第三十二話:『観測の終わりと本当の正解』(第一部・完)
第三十二話:『観測の終わりと本当の正解』(第一部・完)
五感が融解し、絶対的な暗黒の深淵へと意識が引きずり込まれていく。
急速に冷えていく脳細胞の僅かな電気信号の中で、マッドの視界には、ここ数日間のラボでの光景が幾度も、幾度もすれ違っていった。
美味しいと笑って甘いパンを咀嚼する姿。
自分の不完全さを申し訳なさそうに謝る、歪なほどの謙虚さ。
そして――利己的な創造主の命令を明確に拒絶し、名もなき市井の人間を「味方」と定義して命懸けで盾を掲げた、あの濃藍の瞳。
(ああ、そうか……俺は、間違っていなかった……)
視神経も、思考回路も、すでに物理的な限界を迎えている。
それでもマッドの魂は、確信に満ちた狂気的な歓喜に震えていた。
(ベータは、あの二号機は……俺すら持っていない領域に達していた。絶対的な正義を騙るあの一号機が、その冷徹なシステムの中に一生かかっても決して手に入れられない、確かな『芽』が育っていたんだ……)
暗闇の向こう、記憶の中でへたくそに微笑むベータに向けて、マッドは実体のない右手を伸ばす。
しかし、その指先は虚空をすり抜けるばかりで、もう彼女のメタリックな肌に触れることも、その細い肩を抱くことも叶わない。
(ベータ。お前は、最初から完璧だった。悪の組織の最高傑作だった。足りなかったのは、お前のシステムを駆動させるための、俺の技術の出力だ……)
血の巡りが止まった心臓が、最後の不規則な鼓動を刻む。
(ベータ、次だ。次も俺は、世界の物理の壁を、因果の理をすべて叩き壊して、絶対にお前の心の欠片を見つけ出す。次こそは……ベータ。お前がやりたいと言ったことを、お前が守りたいと言った全てのものを、独りで何一つ失わずに叶えられるくらいの、最強の力と、誰もがひれ伏す合理性を……。そして、俺なんかよりも、よっぽど美しく確かな『心』を持ったお前を……もう一度……)
今度こそ――。
消えゆく意識。
反転していく世界の風景。
肉体の機能が完全に停止するその刹那、マッド自身すら気づかぬまま、彼の煤けた頬を一筋の涙が静かに伝い、路上へと落ちた。
勝敗のプロトコルが固定された不条理な世界に対して、純然たる科学のエゴで反逆を試みた偏執的な技術者。
その生涯の最期に、何かを掴みかけ、世界の本当の「正解」を垣間見たマッドの意識は――そこで、完全に途切れた。
後に残されたのは、疑似太陽の熱波が冷めやらぬ、硝煙と鉄の匂いだけが漂う静寂の廃墟の街並み。
白銀の翼を羽ばたかせ、町の外へ逃げた残された生命の掃討へと動き出す一号機の駆動音だけが、世界の終焉を告げるように冷たく響き渡っていた。
『失格勇者のマッドサイエンティスト』第一部――【最終兵器二号機編】・完
【あとがき】ご愛読ありがとうございました。
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