1番したいこと
翌日。マコトは「ふくみ」の前に立っていた。
まるで大学受験の試験会場に立っているときのような、緊張感が全身を飲みこむ。背後から首の後ろや背中、腕を灼く陽射しは熱いのに、身体の内側は氷を詰められたように冷たくなっている。
とにかく、このままでいいわけない。まだ、自分の言葉でなにも伝えてない。
こんな形で終わることだけは嫌だ。
アネサン。功。ポコちゃん。アオ。静香。アキバ。ヨウ。黒田。
皆の顔が脳裏に浮かんでいく。フーッと吐く息が震えていた。
扉に手をかける。キィ。向こう側から、煙草の染み付いた独特の臭いがする。一歩、踏み出した。
「こんにちは」
声はかすれ、裏返り、自分の中へともどっていくようだった。マコトは店内で、ぼんやりと立ち尽くす。
誰もいなかった。
練習にバテて床に倒れているアキバ。アキバの頭の上に団扇で風を送るヨウ。それを見て笑うアネサン。隅で練習に励む黒田と指導する功。鈴の鳴る声でこんにちは、と微笑む静香。自分を見つけ、振り返って笑うポコちゃん。それと、隣で腕を組むアオ。
だれもいない。
呆然と立っていると、店の奥の扉がゆっくりと開いた。
「あの」考えるより先に声が出ていた。
半開きになった扉から出てきたのは、福実だった。
ハァッハァッハァッ。
吐く息さえも熱をもっているようだ。
マコトは駅に向かって全速力で走っていた。暴れる心臓は、走りによるものなのか、聞いたばかりの話の所為なのかわからない。
蝉が狂ったように鳴き、背中から滲むぬるっとした汗がTシャツに貼りつく。ジーンズが汗ばんで走りにくい。
静香と初めて会ったファミリーマートの前を横切る。あの時、桜吹雪のように目の前で散らばったチラシ。
あそこから始まったんだ。
マコトは泣きたいような気もちで角を曲がると、大通りを一目散に駆け抜けた。
久しぶりに手を動かして尋ねた。
『皆さんは?』
福実が言葉を返す。手話は速くて読み取れず、何度か「もう一度お願いします」と同じ手話をくり返す。自分の手話が数日の間にガクッと下がっていることを感じて、唇をかみしめる。難解な暗号を解読するかのように、焦れて叫びたくなる心を宥めながら、少しずつ読み解いていく。
ようやくコトの全貌が明らかになったとき、思い切り殴られたような衝撃を受けた。
『もうここには来てないの』
さみしげな顔で福実はそう言った。
二日前、練習中に皆の間で揉め事が起こったらしい。発端は黒田。福実は濁していたけれど、どうやらマコトのことがきっかけだったようだ。黒田が自分のことをなんと言ったかは想像がつく。真面目な黒田が、無断欠席を続けている自分を許せるはずもない。
福実の言葉を借りれば「マコトをかばった」アオと黒田が諍いになり、アオを引きとめようとしたアネサンがケガをした。ドミノ倒しのように亀裂があちこちに走り、アシオトの雰囲気はかつてないほど悪くなってる。
全部、マコトのせいだ。
ドクドクと打つ心臓は、身体を突き破りたくてしょうがないというように体内で暴れ狂う。汗がとめどなく流れ、目に流れこんで染みてくる。駅までの距離が、今までにないくらい遠く感じる。
ラーメン屋の前を横切って信号を渡ると駅が見えてきた。汗でぬめる拳を握りなおす。「ふくみ」からここまで全力で走ってきて、身体中の血液が沸騰している気がする。それでも少しも速度を落とさず走り、駅前のロータリーを横断する歩道橋を駆け上った。
福実の言葉が、頭の中をぐるぐると巡る。
『アオ君はサークルを辞めたいんですって』
アオだけじゃない。黒田も連絡が途絶えて、サークルに来てないらしい。もはや学祭どころではなく、サークルそのものを存続させるかどうか、という話にまでなっているようだ。
なにも知らなかった。違和感はあったのに、聞こうともしなかった。
――もう君だけなんだよ、アシオトを元にもどせるのは。
ポコちゃんの言葉がよみがえる。皆は昨日、マコトに助けを求めに来たんだ。
それなのに、俺は。
焼けたように痛む肺は、酸素以外のなにかを求めているようだった。顎を上げる。歩道橋から見下ろす駅前では、お盆だからか、大きなスーツケースを持った家族連れやカップルがのんびりと歩いている。部活用のスポーツバッグを肩に提げた高校生の集団や、ティッシュを配るアルバイトの間を抜け、改札へとノンストップで滑りこむ。
いつだって自分のことばかりで、大事なものを見落とす。またくり返すのかよ、と自分を殴り飛ばしてやりたい。
ホームに続く階段の下にかかっている電光掲示板を見上げる。ちょうど電車の発車時刻だった。ピィーッとドアが閉まる音が響き渡る。
間に合うだろうか?
一度立ち止まったら、蛇口の水をひねるようにいっきに汗が噴き出した。
マコトは腕を大きく振り、階段へと駆け上がった。
山手線で十五分ほどいった、学生街として有名な駅で降りた。駅の正面の大通りを渡り、居酒屋やラーメン屋やタバコ屋が連なる商店街を抜け、住宅街へと入る。どこかの家からカレーの匂いがして、急激に腹が減り、へその辺りに手をやる。
夏の夕暮れはなかなかやってこない。六時半になろうとしているのに、辺りは明るくて空は薄水色のままだった。ぬるい風が汗で湿った前髪を音もなく揺らした。
白い壁の二階建てアパート。灰色の塀には白く筆記体でアパートの名前が書いてあるけど、筆記体の読めないマコトにはなんと書かれているかわからなかった。尻ポケットに突っこんだ携帯を見て、住所を確認する。
もしまちがっていても、何度だって探してやる。
顔を上げるとアパートの廊下を一番奥まで進んだ。ドアの前の表札を確認し、ほっと息を吐き出す。ここだ。
呼び鈴を鳴らしながら不安になる。これ、意味あんのか? 予想に反して、しばらく待っているとカチャリと鍵の開く音がした。
いぶかしげに細められた目は、マコトを認めると驚きに丸くなった。
マコトは黙って片手を上げた。
『よう』
アオは不機嫌そうに唇を結んだ。
ひどいありさまだった。あちこちに飛び跳ねた黒い髪が鳥の巣のようになっている。顎は無精ひげで覆われて、目の下にはクマができている。
おまえ、やばい面だぞ。
おもわず口に出して言いながら、薄く開いたドアを覗きこむ。アオは警戒するように首を横に振った。マコトは汗で貼りついたTシャツを背中から剥がしながらにっこり笑うと、しつこい新聞勧誘のごとくガッと足をドアの間にねじこんだ。おどろいたアオが肩を叩いて押し戻そうとするのをかまわず、押し広げたドアから室内に侵入した。
玄関から三歩でリビング兼寝室になっている部屋には、敷きっ放しの布団の上にかかっているタオルケットが海面の波のようにぐにゃりと曲がって放られていた。布団の手前に置かれた小さなテーブルの上にプリントが乱雑に置かれ、隣に置かれている扇風機の巻き起こす風でパタパタと端がめくられている。
部屋の左手には小さなキッチンがあり、鍋やまな板や空のペットボトルが吊るされていた。ドアの正面の一番奥にはベランダへとつながっているガラス戸があり、そこが大きく開け放たれている。
後ろを振り返ると、アオは玄関の扉に背をもたれながら両腕を組んで、相変わらず警戒した目でマコトを睨んでいた。
『ポコちゃんから聞いたのか?』
なんのことだ、という顔をすると地面を指差す。家のことを聞いてるんだとわかり、頷く。
「ふくみ」を出てすぐにポコちゃんに電話した。アオの家教えてくれ、と開口一番に言うと、電話越しに息を呑む気配が伝わった。それからすぐにメールで住所が送られてきた。
「マコト君、頼んだよ」
電話口でそう言ったポコちゃんの声は、いつもよりも低く、昨日の功とそっくりだった。この兄弟はやっぱり似ている。マコトは震えそうになる唇を噛んで通話ボタンを切った。
アオは目をそらすと悔しそうにそっぽを向いた。かまわず一歩近づくと、片腕を叩いて呼びかける。
『おまえと黒田さんのこと、福実さんに聞いた。ほんと、悪かった。俺の』
ダン、と音がした。
アオが自分の掌に向けて片手を切るように振り下ろした。この手話は。
『やめろ』
アオの黒い目が、マコトを鋭く睨みつける。
『おまえのことなんて関係ない』
アオの手話が、マコトには読み取れないくらい早くなる。だけどマコトにはアオの言いたいことがわかった。眉間に刻まれたシワ。ぼさぼさの髪。首元がよれたシャツ。
苦しんでる。傷ついてる。
マコトはさらに一歩詰め寄り、アオの腕を強く引いた。アオがビクッと身体を震わせる。アオの黒い目が、荒れた夜の海のように不安げに揺れている。つかんだ腕は冷たかった。
言わなくちゃ。昨日言えずにいたこと。自分の気もちを。
『俺、アシオトを元にもどしたいんだ』
気がつけば声も出ていた。
「俺のせいでアシオトはバラバラになっちまった。だけど必ず、元のアシオトに戻してみせるから。だから頼む。協力してくれ」
次の瞬間、アオは腕を乱暴に振り払うと玄関のドアを睨みつけるようにそっぽを向いた。強張った背中が、昨日のアネサンと重なる。くじけそうになる心を突き飛ばして、前に回りこんで目を合わせる。
アオは身体を後ろにそらし、眉間にシワを寄せてマコトを見下ろしていた。
どきどきする。
刻む鼓動は、昨日のように身体を震わせはしなかった。
俺は負けない。
俺が本当にしたいことは。
「俺たちはチームなんだろ」
叫んだ。アオは黙ってマコトを見ていた。沈黙が数秒間を、やけに長いものにした。やがてアオの手が動く。
『俺もそう思ってた。でも、わかんなくなった』
黒い目がマコトを見つめる。心の奥まで見透かしそうな、深い黒。黒が揺らぐ。
『おまえはいなくなるし、それに黒田さん』
眉がぎゅっと寄せられ、苦しげな顔になる。
『あんなこと言う人を、もうチームメイトだって思えない』
聞こえないとわからないかもしれないけど。黒田はアオにそう言ったらしい。もちろん悪気があったわけじゃない。だけどアオは思い出してしまった。障害者だからという理由でサッカーを辞めさせられたことを。
アオは視線を開け放したベランダにやり、両腕は胸の前で固く組んだ。マコトにはそれが、自分の心の奥にあるやわらかなものを必死に守ろうとしているように見えた。
身体の横で拳をグッと握りしめる。その手を開いて、ゆっくりと動かした。
『黒田さんがそんなこと、本気で言うわけない。おまえだってわかってるだろ』
アオは不機嫌そうにマコトをにらんだ。
『なんでそんなことわかるんだよ』
わかるに決まってんだろ、と怒鳴る。
「おまえ、春からずっとなに見てきたんだよ。あの人がアシオト好きなこと、聞こえないことをバカにしてないこと、俺なんかよりおまえのほうがよっぽどわかってるだろ」
まくしたててから、こちらを睨むアオに焦れてテーブルの上に散乱するプリントをつかんだ。手近なペンをつかみ、プリントに字を書こうとして。
・トゥエル→ポイント・肘から上げる
・スクービードゥ→スリーカウント目、つま先じゃなくカカトから前に蹴る。頭の位置、注意
・マコトがこっちを見てから2カウント目・ポコちゃんがしゃがみこんだすぐ後
・マコトが左手を上げてからフォーカウント後
・マコトの両手を見る! 見る! 見る! 床の振動にも注意
プリントいっぱいに書かれたダンスの注意書きだった。
耳の聞こえないアオが、ダンスをする中で覚えていったタイミングや出だしの入り方が、細かく書きこまれている。マコトはごくりと息を呑む。
マコトが見ているものに気がついたアオが、あわててプリントを奪う。マコトはゆっくり振り返った。
「おまえ」
声がかすれる。アオがいぶかしげにマコトを見返す。
「ほんと素直じゃねぇな」
たったひとりこの部屋に閉じこもって、プリントを見つめ続けるアオを想像した。力なく笑いながら、でも泣きそうにもなっていた。
心の角が削がれて、後に残ったのはシンプルな気もちだった。
『俺、やっぱりアシオトが好きだ』
マコトはアオをまっすぐに見つめた。アオの黒い瞳を見つめたまま言葉を重ねる。
『一緒にもどろう』
アオは手の中で握りしめたプリントに視線を落とした。やがてゆっくりと顔を上げる。
『ダンス部はどうするんだ』
マコトは笑っていた。あれほど考えたのに。
一番したいことはなんだ?
『俺は、おまえたちと一緒にいたいんだ』
高校時代、マコトはいじめられていたらしい。自分のことなのに気がつかなかった。どうでもよかった。
それほどに、マコトは独りだった。
アシオトではそうはいかない。失恋しようが、騙されて怒ろうがおかまいなしに、グイグイ渦の中に引きこまれる。
自分を中心に引っぱろうとするいくつもの手。その手が、言葉を紡ぐ。マコトに語りかけて、想いを伝えようとしてくる。聞こえないと尻込んでも、伝わるまで、届くまで何度も懸命に訴えかけてくる。
想いを届けることに真剣なひとたち。マコトの過去を受け止め、信じてくれる。
今までいなかったんだ、こんなひとたち。
『今度は俺が、届けるよ。皆に』
ここが俺のステージなんだって、胸を張って伝えたい。
『マコト』
アオがじっとマコトを見つめた。その顔によぎる感情をすべて読み取ろうとするかのように。やがて、ゆっくりと手を動かす。
『今度は途中でいなくなるなよ』
マコトは笑って頷いた。
『おまえが勝手に帰ったりしなきゃな』
アオはふっと唇の端を上げる。あの独特の笑い方。どこまでいっても素直じゃない奴。だけど人のこと言えない。俺たちはよく似ているんだ。
『アネサンにはちゃんと謝れよ。あれでも女の子なんだからよ』
細い腕に巻かれた包帯を思い出す。アオも苦い顔をして頷く。その顔から、自分がしたことをずっと後悔してたことがわかった。
外に出ると、ミーとジーの間くらいの柔らかい声で、蝉が鳴いていた。気がつけば日が落ちかけている。薄紫色の空に、家々の灯りが滲んでいる。マコトは駅への道を、ゆったりとした足取りで戻っていった。
そのまま学校に戻ると、講堂へと向かう。
ほかの部員はすでに帰っているらしく、壇上へと上がる階段に背をもたれてコーチが一人立っていた。マコトの顔を見た瞬間、すべてわかったように、ふーっとため息を吐いた。
コーチはひとさし指と中指で、鼻と唇の間をなでるようにこすった。煙草が吸いたいときの癖。コーチはマコトを見ながら小さく笑って、講堂の床に座りこんだ。マコトも隣に腰を下ろす。しばらく二人で、静まり返った講堂に黙って座っていた。
「昔も、こんなふうに二人だけで体育館残ってたよな」
コーチがなつかしそうに目を細める。マコトは無言のまま頷いた。
「もしさ」
コーチがぽつりと言う。
「昔に戻って、俺が中学生で、おまえが近所のガキンチョで、そんで別にダンス上手くなかったとして」
「うん」
「それでもやっぱり、一緒に通ったんだろうな、スタジオ」
黙って頷くと、また静寂が訪れる。天井近くまである高い窓の向こうは、墨のような闇色だ。マコトはアオの目を思い出した。時おり、手話より文字よりも、あの目がなにより想いを雄弁に伝えていると思うときがある。
窓の外から視線をはずすと、コーチがじっとマコトを見ていた。眉がわずかに寄せられている。マコトの言葉を急かしているようにも、拒絶しているようにも見える表情。
マコトはコーチと向かい合った。
「ごめん。俺、やっぱりアシオトに戻る」
戻りたい、ではなく戻ると告げた。もう揺らがないという想いをこめて。 コーチが目を閉じる。タバコの煙を吐き出すように、長く息を吐く。そのまま黙っているので、マコトは言葉を続けた。
「俺、あの人たちにいつも助けてもらうばかりだったから、今度は、助けたいんだ」
マコトの所為でバラバラになって、傷ついてる皆を。
コーチは、再び深く長い息を吐いた。やがて小さく二度、頷いた。
「前さ、学校の中でおまえ見たって言ったろ」
マコトは黙って頷く。
「楽しそうだったよ、おまえ。金髪のねーちゃんとあの、耳聞こえない」
「アオ」
「っていうのか? その子らと一緒にいてさ。だからわかってたんだ」
顔を上げると、コーチは優しく笑ってた。
「ごめんな」
それは何に対しての謝罪だったんだろう。高校生のときに黙って消えたことへの? 校内で声をかけてくれなかったことへの? それとも、別の。
マコトはなんと言ったらいいかわからず、視線を膝に落とした。
「学祭、見に来てよ」
「行けたらな」
来る気の無さそうな、おざなりな返事。マコトはふいに不安になって、
「まさか、ここのコーチやめたりしないよな?」
尋ねると、コーチは眉間にシワを寄せて苦笑した。
「そこまでいいかげんじゃねぇよ。紺野もいるし」
あぐらをかいていた足をほどいて投げ出すと、身体をやや後ろにそらして上を向いた。
「あいつ、どっか似てんだよ。ダンス始めたばっかりの頃のおまえに」
マコトは頷いた。頷きながら言っていた。
「でも、紺野は紺野だから」
「……そうだな」
コーチの口元がふっと上がる。マコトを見て言った。
「学祭、行くよ。必ず」
その夜、三度目の電話で黒田は出た。長い沈黙を何度もくり返し、ようやく約束を取り付ける。「アオも来ます」と言ったのが決め手になった。その名前を出したとき、黒田の声は震えていたように聞こえた。
話し終えると、力を入れて耳に押しあてていた携帯は汗で汚れていた。掌でふき取りながら、ぼんやりと思う。
俺たちは何度もまちがえる。痛い目見て、それなのにまた性懲りもなく、同じような傷をつけていく。
だけどまちがえても、修復していけばいいんだ。
俺の手で壊してしまったアシオトを、必ず元通りにしてみせる。




