06
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それはローレンスの成人まで、残り一年を切った頃。地面に降り積もった雪は溶け始め、もうまもなく春が訪れようとしていた。
「兄上、そろそろ城に戻られては?……父上の容態もあまり良くありません。城の者は皆、兄上とソフィア妃の帰りを心から待ち望んでおります」
ローレンスは離宮のユリウスの執務室にて、なかなか首を縦に振ろうとしない兄を正面に構え、難しい顔をしていた。
窓の外には青く澄みわたった空が広がり、部屋には日差しが降り注いでいる。けれどそれとは裏腹に、部屋にはどこか陰鬱とした空気が漂っていた。
ローレンスはユリウスが城を出てからというもの、時間を見つけてはこの離宮を訪れていた。五年前――ユリウスが城で何者かに命を狙われだしたときには“決して口を利くな”と言われていたが、城を出てしまってはそれも関係ないだろうと、母親であるマーガレットの眼を盗み見ては何度も何度も足を運んだ。勿論ユリウスもそんなローレンスを元のように可愛がり、二人は今も良好な関係を築いている。
だが一年前に国王カイルが病に伏せってしまい、それ以来ローレンスはユリウスに、城に戻るように進言していた。もしもユリウスが不在のまま国王が亡くなってしまえば、城には本当にユリウスの居場所がなくなってしまうと考えたのだ。それにこれは国王の命令でもある。何とかして城にソフィアとユリウスを呼び戻せ――と。
ユリウスはローレンスの言葉に小さく溜息をつくと、執務卓から離れて部屋の中央のソファに腰を下ろした。そして自分を睨むように見つめる弟を、困ったように見つめ返す。
「座ってくれるか、ローレンス」
「……はい、兄上」
既にローレンスはユリウスの身長を追い越していた。その顔立ちは凛々しく、城の大広間に飾られていた国王カイルの肖像画によく似ている。声もすっかり変わり、もう子供のものではない。
ユリウスは、彼はもう大人になったのだな――などと感慨深く思いながら、ローレンスが腰を落ち着けるのを静かに待った。そして、ようやく口を開く。
「お前の言いたいことはわかっているつもりだよ。父上の考えも理解している。マーガレット側妃の手前、大きくは出られないことも。……でもだからこそ、僕はあの場所に戻るわけにはいかないんだ。
それに後継ならお前がいるじゃないか。今さら僕が戻ったところで皆を混乱させるだけ。五年も椅子を開けていた王子など、誰も歓迎しないよ。何より母上がそれを望まない」
「兄上――!」
ユリウスにはわかっていた。この五年で、城の中の全てが変わってしまったことを。いや、城だけではない。国そのものが変わってしまった。エターニアはマーガレットの母国であるグーテンアースと友好をより一層深め、重臣たちは皆第二王子であるローレンスを支持しているのだ。
つまりソフィアとユリウスの帰還を待ち望んでいるのは、国王カイルとローレンスのみだと言っても過言ではない。
「お前には本当にすまないと思っている。僕が城を出たばっかりに、全ての責をお前に背負わせてしまった。まだ幼かったお前を城で一人にし、僕も本当に心苦しかったんだ。――けれど、お前はそれでもこの兄を恨まず、こんなに立派になったじゃないか。重臣たちも皆お前を認めている。つまり……この国の次の王は僕ではなく、……お前なのだよ」
「何を言うのですか、決してそんなことはありません!国王にふさわしいのは兄上です!誰よりも兄上を見て来た僕だからこそわかることだ!この五年の間だって、兄上は決して執務を疎かにはしなかったではありませんか!確かに僕を支持する重臣も多い。けれどそれは皆リッキーゼンの息のかかった者たちばかり!兄上のことを昔から知っている者たちは皆、この五年間ずっと父上に進言し続けて来たのです、兄上を城に呼び戻せと!
兄上意外にこの国の王になるべき人間などいないのです!兄上だって本当はわかっていらっしゃる筈だ!――僕には王になる器など無いと……父上だってそれをわかっているから兄上を呼び戻そうとしているのです!
……だからお願いです、お願いだから戻ってきて下さい。…………僕一人では……父上が居なくなってしまったら、僕一人ではとてもやっていけません。僕には兄上が必要なのです。……兄上が居てくださらなければ……!」
ローレンスはソファから立ち上がり、まくしたてるようにそう言った。その言葉には、何としてでもユリウスを城へ連れ戻そうとする意志の強さがうかがえる。けれどそれでも、ユリウスが首を縦に振ることはない。
「ローレンス、例え嘘でも自分を貶めるようなことを言うんじゃないよ。今の僕の言葉に嘘はない。僕は本当に、お前が次の王にふさわしいと思っているよ」
「――っ」
ユリウスの落ち着いた声音。ローレンスの必死の言葉にも、決して揺るがない決意。この落ち着きこそが、王となるべきにふさわしい性だとローレンスは確信していた。それをユリウス自身がわかっていない筈がない。それなのに何故ユリウスがここまで頑なに拒否するのか、ローレンスにはどうしてもわからなかった。
「兄上が誰よりもこの国のことを想っていることを、僕は貴方以上に知っている。それなのにどうして玉座を望まないのですか。国を想う兄上にだからこそ必要なもの。兄上以外に、あの椅子は相応しくないのです。民には貴方のような聡明な王が必要だ。兄上が王にならないというのなら……僕だって兄上を差し置いて、王になるわけには参りません」
ローレンスはその場に立ったまま、じっとユリウスを見下ろした。それは今までずっとユリウスの意見を尊重し続けてきた、彼の必死の抵抗だった。けれどそれさえも、そんな必死の抵抗さえも愛しいと言うように、ユリウスはローレンスに笑みを投げ掛ける。
「いいや……お前は必ず王になるよ。僕が王にならなければ、お前は僕の為にその椅子を守ろうとする筈だからね。そして僕に……いや、民に恥じぬ王に成ろうとする筈だ。
いいか、ローレンス。王は聡明な者がなるものではない。成ろうとする者が成るものだ。――父上もかつてはそうだった。人は皆、その志に心惹かれるのだ。
確かに僕はこの国を愛している。国の民を大切に思っているよ。けれど言ってしまえば、ただそれだけなんだ。僕はもう、王に成りたいとは思わなくなってしまったんだよ。もし仮に僕が王になったとして、善き王であろうとはするだろうが……これ以上の繁栄を求めることはしないだろう。それはすなわち衰退を意味する。……この国はあっという間に滅びてしまうだろう」
「兄上!僕は言葉遊びをしに参ったわけではありません!それにその言葉が正しいというのなら、兄上は僕にどんな王に成れと仰るのですか!国を栄えさせる為に戦争をしろとでも!?」
「そうだな。時にはそれも必要だろう」
「――兄上ッ!!」
ローレンスはとうとう声を張り上げた。怒りを抑えきれない様子でユリウスを睨み付ける。その表情からは既に、ユリウスへの敬意が消えていた。
「――つまり兄上は……逃げるということですね。生まれながらにして定められた運命から、その責任から、逃れるのだと……。僕一人に、全てを押し付けて……」
肩を震わせ、拳を強く握りしめ――ユリウスを心底軽蔑したように見下ろすローレンスの碧い瞳が、怒りに揺れる。
「…………兄上は、この五年ですっかり腑抜けてしまわれたのですね!」
「……そうだな。そう思ってくれて構わない。あの頃の僕はもういない。……父上にも、そう伝えてくれ」
「……っ」
刹那、ローレンスの顔が酷く歪む。その表情は、失望と悲哀に満ちていた。
彼は身を翻し、挨拶もなしにそのまま部屋を後にする。その背中を、ユリウスは黙ったまま見送った。
――そしてそれと入れ違いにナサニエルが入ってくる。その顔は先程のローレンス以上に険しい顔だ。
「――何故あの様なことを……!」
扉が閉まる音と同時に耳に届く、自分を責めるようなナサニエルの声。その言葉に、ユリウスはわざとらしく顔をしかめた。
「盗み聞きとは感心しないな、ナサニエル」
「話を反らさないで頂きたい。何故あの様な心にもないことを仰るのか。ローレンス様は、我らのお味方になって下さる数少ないお方の一人!それに貴方はローレンス様をとても大切に思っていらっしゃる。それなのにどうして……!」
珍しく感情を露にしているナサニエルの姿に、ユリウスは深く息を吐いた。安堵の溜め息だ。ナサニエルにも気取られないくらいだったというのなら、我ながら良く出来た芝居だったのだろう。
「お前まで、僕が玉座に座ることを望むのか」
その問いに、当たり前です――と答えるナサニエル。その言葉に、ユリウスは諦めに似た笑みを浮かべた。
「……二度と言うな。僕はローレンスと争うつもりはない。――足を引っ張るつもりもな。……次の王はローレンス、これは既に内定している。父上が僕を呼び戻そうとしているのは母上に会いたいからに他ならない。僕の名を出すのは詭弁だよ。
それに……僕らは今それどころではないだろう。母上の様子はどうなんだ」
するとその言葉に、ナサニエルは眼を伏せた。ためらいがちに、いつもと変わらぬご様子です――と呟くように答える。それはとても辛そうに……自らを心から責めているように。
そんなナサニエルの姿に、ユリウスはいつもの言葉を繰り返した。“お前のせいではない、もとはと言えば僕の傲慢さが招いたことなのだから”――と。
ソフィアは五年前の事件をきっかけに、心を壊してしまっていた。彼女は今、カイルと出会ったころの思い出の中に囚われている。ユリウスが自分の息子であることさえわからない。そうであるから勿論、自らが王妃であることなど分かるはずが無い。
だからユリウスは、国王カイルの度重なる償還にも応じることが出来ないでいるのだ。昔の記憶に囚われたソフィアをこれ以上苦しめないよう、年老いたカイルに会わせることも、逆にカイルにソフィアの様子を伝えることも出来ずにいる。それが、まだソフィアが正気だったころにユリウスに告げた、最後の願いだったからだ。カイルには決して私のことは伝えないで欲しい。あの人を苦しめたくはないのよ――と。
だから今のソフィアを知る者は、ユリウスを含めて三人しかいない。後の二人はナサニエルと、そしてユリウスの乳母だった女性である。ユリウスはこの離宮に入って間もなく、その乳母にソフィアの世話を一任し、殆どの使用人を城に返してしまっていた。
つまり彼はこの五年間ずっと、ローレンスにさえ秘密にし続けてきたのだ。もしもローレンスが知れば、自らの大伯父であるリッキーゼンを恨みかねないと考えた……それがユリウスの、ローレンスへの精一杯の優しさだった。だからこそ突き放すようなことを言ったのだ。
けれど、ナサニエルはどうしても納得がいかないようだった。何故ソフィアが、ユリウスが、このように苦しまなければならないのか。何の落ち度も無く、ただ国の為にと努力していただけなのに――と。
そしてまた、ユリウスもそんなナサニエルの気持ちをよく理解していた。
「……お前にはすまないことをした。五年前、お前の言葉に耳を傾けていれば…………こんなことにはならなかったのかもしれない」
「…………殿下」
それは、普段は決して弱音を吐くことのない……ユリウスの本音。




