風邪
家路を急ぐ途中、ふと思い立ってゆあちゃんに連絡を入れた。
『コンビニに寄るけど、なんかほしいものある?』
スマホの画面を見つめていると、数秒で返信が届く。
『何も要らないです』とそっけない文字が並ぶ。
いつも思うが、ゆあちゃんは本当に無欲だ。
この生活が1か月近く経つのに、彼女の遠慮深い態度は変わらない。
冷蔵庫にジュースやお茶を用意しておいても、手を付けず水道水で済ませる。
俺が「せっかく買ってきたんだから飲みなよ」と言うと、渋々お茶を口にするが、一人の時は蛇口からコップに水を注いで飲んでいるらしい。
そのことが、俺の心に小さな波を立てる。
彼女との間にまだ距離がある気がして、仕方ないと分かっていても、少し寂しさが募る。
彼女が心を開いてくれる日を待ちながら、俺はコンビニの袋を手に提げ、家へと足を進めた。
玄関の鍵を開けると、靴を脱ぐ前にゆあちゃんが姿を見せる。
家事の全てを終えた彼女が、静かに俺を出迎えてくれる。
彼女の黒髪に柔らかな光を投げかける。
顔に残っていた傷跡や痣はほとんど消え、かつて枝のように細かった腕にも、わずかだが肉がついてきた。
白いTシャツの袖が少し上がると、ほのかに丸みを帯びたラインが見える。
彼女の体が少しずつ健康を取り戻している証だ。
「…おかえりなさい」
小さな声が玄関に響き、俺は自然と笑みを浮かべる。
「うん、ただいま」
彼女の頭に手を置き、軽く撫でる。
これが毎日の習慣になっていた。
髪の感触は柔らかく、指先に微かな温かさが残る。でも、今日は何か違う。
手に伝わる熱がいつもより強く、俺の胸に小さな不安が芽生えた。
彼女の顔をよく見ると、頬がうっすら赤く染まっている。
おでこに手を当てると、熱がじわりと伝わってくる。
「…ゆあちゃん、風邪ひいてるの?」
「風邪…わからない…です…。ちょっと…ふらふら…します」
彼女の声が弱々しく、目が少し潤んでいるように見えた。
「おいおい、とりあえずベッドで寝てなさい。家のことは俺が全部やるから。いいね?」
「…でも…」
「でもも何もない。これは命令だ。いいね?」
彼女の軽い体を腕に抱え、寝室へと運ぶ。
華奢な肩が俺の腕に預けられ、微かに震えているのが分かる。
ベッドにそっと下ろし、毛布を肩まで掛ける。
彼女の髪が枕に広がり、目を閉じた顔が静かに沈む。
引き出しから熱さまシートを取り出しつつ、スマホで子供用の風邪薬を調べる。
この前の休みに薬を用意しておけば良かったと後悔が頭を掠める。
最悪、病院に連れて行くしかない。
保険証はないから全額負担になるが、そんなことは今はどうでもいい。
熱さまシートを剥がし、彼女のおでこに貼る。
冷たい感触に、彼女の眉がわずかに動く。
「それじゃ、俺は薬買ってくるから」
「あの…すみません…まだ洗濯が終わってなくて…」
彼女の声が掠れ、申し訳なさそうに俺を見上げる。
「それくらいは俺がやるから。それとご飯は食べられそう? おかゆとか…ゼリーとか買ってくるか…」
立ち上がろうとした瞬間、俺の服の袖を小さな手がぎゅっと掴んだ。
驚いて振り返ると、彼女が目を伏せ、何かを言い淀んでいる。
「…ん? どうしたの?」
「いえ…何でもない…です…」
彼女の声が小さく震え、袖を握る手に力がこもる。
「言ってごらん?」
「いえ…本当に…」
「言いなさい」
「…嫌われたくないので…」
その言葉に、俺の心が一瞬止まる。
彼女の目が潤み、唇が微かに震えている。
「嫌いになんかならないよ。だから言って」
彼女は口をもごもごさせ、目を伏せたまま、まるで親に何かをねだる子供のような表情で呟いた。
「…どこにも…いかないで…ほしい…です」
絞り出した小さな声が、静かな部屋に響く。その一言に、俺の胸が熱くなり、目頭がじわりと滲んだ。
何も変わっていないなんて嘘だ。
彼女は少しずつ、確実に変わっている。
俺を信じ、こうやって想いを口にしてくれる。
「…よく言えました」
俺は優しく彼女の頭を撫で、髪をそっとかき上げる。
彼女の目が俺を見つめ、微かに光る。
スマホを取り出し、配達アプリを開く。
ドラッグストアを選び、おかゆ、ゼリー、子供用の風邪薬を注文する。
注文を終えた後、俺は彼女の手を握り、ベッドの横に座った。
彼女の小さな手が俺の指に絡み、微かな温かさが伝わる。
彼女が目を閉じ、静かに息を整える。
その横顔を見ていると、愛おしさが込み上げてくる。
愛しているとは、きっとこういう気持ちなんだろう。
彼女を守りたい、そばにいたい、そう思うだけで心が満たされる。
しばらくして、配達のチャイムが鳴った。
手を離すと、彼女の眉が少し寄り、寂しそうな表情が浮かぶ。
「すぐ戻ってくるからね」
そう言って玄関へ向かい、商品を受け取る。おかゆを温め直し、ゼリーと一緒にトレイに載せて寝室に戻る。
だが、彼女は眠りに落ちていた。
静かな寝息が部屋に響き、熱さまシートが額に貼られたままの顔が穏やかだ。
起こすのが申し訳なくなりつつも、彼女の頬にそっと指を触れる。
微かな熱がまだ残り、眠っている彼女の体が小さく震えているのが分かる。
「…ゆあちゃん、ご飯だよ。起きてくれる?」
軽く頬をつつくと、彼女のまぶたがゆっくり開く。
眠そうな目が俺を捉え、かすれた声が漏れる。
「…ごめん…なさい…寝ちゃってました」
「こっちこそごめんね。でも、ご飯食べないと元気出ないからさ。ちょっと体起こせる?」
彼女が小さく頷き、ベッドの上で体を起こすのを手伝う。
枕を背に当て、毛布を肩まで引き上げる。トレイをお腹の上に置き、おかゆの蓋を開ける。
湯気が立ち上り、部屋にほのかな米の香りが広がる。
スプーンですくい、ふーっと息を吹きかけて冷ます。
「はい、口開けて」
彼女が小さく口を開け、おかゆをそっと運ぶ。
熱が少し残っていたのか、彼女の肩がびくっと跳ねる。
「ごめん、熱かった?」
「いえ…大丈夫です…」
「もう少し冷ますね」
何度か息を吹きかけ、ちょうどいい温度になったところで再び口に運ぶ。
彼女がゆっくり噛み、飲み込む。その動作が幼子のように見えて、俺の心が温かくなる。
ふと彼女の顔を見ると、目尻に涙が光っているのに気づいた。
「ちょっ! 大丈夫? ごめん…」
慌てて謝ると、彼女が首を振る。
涙が頬を伝い、毛布の上にぽたりと落ちる。
「ち、違うんです…違うんです…」
彼女が声を震わせて言うが、涙は止まらず、溢れる一方だ。
俺は何に泣いているのか分からず、ただ困惑する。
「どうしたの? 痛い? 苦しい?」
「違います…ただ…」
彼女が言葉を詰まらせ、目をぎゅっと閉じる。理由は分からない。
でも、もしかしたら…こうして風邪を引いた時に心配してくれる人がいること、優しくしてくれる人がそばにいること、そんな当たり前の温かさに、彼女がずっと憧れていたのかもしれない。
「いいんだよ、声を出して泣いても」
俺は彼女の頭に手を置き、髪を優しく梳く。すると、彼女が俺の胸に顔を埋め、声を押し殺していた感情が一気に溢れ出す。
「うっ…うわぁ…」
わんわんと泣きじゃくる声が、俺のシャツを濡らす。
彼女の小さな肩が震え、熱っぽい体が俺にしがみつく。
「…大丈夫だよ。俺はずっと一緒にいるから」
その言葉は、いつかの自分にかけてほしかったものだ。
幼い頃、誰もそばにいてくれなかった夜に、誰かに言ってほしかった言葉。
俺はその想いを彼女に贈る。
彼女の泣き声が少しずつ小さくなり、俺の胸で静かな寝息に変わるまで、ただそっと抱きしめていた。
◇(翌朝)
朝の光がカーテンの隙間から漏れ、部屋に柔らかな明るさを投げかける。
ゆあちゃんはまだベッドに横たわり、毛布を胸まで引き上げて眠っている。
熱さまシートは剥がれ、枕の横に落ちていた。俺は彼女の額に手を当て、熱が少し下がったのを確認する。
昨夜、彼女がおかゆを食べた後、ゼリーを少し口にして薬を飲ませた。
泣き疲れたのか、そのまま眠りに落ちた彼女を起こさず、俺は床に毛布を敷いて横になっていた。
背中に感じる硬い床の感触に苦笑しつつ、立ち上がる。
キッチンへ向かい、冷蔵庫を開ける。
昨日注文したゼリーがまだ残っている。
おかゆも少し作り置きしておこうと思い、鍋に水を張る。
米を洗い、火にかける音が静かな朝に響く。窓の外では、春の終わりを迎えた木々が新緑を広げ、風にそよぐ。
鍋から湯気が立ち始めた頃、寝室から小さな足音が聞こえた。
振り返ると、ゆあちゃんが毛布を肩に掛けて立っている。
髪が乱れ、目がまだ眠そうに細まっている。
「おはよう。まだ寝てていいよ?」
「…おはよう…です。…起きたら…お兄さんがいなくて…」
彼女の声が掠れ、毛布をぎゅっと握る手が震えている。
「ごめん、すぐそばにいるよ。朝ごはん作ってただけだから」
俺が近づくと、彼女が一歩踏み出し、俺の服の裾を掴む。
「…どこか行くのかと…思いました」
「行かないよ。今日は仕事休むから、ずっと一緒にいる」
彼女の目が俺を見上げ、微かに光る。
昨夜の涙がまだ残っているのか、頬が少し赤い。
「…ありがとう…です」
「うん。熱はどう? まだふらふらする?」
「…少し…楽になりました」
彼女が小さく頷き、俺はほっと息をつく。
キッチンに戻り、おかゆを椀に盛る。
ゼリーと一緒にトレイに載せ、リビングのテーブルに置く。
彼女がソファに座り、毛布を膝に掛ける。
「ゆっくり食べてな。薬もあとで飲もう」
「…はい」
彼女がスプーンを手に持ち、おかゆを口に運ぶ。
その姿を見ながら、俺はコーヒーを淹れる。湯気が立ち上り、部屋に苦い香りが漂う。
彼女が小さく咳き込む音が聞こえ、慌てて水をコップに注ぐ。
「大丈夫か?」
「…はい。喉が…ちょっと…」
「水飲んで。無理しないでな」
彼女がコップを受け取り、ゆっくり水を飲む。
喉を潤した後、彼女が俺を見上げる。
「…お兄さん…昨日…ずっと…いてくれて…ありがとうございます」
「当たり前だよ。ゆあちゃんが大事だから」
その言葉に、彼女の唇が微かに緩む。初めて見るような、小さな笑顔だった。
◇
昼近くになると、彼女の熱がさらに下がってきた。
ソファに座り、テレビの音を小さく流している。
俺は洗濯機を回し、ゆあちゃんが気になっていた洗濯物の残りを干す。
窓を開けると、心地の良い風が部屋に入り込み、カーテンを軽く揺らす。
洗濯物を干し終え、リビングに戻ると、彼女がソファで膝を抱えている。
テレビでは子供向けのアニメが流れ、明るい声が部屋に響く。
「ゆあちゃん、気分はどう?」
「…だいぶ…いいです。…ありがとうございます」
「良かった。もう少し安静にしてな」
俺が隣に座ると、彼女が少し体を寄せてくる。
毛布の端が俺の膝に触れ、彼女の肩が俺の腕に当たる。
「…お兄さん…ずっと…そばにいてくれる?」
「うん。約束するよ」
彼女が小さく頷き、テレビに目を戻す。
その横顔に、安心したような表情が浮かんでいる。
俺は彼女の髪を軽く撫で、静かな時間を味わう。
彼女が少しずつ心を開いてくれる。
その小さな変化が、俺の心を温かくする。
彼女を守り、そばにいる。
それが俺の生きる意味になりつつあるんだと感じた。




