同級生
「マコト君って」
目の前の男がかすれた声で呟く。喉が上下する。
「じゃあ、おまえ、やっぱり新川か」
幽霊でも見たかのような顔。いや、幽霊と大差ないだろう、彼にとって。
「ひさしぶりだな……楓」
かえで。
かつてよく呼んでいた三文字の名前を口にした途端、目の前をあらゆる記憶が早回しで通り過ぎて言った。
ライトがあたって光る鏡。床を蹴るときのキュッという音。スケジュール表がななめにつけられたロッカー。そしてあの、スタンディングオベーション。
葬り去っていた記憶がマコトの思いこみではなく、たしかに存在していた時間だったことを、目の前に立つ男は体現していた。
かえで。かつてのチームメイトの名前をもう一度、心の中で呟いた。
楓は、名前を呼ばれたことが屈辱でもあるかのように顔を歪めて、
「おまえ、こんなところでなにしてるんだ」
言いながら、マコトのジャージ姿をジロジロと見下ろした。
「……楓こそ、なにしに来たんだよ。バカンスか?」
わざと笑顔を作って聞く。楓は眉間にぎゅっとシワを作り、それからふっと唇を歪めて笑った。
「俺、江南大のダンスサークルにいるんだ。今日からここで合宿だよ」
江南大といえば、ジャパン・ダンス・アワードの大学生・社会人部門の出場常連校だった。無意識に唇をかみしめる。楓は表情が変わったマコトを見て、さらに笑みを増す。
「おまえは?」
問いに目を伏せる。これだから昔の知り合いには会いたくなかったんだ。
「手話サークルだよ。僕たちも合宿で来てるんだ」
マコトではなく、ポコちゃんが答えた。気がつけば、ポコちゃんはマコトのすぐ隣に立っていた。その隣にはアオ。アオが手話でなにか言った。真横に立ってるから、なにを言ってるのかはわからない。
突然口パクで両手を動かしはじめたアオを、楓は不吉なものでも見るような顔で見ていた。すっとマコトに視線を移動させる。目が合う。
ぶわっはっは。
楓が笑った。腹に両手をあてて、
「あの新川が、しゅわ? マジかよ」
ゴッチンとかマモルにも言わねーとな。チームメイトの名前を出しては笑う。
蝉の声が、いつのまにか復活している。蝉の鳴き声と楓の笑い声が、溶けて混ざり、マコトの耳にざらざらと砂のように入りこんでくる。
――手話? おまえ、何でそんなの入ってんの?
大学の友だちの声が、重なる。
もうシューカツのこととか考えてんのか?
企業ウケしそうじゃん、老人ホームで手話とかさ
「きみ――」
ポコちゃんがなにか言うより早く。
ダンッ。
マコトは楓の襟首をつかんでいた。
「うるっせえよ。そうだよ手話サークルだよ」
脳裏に、走馬灯のように浮かんだたくさんの顔。
ポコちゃんの笑顔。アオが顔をしかめて、一瞬だけ笑う。アネサンのひょうひょうとした笑い顔。黒田は文句ばっかだけど、練習をサボったことはない。功はそれをうれしそうに俺に言ってきた。ヨウは一人で日本に来て、日本語も日本の手話も勉強してる努力家だ。ヨウのおかげでアキバはガリガリだったけど、最近ちょっと筋肉ついてきたんだぜ。
努力してんだ、皆。
そして静香。
俺、あのひとが大好きだ。
「俺はアシオト(ここ)が好きなんだよ。文句あっか」
楓が面食らった顔でマコトを見る。
「おら、そのへんで手ぇ放しな」
後ろから声が飛ぶ。振り返ると、両腕を組んだアネサンを中心に、全員が立っていた。
「熱烈な告白サンキューな、マコト」
功がニコニコ笑う。黒田が隣でメガネをくいっと上げる。
「だからって暴力はやめてよね。うちは健全なサークルなんだから」
「黒田サン、さっき自分殴り行きソウデシタ」
「ちょっとヨウさんなに言ってんのよ!」
「いや、マコト君、我輩は感動したぞ」
めがねを取って目元に手をあてるアキバにヨウがフェイスタオルを渡す。その隣の静香と目が合う。胸元で拳をぎゅっと握りしめ、こっちを心配そうに見ていた。
なんか俺いつも、心配かけてばっかだな。
ふっと手の力がぬける。楓が乱暴にマコトの手を振りほどいて、
「なんだよあいつら」
アネサンたちをジロッと睨んだ。マコトは
「俺の先輩だ」
と呟いた。
「帰るぞ、マコト」
アネサンが言うと同時に、ポン。肩に、柔らかな衝撃。ポコちゃんがにっこり笑ってマコトの体を押した。ポコちゃんとアオの目がマコトを促がす。 マコトは小さく頷いて、歩き出した。
「新川」
楓の声が背中に降ってくる。おもわず立ち止まり、振り返る。楓は目をすがめてマコトを見て、
「宝仙大だよな、おまえ」
問いかけに、無言で頷く。
「追いかけていったのかと思ったけど、ちがうのか」
たしかめるように、楓が言う。じろりとこちらを見据える眼差しは、マコトを通り越して、もっと深く、遠いところを見ているようだった。
ふいに、あのときの視線が、重なる。
「……なんのことだ?」
かつてのチームメイトに問う。すぐそばの樹で、ひときわ大きく、蝉が鳴いた。
ミーンミンミンミンミ――。ジ――ワジワジワジ――……。
水を浴びた体が、急速に渇いていく。楓が口を開く。
ミィーンミンミンミンミィ――。
宝仙大のダンス部だろ。コーチが今、教えてるところ。
薄暗い天井に吸いこまれていく湯煙を、アオはじっと目で追っていた。
『アオ』
シャワーを使っていたポコちゃんが、湯船に入ってきた。アオは尋ねる。
『あいつは?』
めがねを取っているから、手話がよく見えなかったようだ。ポコちゃんは目を細めながら、湯をかきわけてすぐ隣にやってくる。波立つお湯の振動が体に伝わってくる。
アオはもう一度尋ねた。
『マコトは?』
『先に寝るって』
アオは正面を向き直る。湯煙の向こうで、頭を洗っているアキバと功が並んで座っている。湯の熱で、身体がやわらかく蕩けていきそうだ。背中や鎖骨から、ふつりふつりと、汗が吹き出してくるのがわかる。
目を閉じると、眼裏にさっきの光景が浮かび上がった。
マコトのチームメイトだという男。その男を見るマコトは、見たことのないくらい警戒した目をしていた。
ジャパン・ダンス・アワード出場校。そのなかでも特に目を惹く存在だったマコトが、どうしてホウ大の手話サークルにいるのか。ずっと気になっていた。
だけど。
ポコちゃんがアオの肩を叩く。アオは目を開いて、隣を見た。血行が良いポコちゃんの顔はすでに真っ赤になっている。
『マコト君のあんな顔、はじめて見た』
アオは片手を湯から出して、親指と人さし指を二回合わせた。
『そうだな』
ポコちゃんがもどかしげな顔をする。
『僕たちにできることはないのかな?』
『ないだろ』
幼なじみがすねたように赤い頬を膨らませる。恨みがましげな目。アオ相手だと、ポコちゃんはこんな顔もする。
アオは首を傾げて、ふたたび暗い天井を見上げた。
手話って不便だよな、と前にアネサンが言っていた。口で言う言葉は形が無いから、いくらでもごまかせる。だけど手話はハッキリと見えちまうだろ? 形になるから、濁すことができねぇな、と。
産まれた時から耳が聞こえず、言葉を話したことがないアオには比較することはできない。だけど、なんとなく言いたいことはわかる。たしかにそうかもしれない。
ポコちゃんはさみしげに目を伏せ、両手を動かした。指から水滴が、雨のように落ちていく。
『カエデって人が言ってたコーチって、誰なんだろう』
――寝れねぇ。
マコトは布団の中で寝返りをうった。風呂にも入らず横になってから数時間、体は疲れているのに頭が妙に興奮して、さっきから眠りかけては覚醒して、をくり返している。
眠りたいけど、寝れない。もっと言えば、寝たくない。こんな気もちで眠ってしまったら、たぶん絶対、嫌な夢を見る。
ハーッとため息をついて起き上がる。隣のポコちゃんは口をぽっかり半開きにして、すやすやと眠っている。その隣のアオからも、安らかな寝息が聞こえた。窓際に布団を敷いたアキバは、その隣に寝る功の布団から抜け出た左足と左手に上から押さえつけられているけれど、起きる気配は無い。
枕元に置いた携帯を見ると、もうすぐ二時になろうとしている。時間を見たら、更に眠れなくなってきた。片手で顔を覆う。
ちょっと、気分転換でもしてくるかな。
眠ることをあきらめて、着ていたTシャツの上にパーカーを羽織ると、携帯と財布をポケットに入れそっと部屋を出た。
ロビーは真っ暗だった。受付に置かれた小さなヘッドスタンドが、夜の海を照らす灯台のようにぽつりと光って、その周りだけをわずかに照らしている。
静まり返った食堂やみやげ物屋を前に立っていると、自分が世界に置き去りにされているような気がしてくる。昼間あんなにうるさかった蝉の鳴き声も聞こえない。
むかし、こんな風に、眠れなくなった時期があった。長い永い夜の闇の中にいると、考えなくてもいいことまで頭に次々浮かんで、おそろしくて息もつけなかった。
キィ。
玄関のガラス戸に手をかける。一歩外に出ると、風が木々の葉を揺らす音が聞こえた。びゅううう、と空の奥のほうが唸る音。だれにも聴かれることのない、孤独な音楽のようだった。
体育館からは、灯りが漏れていた。誰かが消し忘れたんだろうか。深く考えずに戸を開ける。
「――――楓」
おもわず声が出た。鏡に向かって練習を続ける、楓の姿があった。楓は弾かれたように振り返る。
「新川?」
楓は汗だくだった。ずいぶん長い時間、練習してたんだろう。
「おまえ、なにしてんだよ」
おどろいて尋ねると、楓も大きな声で、
「おまえこそ、こんな時間に」
言いかけて、あわてて口を抑える。マコトの後ろの開け放した戸を忌々しげに睨んで、
「いいから入れよ。だれかに見られたら面倒だろ」
と、早口で言った。マコトは戸を締めながら、冷めた目で言う。
「俺は別に平気だよ。おまえだろ? バレたらまずいのは。なにコソコソやってんだよ」
楓は大股で目の前まで来ると、腕を伸ばしマコトのシャツの首元をつかんで引き寄せた。
「だれのせいだと思ってんだよ。おかげでこっちは眠れやしねぇ。大学が別になってようやくおサラバと思ったのに、なんで現れたんだ」
楓の目が鋭利に尖る。視線で人が殺せるなら、俺いま死んでたかもしれない、と妙なことを考える。
「ざっけんな」
襟元をつかむ手を、思い切り払いのける。
「こっちの台詞だ。俺がなんでホウ大入ったと思ってるんだ」
マコトがホウ大に入学した理由。かわいい女の子が多いこと。
それと――チームメイトたちがいないこと。
楓が尖った目のままマコトを見下ろす。
「知るかよそんなこと」
急にマコトに興味を失ったように、隅に置いたフィエスタオルで顔を拭うと、タオルと一緒に置いていたペットボトルからスポーツドリンクを飲んだ。
ペットボトルから口を離すと、マコトを見ずに
「帰れよ。体育館、もうおまえ関係ないだろ」
ペットボトルをもとの位置に置いて、背を向けた。Tシャツ越しでもわかる、肩甲骨の筋肉が隆起している。あのときはまだ十七歳だった。今はもう、大人の男の体だ。
楓の背中が膨らむ。一瞬後、すぼまる。また膨らむ。一つの大きなポンプのように。生命を感じる。アップとダウンのくり返し。人間の体幹を使った運動。ダンスの、いや全てのエネルギーの基盤。楓の身体が変化していく。 爪の先から髪の先まで、神経が行き届いてない部分はどこにもない。楓という人間ひとつを丸ごと使って、飛ぶ。跳ねる。刻む。描く。
音楽はないのに。ライトはたったひとつ、天井に点いているだけなのに。 そのしなやかさ。その迫力。
マコトは動けなかった。目の前で踊る楓に圧倒されていた。
忘れていた。天啓を得た信者のように思う。
これがダンスだ。
「――なんだよ、おまえまだいたのか」
ひと通り踊り切った楓が振り返る。ペットボトルを置いているところに座りこんで、ふたたびボトルに口をつける。ゴッゴッゴッ。楓がスポーツドリンクを胃に流しこむ音がかすかに響く。
「おまえ、さっきの話本当か?」
口元を手でこすりながら、楓が尋ねる。
「手話サークルって」
声に嘲笑が混ざる。
「泉ヶ丘の新川が手話なんて、ほんっと、だれも信じねぇよ」
クックと笑う声に、頬に熱がさす。
「うるせぇよ」
楓は見透かしたような目で、
「なに。じゃあおまえ、シュワほんとに好きなの? なんのためにやってんの?」
薄く笑う。咄嗟に言葉が出ないマコトに追い討ちをかけるように、
「ほんとは、まだ未練があるんだろ? こっちに。その証拠にここにいるもんな、おまえ」
「ちげぇよ」
声が大きくなる。
でも、と別の声がする。
楓の言う通りだ。興味がないなら引き返せばいい。なんで真夜中に、こんなところに留まってるんだ? 自分の問いに答えられない。
楓はニヤニヤと笑ったまま、立ち上がる。
「ま、いいぜ。それならそれで。シュワ、せいぜいがんばれよ」
出て行きかけた楓に、おもわず声をかけた。
「コーチが」
ピタ、と楓の足が止まる。
「コーチが、ホウ大にいるって」
ぎゅっと、固めた拳の爪が掌にくいこむ。心臓が早鐘をうつ。
「ほんとなのか」
楓が振り返って、冷たく笑った。
「たしかめてみればいいだろ、自分で」




