03
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それは、ローレンスがユリウスの部屋でお茶をしているときのことだった。ユリウスは侍女にお茶の用意をさせるといつものように人払いをし、ローレンスと二人きりでテーブルを囲んでいた。
開け放たれた大窓からは、城下の街の賑わった様子が伺える。二人はその様子を眺めながら、紅茶と共に焼き菓子を口に運んでいた。
「……!兄上、このお菓子凄く美味しいですね!食べたことのない味だ」
その声にユリウスがローレンスの指先に視線を向ければ、そのクッキーに似た焼き菓子には、この国ではあまり見かけないナッツの様なものが練り込まれている。
ローレンスはそれを皿からもう一つ取ると、満面の笑みで口に含んだ。その様子に、ユリウスの頬も思わず緩む。
「母上に頂いたんだ。また城下の人々から色々と贈り物を頂いたらしい」
「妃陛下が?また城をお抜けになられたのですか?」
「まぁ……ナサニエルと共に、だけどね。……全く、母上は昔からちっともお変わりにならない。いつまで経っても少女のような方だ」
ユリウスは困ったような顔で微笑んで、窓からの景色を眺める。ローレンスはその何とも言えない様子の兄の横顔に、ぷはっと吹き出した。
「ははっ。そのあたりは、兄上とよく似てらっしゃいますよね」
「――なんだと?」
「兄上だって毎日のように城をお抜けになられるじゃないですか。行動だけで言うならば、同じように見えますよ」
「…………」
ローレンスの言葉に、ユリウスはわざとらしく眉をひそめた。――ふい、と視線をそらし、自らも皿から菓子を一つつまむ。赤いドライフルーツの入った、珍しい香りのする菓子だ。
彼はそれを一口かじる。サクッといい音が響いた。けれどそれも束の間、その瞳がハッとしたように見開かれる。
「――ッ!」
ユリウスは一瞬で顔を青ざめて、弾かれたようにローレンスへと顔を向けた。視線の先、ローレンスの手には、今まさに自分が食べたのと同じ菓子がある。それを今にも口にふくもうとしている弟に、ユリウスの顔が歪んだ。そして次の瞬間、ローレンスの手を弾くユリウスの左手。パチンという鋭い音がして、弾かれた手から放り出された菓子が……床に転がり落ちる。
「あ、兄上……?」
ローレンスは、ぎょっとしたような顔でユリウスを見た。するとユリウスは、胸元からハンカチを取り出して口から何かを吐き出そうとしている。その様子に、ローレンスもようやく気が付いたと言うように顔を蒼くさせた。
「まさか、毒ですか――!?」
「……あぁ。この香りと酸味……間違いない、スズランだ」
「……スズラン、ですか?花の?」
「――あぁ」
頷いて、ユリウスは顔を険しくする。汚れたハンカチをテーブルの上に無造作に置き、皿の上の焼き菓子を憎らしげに睨み付けた。
「ローレンス、お前が食べた菓子はどれだ」
「え……っと、その、……ナッツのものだけですが」
その言葉を受け、ユリウスはナッツの練り込まれた菓子を手に取り匂いを嗅ぐ。欠片を口に入れて、安心したように小さく息を吐いた。
「……これは大丈夫だ。だが、念の為に今飲み込んだものは全て吐いておけ」
「吐くって、一体どうやって……」
ローレンスは困惑げに瞳を揺らす。そんな弟の姿に、自分で吐くのはおそらく無理だと察したのだろう、ユリウスは何かを決意したように唇を結ぶと、弟の後頭部を掴んで窓の外へと頭を付き出させた。
「あ、兄上!?一体、何を……!」
「僕がやってやる」
ユリウスはそう言うと、不安げな様子のローレンスにかまうことなく、その喉の奥深くに自分の人差し指と中指を容赦なく突っ込んだ。
「――っ!」
途端、涙目になったローレンスは「うぇっ」と嗚咽にも似た声を上げ、胃の内容物を吐き戻す。
それがひとしきり済んでようやくユリウスの手から解放されたローレンスは、ゴホゴホと咳き込みながら床に突っ伏した。そして、涙目のままユリウスを見上げる。
「あ……兄上、今のは……流石に酷いです。ま……窓の、外になんて……あんまりじゃないですか」
「お前は、毒で死ぬ方がましだと言っているのか?」
「――あ」
ユリウスにそう言われ、ローレンスはようやく自分が毒を飲んだかもしれないことを思い出したように、再び顔を蒼くした。そして、ハッとしたように立ち上がる。
「そうだ、それより兄上は!先ほどの菓子、ちゃんと全て吐き出したんですよね!?念のため宮廷医を……!」
ローレンスは、今すぐに呼んできますと続け、走り出そうとした。けれどユリウスはその腕を掴んで制する。ローレンスの顔が驚きに歪んだ。
「兄上!?なぜ止めるのです!?」
「……いい、誰も呼ぶな。全て吐き出したから大丈夫だ、問題ない」
「――ですが!誰かが毒を盛ったのだとしたら、これは僕ら王族への反逆だ!」
ローレンスは、そのまだ幼さの残る顔を怒りで染めて声を荒げる。だが、ユリウスは静かに首を振った。
「だからこそだ。……これは母上に贈られたもの。それに、中に入っていたのはスズランの実。もしかしたら、なにか手違いや偶然の可能性もある。どちらにせよ、狙いは僕らではない筈なんだ。
ローレンス、お前の言うことは最もだが、僕は下手に事を荒立てたくはないんだ。それに……母上には心配をかけたくない。あの方は人から悪意を向けられることに慣れていないから。自分が貰った菓子のせいで、僕が毒に――なんて知ったら、母上は絶対に大騒ぎして城内は乱れることになる。企てた者がいるのならば尚更だ。どうせ、すぐわかるような証拠なんて残していないさ」
「……そんな!何を仰っているのですか!?兄上らしくもない!偶然ならば他にも犠牲者が出るはずだし、意図的なものならその者を捕らえなければまた同じことが起こります!
それに、これは毒なんですよ。偶然だったとしても、決して許されることじゃない!もしも兄上が気づいて下さらなかったら、僕だって口にしていたんです……!」
ローレンスの言葉に、ユリウスの黒い瞳がこれでもかと言う程に鋭く細められる。
「あぁ、そうだ。お前が口にしなくて本当に良かった。もし食べたのが僕ではなく……お前だったなら、まず無事ではいられなかった。それに……さっき言っただろう、これはスズラン。この実は成人でもほんの少量で死に至る……猛毒を、含んでいる。……だが――この国に……スズランの毒を……解毒する、方法は…………な、い……」
「兄上……?」
ユリウスの様子に、ローレンスの顔が強張る。
彼は気が付いてしまったのだ、ユリウスの呼吸が……微かに乱れていることに。必死に隠そうとしているが、ユリウスは先ほどからずっと、右手をテーブルについてそこに体重をかけている。
まるでそうでもしていなければ、立っていられないというように……。
「まさか、もう毒が……?そんな……だって、さっき全部吐き出したって……!」
ローレンスの顔が、泣き出しそうに歪んだ。恐怖にかられたように、その小さな肩を震わせる。
ユリウスはそんな弟を宥めようと、優しく微笑んだ。
「……ローレンス、落ち着くんだ。大丈夫だよ。お前も知っているだろう、……僕の身体は、人より丈夫に出来てるんだ。少し休めば……問題ないよ」
取り乱した弟を安心させようと、ユリウスはなるべく落ち着いた声で、ゆっくりと言葉を紡ぐ。けれど、毒のせいで蒼く染まった顔色はどうやったって隠しようが無い。
「どうしよう、どうしたら……。あぁ、兄上、兄上、まさか本当に死んでしまったりしませんよね!?僕――僕は一体、どうすれば……」
ローレンスの目の前に立つユリウスの額には、うっすらと冷や汗が浮かんでいる。それに、どこかが痛むのだろうか、ユリウスは何かに堪えるように、奥歯を噛み締めているようだった。
ローレンスはそんな兄の姿に、どうしようもなく怖くなった。何故なら彼は一度だって、こんなに辛そうな兄の顔を見たことは無いのだから。
けれどその心さえも感じ取ったのだろう、ユリウスは茫然とするローレンスの肩にそっと手を置き、静かに語りかける。
「……そんな顔しなくていい。僕はこれぐらいのことで、死んだりしないよ、……本当だ。ねぇローレンス、この僕が、……お前に嘘をついたことが……今まで一度だって……あったかい?」
「……それは……ない、ですけど……」
「そうだろう?……それに僕は、お前が無事で、本当に良かったと思ってる。それだけで……十分なんだ。だからそんなに不安そうな顔を……するんじゃない」
「……でも、――でも」
ローレンスは、自分を見つめるユリウスの瞳から思わず視線を反らして、俯いた。まさかこの期に及んで、そんな顔をするな――と言うのだろうか。今までずっと、二人きりのときはありのままの姿でいいとそう言っていたのに、このような状況になってその言葉を覆すのか――と。
けれどそのユリウスの言葉のおかげか、ローレンスの気持ちはいつのまにか、幾分か落ち着いていた。
「――だけど……もしもお前がこの僕を心配し、何かしようとしてくれるというのなら、……お前を信じて二つほど、お願いしたいことがあるんだが……いいかな」
「お願い、ですか……?」
「あぁ」
ユリウスは、再び顔をあげたローレンスへと微笑みかけて、水の入ったグラスを片手に、覚束ない足取りでソファへと腰を下ろす。
「一つ目は……この件を、全て僕に預けてくれること。誰にも、……例え父上にも……何一つ伝えないと約束して欲しい。僕がきちんと、然るべき方法で調べるから……」
ソファに背をもたれて浅い呼吸を繰り返す、ユリウスの懇願するような弱い声。
そんな風に言われたら、断れるわけがないだろうと――ローレンスは視線を床へと落とした。けれどそれでも、尋ねる。
「……二つ目は?」
躊躇いがちに再び視線を上げれば、ユリウスの揺れる視線とぶつかった。
ユリウスはもう一度微笑んで、そっと息を吐く。辛そうに顔をしかめて、手の中のグラスの水面を見つめた。けれどその眼差しは、酷く虚ろでどうにも焦点があっていないよう見える。
「……兄、上?」
明らかに……様子がおかしい。――そう感じたローレンスが駆け寄ると、それとほぼ同時にユリウスの目蓋が落ち始めた。意識が薄れているのだろう。グラスが傾き、そこからこぼれ出た水が、床に小さな水溜まりを作る。
「兄上!兄上!?しっかりしてください!やはり毒が回っているのではないですか――!?」
こうなってしまっては、もう一刻の猶予もない。ユリウスは少し休めば大丈夫だと言ったが、こんな状態でどうしてその言葉を信じられようか。
ローレンスは医者を呼ぼうと立ち上がり、そこから踵を返そうとした。けれど、ユリウスに服の裾を掴まれる。
「兄上、放して下さい!いくら兄上が駄目だと言っても、これ以上は聞けません!人を呼びます、後でいくらでも叱って下さってかまいませんから!」
ローレンスの必死な声に、ユリウスはようやく頷いた。目蓋を閉じたまま、唇だけを……動かす。
「…………ナサニエルを、……呼んで…………くれ」
「ナサニエルですね、わかりました、今直ぐ呼んできますから!」
ローレンスが答えれば、ユリウスは安心したように服の裾を離す。
「…………すま………………ない」
そして、ローレンスはユリウスのその声を背に、無我夢中で走り出した。




