コーチ
翌朝。合宿所を出たマコトたちが、荷物を地面に置いて帰りのバスを待っていると、マラソンをしてる集団がこちらに向かってきた。
集団の中ほどには楓がいた。楓はすれちがいざま、にやりと笑う。小馬鹿にしたような笑い。
「楓」
おもわず、通り過ぎる背中に呼びかけていた。
楓は数歩走ったところで立ち止まった。振り向かない。楓の後ろを走っていた数人が、楓を中心に左右に別れて追い抜く。皆、突然止まったメンバーを訝しげに見る。
具合悪いのか? とすれちがいざま聞く人がいた。楓が首を振る。相手は安心したように笑い、楓の肩を叩いて走っていく。
楓も、新しい環境で踊っている。色々なことがあったけど、過去を振り切って前に進んでるんだ。
俺も。
考えるより早く、走り出していた。足が地面に着地するたびに、昨日打ち付けた足首にするどい痛みがはしった。顔をしかめる。痛みをかばおうとして、肩が大きく上下する。ぶざまな格好。でも走り止めることはなかった。 楓の正面に回りこむ。汗だくの楓の目の下には黒いクマがくっきり浮いていた。
「なんだよ」
楓が眉をひそめる。マコトは息を整えながら時間をかせぐ。追いかけてきたくせに、なにを言えばいいのかわからなかった。黙っていると、楓は苛立ったようにハァツと大きく息を吐き、通り過ぎようとした。
そのとき、楓の向こう側に、マコトたちの様子をじっと見ている皆の姿が見えた。
なぜか唐突に、一日目に教わった「過去」と「未来」の手話の話が、頭によみがえってくる。
手話では、自分の体を軸にして、体より前の空間が未来を表す。
あの人たちがいるところは、俺の未来だ。
「俺、手話ダンスやってるんだ」
聞きなれない言葉に、楓の目が訝しげに細められる。マコトは気にせず続けた。
「学祭来てよ。見てほしいんだ」
楓はなにも言わず、マコトを睨むように見据えていた。
「バカらし」
小さく呟くと、ふたたび両手の拳を軽くにぎりこみ、そのまま走り出した。小さくなっていくその背中を、マコトは長い間見つめていた。
『マコト君、大丈夫?』
心配したポコちゃんが、向こう側から尋ねてくる。手話は遠くにいても会話できるから便利だ。
マコトは頷いて、痛む足を引きずりながら皆のところに戻っていった。
「それじゃ、ここで解散だ。夏休み中も『ふくみ』で変わらず練習するから、また顔出せよ」
バスが到着した新宿駅の西口で、学生やサラリーマンが周りを忙しなく通り過ぎる中、アネサンは両手を動かしながら言った。手話だー、と三人組みの女子高生が言いながら通り過ぎる。けど、もう気にならなかった。
それぞれが改札に向かいながら、何線で帰るー? と言い合う中、マコトはアオとポコちゃんと話す功に近づいた。
「あの、ダンス部って練習どこでやってるか知ってます?」
功は眉を寄せ、
「知らないなぁ。二人は知ってる?」
とアオとポコちゃんを振り向く。二人が首を振ると、
「たしか講堂で練習してるのがダンス部のはずだぞ」
アネサンが話に入ってきた。講堂と言えば、入学式が行われた体育館だ。
アネサンはマコトをじっと見る。
「コーチって奴に、会いに行くのか」
その言葉を聞いた三人が、驚いてマコトを振り返る。
「おい、マコトそうなのか?」
マコトは黙って頷いた。
「これから行こうと思ってます」
ドラムバッグを握る手に力をこめる。楓に聞いたときから、決めていたことだった。
あのひとに会わないといけない。そうしないと俺は、きちんと前に進めないんだ。
アネサンは数秒黙ってマコトを見て、やがて小さく何度か頷いた。
「わかった。アオ」
アオに視線を向ける。呼ばれたアオは問うようにアネサンを見る。
「悪ぃけど、こいつと一緒に今から学校行ってくれないか?」
「は?」
マコトは驚いて目を丸くする。アオも同じだったようで、とまどったようにアネサンを見た。
「なんで」
おもわず大きな声が出る。アネサンはなぐり合うようなジェスチャーをして、
「おまえが昨日みたいにコーチとやらととっくみ合いのケンカおっぱじめないか、見張る奴いたほうがいいからな」
「なに言ってるんですか」
不満げに言うと、アネサンはマコトに向かってビシッとひとさし指を突き出す。
「マコト。お家に帰るまでが遠足ですって言うだろ? ってことはお家に帰るまでが合宿なんだよ。部長の言うこと、おまえはイイコだから聞くよな?」
そう言って艶然と笑う。功とポコちゃんは目を見交わし、なぜか楽しそうにニヤニヤ笑っている。マコトは大きなため息を吐いた。
「なんでそうなるんだよ」
さっき「解散」って言ったくせに、なんて言葉は、この部長の前ではなんの意味もなさない。そういうことだけは、この短い合宿生活で骨身に染みてわかっていた。
マコトとアオは大荷物を背負ったまま大学前のホウ坂を上り、講堂までやって来た。
『マジで着いてこなくてよかったのによ』
じろっと横目でアオを見ると、平然とした顔で
『部長命令だ』
と返される。マコトはふくれ面で、
『アネサン、なんであんなこと言ったんだよ』
『わかんないのか?』
アオが怪訝そうにマコトを見る。
『おまえが心配だからに決まってるだろ』
マコトはおもわず口を開いて、けれどなにを言ったらいいかわからず、アスファルトを睨んで黙った。
頬が熱い。その一方で、一歩進む――正確には足を引きずる――ごとに、心臓が奥から凍りついていくような緊張に苛まされていった。坂道をのぼるごとに足に響く鈍痛さえ、これから起きることから気をそらしてくれているようでありがたかった。
次第に表情が強張っていくマコトを、アオは黙って見ていた。
講堂の前まで来ると、魔物の棲む要塞前にやってきたような気にさえなって、無意識に喉を上下させた。
コーチと別れてから、何度か思った。もしコーチに再び見えることがあるとしたら、その予感のようなものを、自分は感じることができるんじゃないかと。
でも現実はこんなものだ。もし本当にここでコーチをしてるんなら、すれちがってたことだってあるかもしれない。マコトは苦く笑った。
ふいに背中を叩かれる。顔を上げると、アオが不敵とも思える表情でニヤッと笑った。
なにおじ気づいてんだよ。瞳がからかうように問う。わかってるよ、とドラムバッグの先でアオをこづいて、マコトは一歩、踏み出した。
講堂のドアを開けると、聞きなれた音楽が聞こえた。マイケル・ジャクソンの「スリラー」。
あぁ。体に直接音が染みこんでくるかのようだった。天井まで届くほど高い窓から溢れる光を通した室内が、まぶしくて見えない。マコトは目を細めた。ドアに添えたままの手が震えていた。
音楽が渦巻く中、窓から落ちる光を浴びて、数人の男が踊っていた。その一番向こう、ちょうどマコトと向かい合うように、その人は立っていた。
わずかに開いただけの唇からは、なんの声も出なかった。けれどその人はまるでマコトの叫び声を耳にしたかのように、目を驚きに見開いた。
マコトもまた、その人の唇が震えるように動くのを、その唇がたしかに自分の名を口にしたのを、見た。
突然現れた二人に、それまで踊っていた男たちが動きを止めて振り返った。音楽だけが先に進む。それとは別に、壁際にあぐらをかいて座って笑い合う男女が二人ずついた。踊りを止めた男たちのうち、ひときわ背の低い男がこちらに近づき、訝るように尋ねてきた。
「あの、なんですか?」
男の割に妙に高い声。けど、マコトは反応できずにいた。男を素通りして、視線は先を行く。男の後方で、舞台に背を預けるようにして立っている、その人のもとへと。
コーチ。
「紺野」
マコトの耳朶が、久しぶりに聴く声を飲みこむ。まるで自分が呼ばれたかのように、ビクリと反応する。背の低い男が「はい」と後ろを振り返った。
「俺の客だ。おまえらはそのまま練習してろ」
紺野と呼ばれた男は、頷きながらも探るような眼差しをマコトたちに向け、流れたままになっている「スリラー」を止めにコンポに向かって走った。その様子を見て、同じように踊りを止めていた男たちも練習にもどる。壁際で話している集団の女の子が甲高い声で笑う。
コーチが近づいてくる。一歩、二歩。マコトは渇いて引きつる喉をごくんと上下させた。
掌に汗が滲む。心臓が早鐘を打つ。
おもわず、すがるように隣を見上げていた。アオと目が合った。おそらく、ずっとマコトを見ていたんだろう。アオの片手がアオの左の鎖骨、右の鎖骨と順番に軽く叩いていく。
『大丈夫だよ。なにビビッてんだ』
とっさに「ビビッてねぇよ」と言い返す。ふと顔を正面に戻すと、目の前にコーチが立っていた。
ドクン。
「久しぶりだな、マコト」
マコトは答える代わりに、目の前に立つかつての恩師をまじまじと見た。
髪、切ったんだ。
マコトの記憶ではパーマをかけた黒髪が、頬をふちどるように耳下まで伸ばされていて、コーチを年齢よりずっと若く見せていた。それが今は襟足できちんと切りそろえられている。ただ、浅黒く日に焼けた肌は変わってなかった。もとから黒いわけではなく、趣味でサーフィンをしてるからこの時期はいつも真っ黒になってることを思い出した。
なにも言わず自分を見つめ返すマコトを、コーチは黙って見ている。ふたたび「スリラー」が流れ、コーチの後ろで練習が再開された。
「あの人たち」
やっとの思いで口にした言葉は、しわがれて老人のようだった。咳払いして、
「教えてるの?」
紺野と呼ばれた男が一番後ろで踊っていた。動きが拙く、ほかの三人から遅れがちになっている。でも懸命に遅れまいとしている気概を感じて、その姿がポコちゃんの後ろ姿と重なった。
そう思ったら、緊張で縛り付けられていた心が少しだけ軽くなる。
コーチはマコトの視線を追うようにチラッと後ろを振り返り、両腕を組んだ。
「ああ。ボランティアだけどな。頼まれてたまに来てる」
「ボランティア?」
マコトは眉をひそめて、
「ダンス部のコーチじゃないの」
尋ねると、コーチはふしぎそうに唇をへの字に曲げた。昔からよく知る、コーチが考えごとをするときの表情だ。それを見た途端、唐突に熱い塊が胸から這い上がってきたような気がした。
本当にコーチなんだ。
「誰から聞いたか知らないけど、俺ここには――」
ハッとコーチの顔が強張る。隣のアオが息を呑んだのがわかった。でももう堪えられなかった。
胸から這い上がってきた熱い塊は、喉を伝わって目元で溢れ出た。
「どうして、いなくなっちまったんだよ」
それは訴えだった。高校生のマコトが、ずっと抱えていた叫びだった。体温をうつしたような熱い涙を流しながら、マコトは叫んだ。
「俺がどんな気もちだったか、あんたわかってんのかよ」
コーチの眉が苦しげに寄せられる。
ちくしょう。
熱い息とともに言葉を吐く。ダンス部の部員がそれぞれ驚いて振り返っているのがわかる。おしゃべりをしていた集団も、好奇に満ちた視線をマコトたちにそそぐ。
冷静に思い返したら恥ずかしさで死にたくなるような振る舞いを、このときのマコトは止めることができなかった。気がつけばコーチの胸元にしがみついて、どうしてだよと罵っていた。いや、すがりついていた。
瞳から落ちた涙は熱く、コーチをつかむマコトの腕の内側に落ちて滑っていった。
グイッ。
ふいに強い力で引き戻され、顔を上げる。マコトの片腕をつかんだアオが、険しい顔でマコトを見ていた。瞳が、もうやめろ、と告げている。マコトは取り乱した表情のまま、呆然とアオを見返す。心に立った波を止めることができず、迷子の子どものように途方に暮れた目をしていた。
アオの両手がゆっくりと問いかける。
『おまえ、そんなことしたくて会いに来たのか』
アオが形作る手話を見て、コーチが驚いたようにアオを見る。はじめてアオの存在に気がついたようだった。「えっ手話だよ」「すげー」壁際に座っている男女の声が聞こえる。
マコトは緩慢なしぐさで首を横に振った。親指とひとさし指を伸ばした片手をひっくり返す。
「ちがう」
険しい顔で自分を見るコーチと目を合わせる。
「コーチ、俺」
「やっぱりおまえ、手話やってたんだな」
マコトが言うより早く、コーチは言葉を継いだ。驚くマコトに、コーチは両腕を組んだまま淡々と告げる。
「おまえのこと、何回か見かけたよ。一度その隣の子と歩いてるのも見た。あと丸い奴と、金髪の子も一緒だったな」
ポコちゃんとアネサンのことだろう。だがそれよりも、
「なんで」
呻き声のような言葉が、薄く閉じた唇の間から漏れる。
なんで、マコトがいることを知っていて声をかけなかったんだ。
心を読んだように、コーチは眉を寄せて苦く笑った。
「同じ校内にいるからって、のこのこ会いに行けるわけねぇだろ」
どうして、とは言えなかった。少しくだけた口調に、以前のコーチの片鱗をつかんだ気がして、グッと胸を突かれた。自分の片腕をもう片方の腕で強く掴む。
「それに」
呟くようにコーチは告げた。
「おまえは必ず俺に会いに来るって、どっかで信じてた」
「――――え」
思いもよらない告白に、目を見開く。
「マコト」
コーチの強い眼差しがマコトを掴む。この眼。性懲りもなく、マコトの心の一部がはっきりと悦んだのを感じた。
あぁこの目。マコトにダンスの指導をしていたときの目だ。
「ダンス部に入らないか」
体の血液が温度を変えた気がした。
「おまえの姿を見たときから、ずっと思ってた」
「……コーチ」
「自分からいなくなっといて、最低だと思う。だけど、いつかおまえから俺に会いにきたら、その時は、もう一度おまえにダンスを教えようって決めてた」
体の内側から震えがはしる。唇がわななき、魅入られたように動かなくなる。肩を叩かれてぼんやりと顔を向ける。アオが眉をしかめてマコトを見ていた。どうしたんだ、と両手より早く眼差しが尋ねる。
マコトはおもわずその視線から逃れるように、さっとコーチを見返した。マコトの動揺は予想していたことなのだろう。コーチはまっすぐにマコトを見据えたまま、
「すぐに答えなくていい。けど、考えてくれ。おまえが本当にしたいことはなんなのかを」
俺が、本当にしたいこと。
その言葉はマコトの体を貫いて、一番奥まで突き刺さった。
耐え切れず、くらりと視線をずらす。コーチの肩越しに、身を寄せ合うようにして成り行きを見守っているダンス部員たちが立っていた。紺野と目が合う。小さな身体とは逆の大きな目で、挑むようにマコトをじっと見ている。練習で流した汗が頬をふちどるように流れていた。
ふいに、楓の背中を思い出した。
「コーチ」
気づけば尋ねていた。
「ここに来れば、あんたに会えるんだよな? もう」
いなくなったりしないよな。
言葉は喉の奥で止まった。口にしなかったのに、想いは正確に伝わっていたらしい。コーチはふっと唇の端を上げて笑った。
「あぁ。これからはできるだけ来ようと思ってる。踊らなくても、見に来るだけでもいい」
チラッとマコトの足元に視線を転じて、からかうような口調で
「その足じゃどのみち踊れねぇだろ。見るだけでも練習になるからな」
まるで部員に言うような台詞だ。
思い通りになってたまるかよ。そう突っぱねたいのに、言葉が枯れ果てたように出てこない。相変わらず、魅入られたようにコーチを見つめるだけだった。心に刻みこまれたことは一つだけだった。
ここに来ればまた会える。
「君」
ふいにコーチがアオに声をかける。アオは、視線が自分に移ったことに警戒するように眉を寄せた。コーチは部員を振り返って、「だれか書くものない?」と尋ね、そのうちの一人が持っていた大学ノートとシャーペンを受け取った。
マコトを連れてきてくれてありがとう
書いたノートをアオに見せると、にっこり笑った。
アオはこの上なく不快な物を突きつけられたとでもいうように顔を歪めると、素早くシャーペンを握った。せり上がってくる想いをなだめるように数回シャーペンの先をノートにぶつけると、ペンを走らせる。書かれた字を見たマコトは目を見張った。
マコトはおれたちのチームメイトだ
カン、とシャーペンが床に投げ捨てられた。コーチがなにか言うより早く、アオはマコトの腕をつかむとそのまま出口に向かって大またに歩いて行った。慌てて呼びかける。
「おい、アオ、足いてぇっつの」
俺ケガしてんだぞ、と訴える。反応はない。いつかのアオとポコちゃんのようだ。腕を引かれながら、その場に佇むコーチを振り返る。怒るでもなく呆れるでもなく、ただじっとマコトを見ていた。
瞬間、アオの腕を振り払って走り寄りたい衝動に、胸が焼かれる思いがした。




