くわさない。困り果てたまま歩き続けたローレンスは、とうとうソフィアの過ごす最奥まで来てしまった。そしてソフィアを見つけたのだ。
温室で一人過ごしている彼女の姿を確認したローレンスは、最初とても驚いた。一瞬それがソフィアであるとわからなかったからだ。いや、正しくは、彼女であると信じられなかった。漆黒の髪と瞳、それを持つ女性がこの国にソフィアだけであるとわかっていた彼も、ソフィアのその五年前と全く変わらない……いや、寧ろ当時よりもずっと幼く見えるその姿に、彼女がソフィアだと思わなかった。
実際のところ、ソフィアは決して若返ったわけではない。ただ、見かけ上歳をとっていないだけである。けれどそれはつまり、その姿がカイルと出会った当時の凡そ15歳程の娘の姿のままであることを意味していた。だからローレンスは、自分が成長したことも相まってソフィアがまるで若返ったかのように強く錯覚したのである。
ローレンスは自分の目を疑いつつも、五年ぶりに相対する彼女に礼節を持って言葉をかけた。
そのとき、彼は覚悟していた。ソフィアから自分にどんな言葉が投げ返されてくるのかを。それは決して、好意のあるものではないだろうと。
なぜならソフィアはこの五年の間一度も表舞台に姿を現すことなく、そしてまた、ユリウスに会いに来たローレンスにさえ決して姿を見せなかったからだ。だから彼は、自分はソフィアに疎まれているのだろうと考えていた。ユリウスを城から排斥したのは、他でもない自分の大伯父、リッキーゼンであると理解していたからだ。
けれどそんなローレンスの心配とは裏腹に、ソフィアは――最初こそローレンスの姿に驚いたように目を丸くしたが――次の瞬間には、顔を輝かせんばかりに微笑んだのである。まるで本当に、自分と年の変わらない純真無垢な少女であるかのように……。
そしてローレンスは、その優しくも愛らしい笑みに不覚にもときめいてしまった。冷たい言葉を突き付けられるかもしれないと覚悟していたのに、それとはまったく反対の態度に、彼は言葉も忘れ固まった。
そしてどう答えれば良いのやらと考えていたその隙をつかれたかのように、気が付けばソフィアに手を引かれどこかに連れられていたのだ。そうしてたどり着いたのが、この――ソフィアの部屋だったのである。
そこがソフィアの部屋であると気付いたローレンスが、酷く焦ったのは言うまでもない。ソフィアは王妃だ。その部屋に、まだ成人前ではあるとは言え男である自分が入ることは許されないと、彼はわかっていた。
だから彼は、「僕がここに居るわけには参りません。失礼致します」――とすぐさま部屋を出ようとした。けれどその瞬間、ソフィアはショックを受けた顔をしてその場で泣き崩れてしまったのだ。
「……へ……陛下……」
その姿に、ローレンスは酷く困惑した。目の前でソフィアが泣きだすという、あり得ない光景に。しかもその原因はおそらく、自分にある。
「ど……どうされたのですか。どこか……具合でも……」
――この方は、本当にソフィア様なのだろうか。
ローレンスは、自分の記憶の中の彼女を思い返し、どうしても拭いきれない違和感を感じつつ、躊躇いがちに声をかけた。けれどソフィアが返事を返してくる様子はない。
「……どうか、お泣きにならないで下さい。何か非礼を致したのなら、……謝りますから」
少女のように泣き崩れるソフィアに、ローレンスは自らも膝をつく。無意識にその肩を抱こうとして――ハッとした。王妃に手を触れるなど、国王でもない自分に許される筈がない。
あぁ、一体どうしてこんなことに……。
困り果てたローレンスがちらりと部屋を見回せば、部屋の奥、天井から垂れ下がる透けた白い垂れ幕の向こう側に、巨大なベッドが鎮座していた。
「――っ」
その瞬間、彼の脳裏に過る一抹の不安。
ローレンスは思い出したのだ。先程温室でソフィアに声をかけたとき、彼女が自分を何と呼んだのかを。
そう、ソフィアは自分を「カイル」――と、そう呼んだのだ。
聞き間違いだと思っていた。ソフィアがカイルと自分を見間違える筈はないと……。けれど、もしや本当に――?
ローレンスの背中に、嫌な汗が伝う。
もしも自分のこの予感が当たっているというのなら……ユリウスの先ほどのあの態度も納得がいくのでは、と――。
「陛下……。いえ……ソフィア…………様」
それを確かめるべく、ローレンスは震える声を絞り出し、ソフィアの名前を口にする。するとそれに応えるように、今まで反応の無かったソフィアの肩がびくりと震えた。
彼女はゆっくりと顔を上げ、その泣きはらした黒い瞳でローレンスの碧い瞳をじっと見つめる。
「……ソフィア…………様」
彼はもう一度、呟いた。すると今度こそ、ソフィアの赤い唇が微かに動く。
「……カイル」
「――ッ」
――あぁ、やはりそうだったのだ。
瞬間、その予感は確信に変わった。ローレンスは全てを理解したのだ。
ソフィアが今どんな状態であるのか。なぜユリウスが、ああも頑なだったのかを――。
「行かないで、ここにいて。……お願いよ」
ソフィアは先程までとうって変わって、急に身体を前のめりにしてローレンスにすがり付いた。瞳を潤ませ、頬を染め、目の前のローレンスを、カイルだと信じて疑わないという顔をして。
そんな彼女に、ローレンスは何と言葉を返せば良いかわからなかった。自分をカイルと思って疑わないソフィアに、こんな状態の彼女に一体何を言えというのか。
自分はカイルではない、その息子だ――そう言ったところで、余計面倒なことになるのは目に見えている。
それにローレンスは、これ以上ソフィアを泣かせたくはなかった。彼女を傷つけたくないと思ってしまった。先程温室で彼に向けられた可憐な微笑み。それがローレンスの心を捕らえてしまったのだ。
「……ずっと待っていたのよ。私……あなたが来てくれるのを、ずっとずっと待っていたの」
何も答えられないローレンスの胸にすがり付き、その顔をじっと見つめるソフィア。その懇願するような眼差しに、ローレンスは抗うことが出来なかった。彼女がこの国の王妃だと、ユリウスの母親だとわかっていながらも。
あぁ、早くこの部屋を出なければ。彼女から――一刻も早く離れなければ……。
そうは思っても、頭ではわかっていても、ローレンスは立ち上がることさえ出来なくなっていた。けれどそれは彼にはどうしようもないことだった。
――ソフィアに見つめられて、平常心でいられる方がおかしいのだから。
「……ソフィア…………様」
――駄目です。と、そう言おうとした。何が駄目なのか……それすらもよくわからなかったが、せめて言葉だけでも否定しなければ、と。
けれどそれは叶わない。言い終わるよりも前に、ソフィアに抱き付かれてしまったからだ。
「様はいらないわ。……ソフィアよ」
そう切なげな声で囁かれ、背中に腕を回されてしまったから。
それに、母親以外に抱き締められたのは、彼にとってこれが初めてのことだった。
「どうして何も言ってくれないの?私は、こんなにも貴方を愛しているのに……」
「……っ」
刹那――ローレンスの心臓が跳ねる。胸が高鳴った。心の奥底から、言い様のない高揚感が沸き上がってくる。それは自分が自分で無くなってしまうような……歯止めのきかない、熱い想い。
「ねぇ……カイル。私の名前……呼んでくれないの?」
「…………それは」
それを恋と呼ぶのかを知るには、ローレンスには余りに経験が無さすぎた。けれどもしそうであったとしても、もしくは一時の気の迷いだったとしても……相手が悪すぎる。
それに何より、ソフィアは自分をカイルだと思っているのだ。彼女は自分を見つめているのではない、自分の姿を通して、父親であるカイルを見ているのだ。
「カイル……好きよ。私、貴方のそばにいたいの。……そばに居させて、ここにいて。……お願い」
「――っ」
すがるような、熱を帯びたソフィアの瞳。ローレンスはそこから一瞬たりと、視線を反らすことが出来なかった。ソフィアに抱き締められたまま、どうすることも出来ずにいた。
それでも彼は、今にも音を立てて千切れそうになる理性を必死に繋ぎ止めようとする。頭にユリウスの顔を思い浮かべ、下半身にこもる熱をどうにか冷まそうと、拳を握りしめ自らの手のひらに爪を立てた。
けれどそんなローレンスに追い討ちをかけるかのように、背中に回されたソフィアの腕に力が込められる。それは決して、ローレンスを放す気はないと。絶対に行かせはしないと――。
「……私、あなたを……本当に――」
そして気がつけば彼は……ソフィアの口づけを――どうしようもなく、受け入れてしまっていた。




