高校時代
合宿三日目。昨日と同じように、マコトたちは午前中から体育館を使用していた。
「アキバさん、ちがう」
マコトの声が朝の体育館に響きわたる。
アキバはおびえたように声の主を見た。ほかの皆も動きを止めて、マコトを見る。
マコトはまとわりつく視線を振り払うようにツカツカと歩み寄ると、
「俺の動き、もう一回見ててください」
寝不足で赤くなった目で、鋭く相手を一瞥した。
アキバが眉を八の字に下げて、困ったように頷く。ヨウがムッとしたようにマコトを見て、なにか言いたげに一歩近づく。ヨウの腕をアネサンがつかみ、じっとマコトを見ている。その視線も無視した。
音楽を再生する。マコトは目を閉じて、ふうっと深く息を吐く。
この瞬間だけは、心に降り積もる諸々の嫌なことを、全て忘れられる。
フォーカウント、心の中で唱えて目を開く。
キュッ。
リノリウムの床に、悲鳴にも似た音がひびく。
腰のあたりから引き上げた両手首を耳元で回す。足を高く上げ、空気を前方に蹴り飛ばす。拳を体の外側に突き出し、次の瞬間すべての動きを停止する。
音楽が身体に混ざり、溶け、吐き出す息の中で芽吹く。止まらない。もっと、もっと速く。刻む鼓動よりも速く、滑らかに動け。
楓はどうだった? こんなもんじゃなかった。楓はいつの間にあんなにしなやかに踊るようになったんだ。
あいつの背中がうつくしく見えたなんて。
――はやい、とポコちゃんの唇が動く。心配そうにアオを見上げる。
『マコト君、いつもと全然ちがうよ』
アオは頷いた。周りも、どこか不安そうに、それでいて食い入るようにマコトを見ている。恐れと羨望の混じった眼差し。
この動きの速さに着いていける人がいるだろうか?
いつもと段違いに速いステップ、回転、手の動き。練習の時のマコトが、いかに皆のレベルに合わせていたかがわかる。繰り出される手話さえも、ダンスの振り付けの一つとして板についている。
だけど。アオは両手を組んだ。
あの表情。ポコちゃんが言うように、いつものマコトと全然ちがう。
ジャパン・ダンス・アワードのときも手話ダンスの練習のときも、いつだってマコトは楽しそうに踊ってた。心の底からダンスを愛している人の顔だった。ダンスへの愛に身体が応えて、マコトに独特の光を浴びせていた。
けれど今日はそれがない。まるで痛みに耐えて修行をしている人のように、歯を食いしばり、赤い目を爛々と光らせて動いている。それはそれである種の魅力を放ち見るものを捕えているけれど、本来のマコトの踊りとはちがう。
おまえになにがあった? あの、カエデとかいう奴は、おまえになにをしたんだ?
じっとマコトの姿を見ていたアオの目が、ふいに見開かれた
マコト。
自分の喉が振動に震えたのがわかった。おそらく、言葉の輪郭を持ってない、音。ポコちゃんがおどろいたようにアオを振り返ったのと、マコトの身体が床に叩きつけられたのは同時だった。
あ、やばいと思った。
もっと速く、もっと遠くまで。希求する心に身体が着いていかなくなる。 前はこんなことなかったのに。心が求める同じ速度と回転に応えられたのに。
ステップを踏むごとに、思い描く振りつけとズレていくのがわかる。リズムが荒い息に呑まれ、乱れていく。認めたくなくて、さらに勢いつけて床を蹴る。身体に流れる音楽が、歪み、窓を引っかいたような不快な音をたてる。不協和音。
その刹那。
音が止まった。空白の瞬間。自分だけ異空間に飛ばされてしまったような。
――やばい。
バン、と体が地面に叩きつけられた。それでもマコトの耳は、音楽をとらえていた。
まだ踊り切ってない。
そう思いながら、意識を手放した。
目を開く。マコトは部室にいた。
正確には部室じゃない。更衣室と兼用のロッカールームだ。
マコトの身長より高いロッカーが、棺のように並んで建てられている。だれかが蹴飛ばして下のほうがへこんだロッカーには、練習スケジュールやアイドルのブロマイドがベタベタと貼られていた。すみの方になぜか野球のバットやボールが転がってる。次のダンスの振り付けに利用できないかと言って、先輩が去年持ってきたのがそのままになっていた。
せまいロッカールームで、全てのことを取り決めていた。フォーメーションの発表、曲の選定、新部長の決定。体育館とロッカールームを行き来しているマコトたちは、だからそこを部室と呼んでいた。
この空間はマコトにとって全てだった。あの日がくるまでは。
「おまえだけが気づいてないんだ」
平板な口調に顔を上げる。相手と目が合う。
楓だ。楓が口を動かし、言葉を続ける。だけどなぜか無声映画のように声が聞こえない。それなのに、言葉の内容がわかった。
気がつけばマコトは十数名の男たちに囲まれていた。そろいのTシャツを着て、一様に冷めた目をしている。無意識に後ろに後退していくと、その分向かい合う男たちは間合いを詰めてくる。
この男たちを自分は知っている。
皆、マコトのチームメイトだ。
「コーチはどこだよ」
マコトは問う。声が震えていた。
唐突に場面が変わる。真夜中の体育館。汗を拭きながら楓が答える。
「たしかめてみればいいだろ、自分で」
ハッと目を覚ました。見慣れない、障子張りの電灯が天井から吊るされている。
ここはどこだっけ。
束の間、目を開いたままぼうっとした。視線を真横に転じると、朝着がえを取り出して口が大きく開いたままの自分の鞄や、隅に置かれたテーブルの上のスナック菓子の袋や缶ビールが一度に見渡せた。だれかが部屋まで運んでくれたらしい。奥にまとめて畳まれてた布団の一つを広げて、そこに寝かされていた。
そうっと起き上がり、体の調子を確認する。転んだ拍子に打ちつけたのか、肘と太腿が痛い。左の足首が熱をもってる。
曲げられるか?
布団の中で、おそるおそる足首を上下に曲げる。折れてはいないらしい。 だけど少し動かしただけでズキンと痛んだ。
はーっとため息を吐くと同時に、ななめ前のドアが開いた。
「お、目ぇ覚ましたか」
功がドアノブを持ったまま入り口で笑う。その後ろから皆が顔をのぞかせる。
「まったく、ビックリさせないでよ」
黒田が怒ったように眉間にシワを寄せて両腕を組む。
「黒田サン、マサオになってマシタ」
「それを言うなら真っ青ですぞ」
「マサオでも真っ青でもないです!」
しゃべりながら靴を脱ぎ捨て自分の周りに集まってくる皆を、マコトはぼんやりと見上げていた。
「大丈夫だった?」
静香がペットボトルの水を差し出す。頭を下げて水を受け取りながら、視線を避けるようにうつむく。
「すいません、心配かけました」
頭をかいて、
「カッコ悪いっすね。もうアキバさんのこと言えないな」
練習疲れがピークになると、曲の途中だろうがなんだろうが糸の切れた人形のように床に倒れこむアキバを例に出して笑う。けれどつられて笑った人は一人もいなかった。
アオがマコトの正面に座りこんだ。
『おまえなに考えてんだよ』
射るような視線がまっすぐにマコトに注がれる。
「……なにがだよ」
両手をぺったり布団につけて体重を支えたまま、おざなりに尋ねる。アオはムッとしたように、手を素早く動かした。今度は速くて読み取れない。
「なに言ってんのか、わかんねぇよ」
アオが目をすがめてマコトを見る。マコトは視線を布団カバーにやる。合宿所の前を通る車の唸り声と鳥の鳴き声が、開け放した窓から風と一緒に入ってきた。
「俺たちはチームなんじゃないのか」
ポコちゃんの声に顔を上げた。
「今、アオはそう言ったんだよ」
丸いめがねの向こうから、ポコちゃんがまっすぐにマコトを見ていた。
「僕も、そう思うよ。だから教えてほしいんだ。なにがあったの?」
マコトはグッと布団の上で拳を握りこんだ。
ポコちゃん。アオ。静香。ヨウ。アキバ。功。アネサン。
皆の視線がマコトに注がれている。夢に見た、ダンス部の奴らの目とはちがう。心配そうに、もどかしげに、労わるように、マコトに降りそそぐまなざし。
痛めた足首と同じくらい、頬が熱い。見られたくなくて下を向いた。
俺たちはチームなんじゃないのか
吐く息が震えていた。自分の両腕を、抱きしめるみたいに固く握る。
「マコト君、昨日言ってくれたじゃない、カエデって人に」
ポコちゃんが優しい声で言う。
「アシオト(ここ)が好きなんだよって。僕ら、うれしかったんだよ」
マコトは腕をつかんでいた手を離して、ふたたび顔を上げた。深く息を吐いて――両手で思い切り両頬を叩いた。
だれかが驚いた声を上げる。見ると、静香が手を口にあてて目を丸くしていた。アキバがめがねをクイッと上げ、眉間にシワを寄せる。功が「おい、大丈夫か」と訝るように顔をのぞきこむ。
「おまえ、なにやってんだ」
マコトは笑った。
「気合入れたんです」
笑いながら、アオを見る。呆れた顔のアオと目を合わせて、ぎこちなく両手を動かした。
ずっと心に隠してたことを伝えるのは、勇気がいる。
だけど、伝えなくちゃいけない、この人たちには。そうおもった。
『俺がダンスを始めたのは、まだ小学校に上がる前でした』
いつものようにポコちゃんに手話を通訳してもらうのではなく、へたくそでも、ゆっくりと自分の手を使って言葉を表した。そうしたかった。皆は辛抱強くマコトを見守っている。
『隣に住んでた兄ちゃんが、すげぇダンスのうまい人で、その人が通ってたダンス教室に誘われて』
はじめて教室に足を踏み入れたときのことを、今でもよく覚えてる。自分を包みこむように流れる音楽。丸いライトがいくつも天井にはめこまれて、星座のように光っていた。
ダンスシューズが床を蹴り上げるときのキュキュッという動物の鳴き声にも似た音。幼稚園のお遊戯とは比べ物にならないくらい速い動き。熱く、激しく跳ねる、回る。
すごいところに来てしまった!
興奮で、まだ動いてもないのに息があがった。
ほらマコト、行くぞ。
そのひとは、幼いマコトの手を握り、中央へと導いてくれた。
キュッ。動物の鳴き声が、マコトの足元と、そのひとの足元から、鳴る。
『その日から、その兄ちゃんと一緒に教室に通うようになったんです』
何年かの後、学生だったその人は学校を卒業して、教師になった。教師になっても、なにかとマコトを気にかけてくれていた。少年から青年に成長する間に、教えてもらったいくつものこと。
それまで黙って聞いていたアオの両手が動く。速くて読み取れず、眉を寄せて首を振る。ポコちゃんが代わりに言う。
「カエデって人が言ってたコーチって、その人のこと?」
マコトは頷く。
「隣に住んでた兄ちゃんが、高校時代のコーチだったんだ」
ポツリと呟く。
コーチ。その人を思い出しただけで、鼓動がざわざわと音をたてる。冷静でいられない。眉間にシワを寄せたまま、苦く笑ってポコちゃんを見た。
「悪い、訳してくれるか?」
ここまでだった。ここから先の話は、言葉に出すだけでもしんどい。ふーっと息を吐いた。
泉ヶ丘に行くと言った時、コーチは驚き、それからとてもよろこんでくれた。それだけでもう、マコトは有頂天だった。めでたく入学して、迷いもせずダンス部に入った。
だけど、それがまちがいだった。
高校に上がってようやくストリートダンスを習い始めた部員たちが多い中、その時すでにマコトはダンスをはじめてから十年がたっていた。経験の差もさることながら、客観的に考えても、いろいろな部分で他の部員たちとはちがっていた。
生まれつき筋肉が柔軟だ、と月に一回通っているマッサージ師にも言われた、やわらかな筋肉。やわらかいから、伸びやかで大胆な動きができる。機械のように狂いなく刻まれるリズム。なぜかどんなダンスでも、一度振り付けを見れば同じ動きができた。
学校のテストはそうはいかないのに、ことダンスに対してだけは記憶力の精度が上がる理由は未だにわからない。あえて理由を見つけるなら、誰よりもダンスを愛しているから、その情熱の密度が他の人よりも高い集中力を生み出してるのだとしか考えられなかった。
そんな諸々の条件を含んで、あるいは全く関係のないところで、
「マコトのダンスには華がある」
コーチは何度も言っていた。
群集の中で踊っていても自然と目がいく、動きを追ってしまう存在感。腕が、足が、ステージに立つと実際よりも長く見え、新川マコトという存在がひと回り大きく見える。照りつける強いライトは濃い影を生み出す。黒い影がマコトを所々覆うように隠し、人々はもっとよく見ようと身を乗り出す。
新川はすげぇよ、天才だよ。
部員たちの賞賛の声に包まれる。ロッカールームを部室としていたくらいの弱小校だった泉ヶ丘は、マコトが入部してから変わった。ジャパン・ダンス・アワードに初出場。無名高校を全国区に導いた大型新人の登場に、専門誌がインタビューを求めにきたことさえあった。
そして迎える本番は、割れんばかりの拍手とスタンディングオベーション。
完璧な瞬間。太陽をつかんだとおもった。
――それなのに。
ジャパン・ダンス・アワードの翌日、マコトは意気揚々とロッカールームに飛んでいった。まだ昨日の幸福の余韻に浸っていた。頭の中では鳴り止まない拍手が、観客たちの讃える声が、くりかえし再生されている。
ロッカールームのドアを勢いよく開ける。そこにあるのは、同じような笑顔や賞賛。
ではなかった。
部員たちの黙した表情。まるでだれかが亡くなったような。
「どうしたんだよ?」
とまどいつつ尋ねると、部長が封筒を一枚差し出した。訝りつつ封筒から便箋を取り出し、広げる。直後、衝撃が全身を襲った。
コーチは昨日付けで退職していた。「皆へ」と書かれた手紙には、なにも言わず去っていく侘びが、簡単に書かれていた。呆然と手紙を見つめる。
「マコトへ」ではなく「皆へ」。その他の部員とひと括りにされた、ということもショックだった。
なんだこれ。なんだこれ。
震える手でコーチの携帯に連絡する。コノバンゴウハゲンザイツカワレテオリマセン。手が震え、携帯がカシャンと落ちた。拾う時間さえ惜しく、コーチのアパートをめざして高校を飛び出した。
俺に何も言わないなんて、そんなはずない。そんなこと、あるはずない。そうだろ明ちゃん。
おもわず、幼き日の呼び名が脳をこだまする。
明ちゃんはマコトを裏切らない。だってずっと一緒だった。あの、手を握ってダンス教室に連れていってくれた日から、ずっと。
だから、あの人ならもう出てったよ、と大家のおばあさんに言われたとき、ほとんど卒倒しそうになった。身体中、ひざの裏や肘みたいな、普段熱を感じないところまで、つめたく冷えていったのがわかった。
それでもマコトはコーチからの連絡を信じた。ダンス部にも休まず通い続けた。今日こそ、悪い悪い、ちょっとヤボ用でよ、と軽口を叩きながらコーチがロッカールームに現れる気がしていた。
けれども月日は流れ続ける。見えない川のように、ごうごうと威勢よく。
新しい顧問が現れる。今度は新任の女の先生だった。若い女教師の登場に、部員たちが色めき立つ。ごうごう。時がながれる。
これどうやるのー?
ダンスなんてやったことない、と言う女教師がステップを見て首をかしげる。ちがうよ先生、こうだよ。お調子者の一年生がわざと身体をクネクネさせる。部員たちから笑いが起こる。ごうごう。時の流れる音が耳を劈く。流されないのはマコトくらいだった。それとも逆に、自分ひとりだけが濁流に呑みこまれてるんだろうか?
やめろ。やめろ。やめてくれ。
思わず叫んでいた。
「いいかげんにしろよ」
笑い声がピタッと止まる。静寂。笑いを率先して作った一年生の顔が青くなったのがわかり、ふいに嗜虐的な気もちが芽生えた。ツカツカと一年生のもとに寄って、
「おまえ、まじめに練習してないからいつまでたってもへたくそなんだよ」
一年生が、目を見開く。傷ついた様子に、ほんの少しだけ溜飲が下がる。 けど、足りない。もっとだ。
血走った目で、周りをぐるりと見回す。
「おまえらが真剣にやってなかったから、コーチは愛想を尽かしたんだ。せっかくジャパン・ダンス・アワードまで出れたって」
それだって、だれのおかげだと思ってるんだ。俺の技術、それを後押ししたコーチ。二人がいなくちゃ、おまえたちだけじゃ絶対につかめなかった。
「そんなんじゃすぐ他校に」
「おまえこそいい加減にしろよ」
静かで、低い声だった。
振り向くと、楓が酷く冷めた目をして見ていた。さっきまで皆と笑っていた顔とは、別人の表情。
なん、だよ。
「おまえだけが気づいてないんだ」
楓が平板な口調で告げる。
「コーチもとっくにわかってた。このチームはチームとして終わってたんだ。だから責任を取って辞任したんだよ」
なに言ってんだ、こいつ。
マコトは眉を寄せる。よく知っているはずの楓だけど、突然異国の言葉で話し始めたかのように、言っていることが理解できなかった。
けれど気がつけば、マコト以外の皆が楓と同じように冷めた目でこちらを見ていた。女教師だけが、一人オロオロと周囲を見渡す。
なんだこれ?
今なにが起きてるんだ?
マコトより一年上の部長が「新川」と呼ぶ。口数の少ない温厚な性格の部長を、マコトはそれなりに慕っていた。
部長がまっすぐにマコトを見る。
どくん、と鼓動が鳴る。嫌な予感。背中のシャツに冷えた汗が滲んで肌にまとわりつく。
「俺たち前から不満に思ってたんだ。おまえだけ特別に扱うコーチのやり方にも、それを当たり前みたいに受け入れてるおまえにも。だから大会前日、皆で話し合って、出場を辞退することにしたんだ」
初耳だった。あれほど煩く聞こえた心臓の音さえも、聞こえない。鼓動が止まったようだった。
「俺たちの話を聞いたコーチは、理解してくれたよ。それで、辞退だけはやめてくれって言った。おまえのためじゃない、俺たちの努力のためにだ。おまえは考えたこともなかっただろうけど、俺たちも努力したんだ、この大会に出るために。それこそ血の滲む思いで」
部長の言葉に、一年生が何人か、拳で目の辺りをこする。同級生も、目が真っ赤になっている。
マコトには分かち合えないなにかが、できていた。もうなにも考えられなかった。唐突に始まった劇を見ている客のように、一切の思考と言葉が頭から消えた。
「ジャパン・ダンス・アワードに出る代わりに、コーチを辞める。コーチは俺らと約束したんだ。そしてその約束を守った」
いっそ微笑みさえ浮かべながら、部長は言った。
悪い魔女は退散しました。めでたしめでたし。そう締めくくるおとぎ話のように。
部長は呆然と立ち尽くしているマコトに向かって、笑みを消すと険しい顔をした。
新川。
次に吐かれた言葉を、マコトは生涯忘れないとおもう。
「ここにいる奴らは全員、おまえのおかげで出場できたなんて思ってない。ジャパン・ダンス・アワードは、俺らがガマンしてガマンして、自分を殺したことと引き換えにつかんだ出場なんだ」
窓の外で鳴く蝉の鳴き声が、だれかが流すシャワーの音のように聞こえる。風が汗ばんだ背中を冷たくなでていく。
マコトは窓の外を眺めながら、
「細かいとこまでよく覚えてるもんですね」
ハハッと笑う。だれも笑い返さない。ひとりの笑い声は空気に溶けて消えた。唇をかみしめる。
こんなに事細かに話すつもりじゃなかった。だけど話し始めると、蛇口をひねって出る水のように、言葉と感情が後から後から流れていった。
ずっとしまっておくつもりだった、こんこんと胸に鬱積するどす黒い感情。哀しみや悔しさが混ざり合って、マコトの中で渦を巻いて膨らんでいた。そのすべてにふたをしていた。
だけど、心はマコトが想像していたよりもはるかに外に出たがっていた。 黙っていたいのと同じ強さで、打ち明けたいと希んでいた。自分の心が抱えている想いを、話しながらはじめて知った。
だれかが咳ばらいする。座りなおす衣擦れの音。また、合宿所の前を車が通り過ぎた。
功が長い息を吐く。だれもが、喉の奥で固まっている言葉を、舌に乗せて出そうか迷っているようだった。マコトは周囲の反応をよそに、更に言う。
「楓のことなんて、昔は意識したことなかった。っつーか、うまいと思ったこともなかったし。なのに昨日見たあいつのダンス、ヤバイくらいうまくて」
胸をかきむしるしぐさ。「悔しい」の手話。
「悔しかった。俺なにしてんだよって、焦って。それで転んでりゃ世話ないっすよね」
自嘲気味に笑うと、功が顔をゆがめて「マコト」と声を上げた。
そんな中、アオがあぐらをかいていた足をほどいて座りなおすと、マコトを見た。手話が出てくる、と察したマコトは身構えて、見落とさないように少し体を前かがみにした。マコトの後を追うように、周りの視線もアオに注がれる。
アオは片手でチョキを作ると、そのまま下に向けた。ひとが立っているような形になる。
もう片方の手で輪を作り、反対の手に近づけると、人が輪を蹴るようなしぐさをした。
「サッカー」の手話。
『俺、昔サッカーやってたんだ』
唐突な発言に驚きつつ、納得もしていた。だからアオは体も柔らかいし、めがねーズの三人より体力があるのか。
『途中でやめたけど』
はじめて聞く話に引きこまれる。「なんで?」と尋ねた。返ってきた言葉は速くて読み取れない。チラッとポコちゃんを見るけど、ポコちゃんの視線はアオに注がれている。その横顔は見たこともないくらい真剣だった。
アオは再びゆっくりと手話をはじめる。
『チームメイトの親が文句言ったんだ』
文句?
マコトは眉をひそめる。アオは二つ横に並べた両手のこぶしを、中央からパキッと下に折るようなしぐさをした。「壊れる」の手話。じゃなくて、もうひとつの意味は。
障害。
『障害者がいるから勝てないって文句が出た』
「うそだろ」
おもわず声が出た。問うように周りを見る。ポコちゃんは唇をぎゅっとかみしめて、痛みに耐えているような顔をしていた。功は眉間にシワを寄せて、なにか低い声で呟いた。
アオは無表情のまま、ゆっくりと首を振る。しぐさとは反対に、アオの手話は速くなる。着いていけず、あわててその手を叩いて遮る。
アオは、自分を落ち着けるようにフーッと息を吐いた。マコトは布団の上で体を後ろにそらしながら、次の言葉を待った。
『そのあと聾学校に入学して』
アオがふたたび語る。
『健聴者と一緒に過ごすことがなくなって、聾の友だちが増えて楽しかった。だけどあんまり趣味とか作らないようにしてた。またどっかで『障害者』ってことで取り上げられるくらいなら、なにもしないでいい。そうおもってた』
遠くを見ながら語るアオの黒い目から、じわりと闇が広がったような気がして、マコトは息を呑んだ。
あいつ多分ビビッてんだよ。
いつかのアネサンの言葉を思い出す。
『そんな時、ポコちゃんに誘われてダンスを見に行ったんだ』
アオがポコちゃんを見る。ポコちゃんもアオを見ていた。めがねの向こうの丸い目が、優しく笑っている。
アオの視線が再びマコトに向く。
『そこでお前を見た』
ビクリ、とマコトは自分の体が揺れたのがわかった。
『おまえのダンスはすごかった』
また手話が速くなる。自分にはわからないその言葉を、マコトは知りたいような、知りたくないような複雑な気もちで眺めた。
アオの握りこんだ両手から親指とひとさし指が伸びる。両手が下から頭上へと掲げられて――「太陽」の手話。
アオの手話がまたゆっくり表現される。
まるでささやいてるみたいに。
『舞台で片手を上げたお前が、俺には太陽をつかんでるみたいに見えたんだ』
そう言って、アオは笑った。いつものバカにした笑いではない、笑顔。
『あの時思った。サッカーはダメだったけど、できるならあいつみたいにダンスをしたいって』
そう言って、アオは首を振る。いや、と言葉を継ぐ。
『俺は、おまえと一緒にダンスがしたかったんだ』
「――アオ」
胸の奥から、音もなく熱い塊がせり上がってくるようだった。黒い瞳を見つめ返す。
聞こえなくたって踊れること 証明してやるよ
アオの言葉を思い出す。
知らなかった、と言うことは簡単だ。
けれど、知らないで踏みつけていたいくつものこと。
あの言葉を、アオはどんな想いで言ったんだろう。
俺はもっと、知ってかなくちゃいけない。ポコちゃんの言葉が頭の中に響く。
でもね、マコト君。君だって、ダンスだけじゃなくて、いろいろなことを知るほうがいいと思うんだ。それには、個性的な部員がそろってるアシオト(うち)は、最適だと思うんだよ。
ふと気がつけば、皆がマコトを見ていた。
静香の、心配そうな、労わるような顔。功がそっと笑いながらマコトの頭に手を置いた。黒田は両腕を組んでこっちを睨んでいる。けれどそれは心配の裏返しなんだと、もうマコトは知っている。ポコちゃんが微笑みながら小さく頷いた。アネサンはなんの感情も浮かべず、ゆったりと長机の上に肘を突くと、掌に顎を乗せてあくびをした。
「わ、我輩っ」
唐突にアキバが手を上げて立ち上がる。皆おどろいてアキバを見上げた。アキバは顔を真っ赤にして、
「もっと精進します。せっかくの手話ダンスの機会、悔いのないよう精一杯練習しますので」
ガバッと体を二つ折りにし、
「ご指導よろしくお願いします!」
裏返った声で叫んだ。
呆気に取られた一堂の中で、誰よりも早く反応したのはヨウだった。同じように立ち上がると、
「マコトサン、二日モノですが、アキバサンをヨロシクお願いシマス!」
同じように頭を下げる。その様子に皆が顔を見交わし、次の瞬間笑い合った。
「なんだよ二日モノって」
「それを言うならフツツカモノでしょ」
「どっちにしても意味ちがうけどな」
笑い合う声が、窓から降りそそぐ蝉の鳴き声をかき消して室内に響きわたる。マコトも笑っていた。涼しい風が皆の間をやさしく通り抜けていった。




