平穏な日常と私の日常
翌日にはゆあちゃんはいつもの姿に戻っていた。
朝、リビングに立つ彼女は、昨日までの弱々しい様子が嘘のように、静かに家事をこなしている。
いつも通りのゆあちゃんだ。
でも、昨日の大泣きが心に残っているのか、俺と目が合いそうになると、彼女の視線がふっと逸れる。
その仕草に微かな照れが隠れているのが見て取れた。
そう思うと、俺の昨日の言葉——「ずっと一緒にいるから」——が妙に大仰で、自分に酔っていた気がしてくる。
顔が熱くなり、思わず首筋を擦る。
彼女の純粋さに比べ、俺の言葉が少し芝居がかったものに感じられて、内心で苦笑してしまう。
そんなことを考えながら、いつも通り仕事へ向かおうと靴を履いていると、「ま、待ってください」と小さな声が背中に届いた。
振り返ると、ゆあちゃんが急いでキッチンからお弁当箱を持って走ってくる。
白いエプロンの裾が揺れ、髪が少し乱れている。
「あ、ごめん。忘れてた」
「…行ってらっしゃい…」
彼女が少し上目遣いで呟く。
頬が薄く染まり、恥ずかしそうに目を細めるその表情に、俺は自然と手を伸ばし、頭を軽く撫でる。髪が指に絡み、柔らかな感触が残る。
「うん、行ってくるね」
玄関を出て、アパートの階段を下りる。
春の終わりを迎えた空気が頬を撫で、新緑の香りが鼻をくすぐる。
歩き始めて数秒、ポケットの中でプライベートの携帯が震えた。
ゆあちゃんか総一くらいしかかけてこない番号だ。
画面を見ると、【畦倉 総一】の文字が浮かんでいる。
「もしもし?」
『よぉ~! 今暇~?』
総一の軽い声が耳に飛び込んでくる。
「仕事に向かう最中だよ。何?」
『あ~、いや暇かな~って思っただけ! 忙しいならいいや!』
その適当な口調に笑いそうになりつつ、ふと秋野さんのことを思い出す。
「あっ、そういや秋野さんって覚えてる?」
『ん? そりゃ覚えてるよ。てか、お前の口から秋野さんの名前が出るとか何事? さては…何かしたな?』
「まぁ…偶然再会してな。今度三人で遊ぼうって話しててさ」
『いや…それはいいけど…俺邪魔じゃないか?』
「邪魔? なんで?」
『だって、秋野さんお前のこと好きだったじゃん』
「…は?」
『…え?』
突然の言葉に、頭が一瞬空白になる。
思わず聞き返すと、総一の声が少し慌てたように続く。
『…もしかして気づいてなかったの? いや…まぁ…お前はそういうのに鈍感だったもんなー。いや、むしろ気づいてるほうが少なかったのかな』
「いやいや…彼女と何もなかったが?」
『そりゃお前が何も気づいてないんだから何もないに決まってるだろ。秋野さんの友達も相談してたらしいし、ガチだと思うけど。まぁ、数年経ってるし秋野さんのことだからかっこいい彼氏の一人や二人…いや、一桁から二桁程度居てもおかしくないかもな。まぁ、俺はいいぜ? 基本暇だし、久々に美人にも会いたいし…! あわよくば俺にもワンチャン』
そこで電話がぶつっと切れた。
総一らしい雑な終わり方に苦笑しつつ、携帯をポケットにしまう。
まぁ…総一は大丈夫そうだな。
でも、まさか秋野さんが俺を…?
昔から総一は適当なところがあったし、学生時代の話だ。
今はもう何とも思ってないだろう。
それに、今の俺に恋愛をする気はない。
ゆあちゃんという大切な人ができたから、それで十分だ。
◇
中絶は無事に終わり、借金も完済した。私の生活にようやく平穏が戻ってきた。
本当に長い時間だった。
元カレに縛られ、犯され、借金を背負わされた日々。
あの地獄から抜け出し、静かな日常を取り戻した今、心のどこかが軽くなった気がする。
でも、平穏を謳歌しながらも、胸にぽっかり空いた穴は埋まらない。
5年ぶりに会った山坂くんは、やっぱりかっこよくて、優しくて、何も変わっていなかった。
そのことが嬉しいと同時に、苦い想いを呼び起こす。
あの男と出会わず、汚れずに済んだら、もしかしたら…なんて考えてしまう。
犯されて、心も体も穢れた私じゃ、もう彼に釣り合う資格はない。
そんな自嘲が頭を巡り、ため息が漏れる。
そんなことを考えながら、いつも通りコンビニのレジに立つ。
蛍光灯の白い光が棚を照らし、店の外では新緑が風に揺れている。
制服のエプロンを整え、ぼんやりと商品を並べていると、入り口の自動ドアが開く音がした。
「いらっしゃ…」
声を出しかけた瞬間、全身が凍りつく。
そこに立っていたのは、山坂くんだった。
…え? 何? え? もしかして私に会いに来てくれたの?
頭が混乱し、心臓が跳ねる。
でも、すぐに現実が押し寄せる。
今日は寝不足で顔が腫れぼったいし、こんなみすぼらしい姿を見られたくない!
きょろきょろと周りを見回すが、シフトは私一人。逃げ場はない。
彼は飲み物を手に持つと、まっすぐレジに近づいてくる。
どうしよう、バレないようにしなきゃ。
視線を落とし、目を伏せながら、声を低く抑える。
「…いらっしゃいませ…」
神様にバレませんようにと祈りながら、素早く会計を進める。
袋にペットボトルを入れ、手を震わせないよう必死に抑える。
すると、彼の小さな声が耳に届いた。
「あれ…秋野さん?」
私の人生が終わりを迎えた瞬間だった。
神様なんていない。
知らないふりをしても、胸の名札にしっかり名前が書いてある。
隠す術なんてなかった。
「…お、おはよ…山坂くん//」
声が裏返り、顔が熱くなる。
彼が軽く笑みを浮かべ、穏やかに話し始める。
「ここで働いてたんだ。あっ、そういや偶然総一から連絡きてさ、近々集まろうって伝えておいたから、日付決まったら連絡するね」
「あっ…うん…//私は…いつでも…//」
「うん、それじゃあまた今度」
彼が袋を手に持つと、足早に店を出ていく。その背中を見送りながら、頭がぐるぐる回る。
うわー、絶対嫌な女って思われたよね。
ちゃんと顔を見ないで接客して…恩もあるのにこんな態度取るなんて、私のバカ!
彼の優しさに甘えて、こんな情けない姿を見せちゃった。
はぁ…でも、やっぱりかっこいいな。
◇
仕事の合間に、コンビニで買ったお茶を手に持つ。
春の終わりを迎えた街路樹が日差しを遮り、歩道にまだらな影を落とす。
総一の言葉が頭を離れず、秋野さんのことを考える。
彼女が俺を好きだったなんて、本当に気づかなかった。
高校時代、彼女はいつも笑顔で、周りに人が絶えなかった。
俺はただのクラスメイトで、複数人の男女で遊ぶときにたまにいたくらいで、購買で500円を借りたことくらいしか特別な記憶がない。
そもそも俺と彼女なんか釣り合わないと思っていたし、彼女がそんな想いを抱えていたなんて想像もしなかった。
今朝の彼女の様子を思い出す。
レジで目を伏せ、声が小さく震えていた。
恥ずかしがってるのかと思ったけど、もしかして俺に気づかれたくなかったのかな。
まぁ、そんなことより彼女の生活が落ち着いたと聞いて安心したけど、どこか疲れた影があった。
詳しくはまた集まった時にでも聞くか。
そう決めて、仕事へと足を進める。
◇
お兄さんが仕事に出て、家が静かになった。ソファに座り、膝に毛布を掛ける。
テレビの音が小さく流れ、窓の外では風が木々を揺らす。
昨日、風邪で泣いてしまった。
お兄さんがそばにいてくれて、優しくしてくれて、初めてそんな気持ちになった。
昔、熱が出ても誰も来なくて、暗い部屋で一人震えてた。
あの時は誰も助けてくれなかった。
でも、お兄さんは違った。
恥ずかしくて、朝は目を合わせられなかった。
でも、お兄さんが頭を撫でてくれた時、温かさが胸に広がった。
お弁当を渡した時、少し笑ってくれた。
あの笑顔が好きだ。
水道の水をコップに注ぎ、ゆっくり飲む。
お兄さんはジュースやお茶を「飲みなよ」と言ってくれるけど、一人の時はこれでいい。
お金を使わせたくない。
お兄さんに迷惑かけたくない。
◇秋野視点
シフトが終わり、コンビニの裏口から出る。夜風が頬を冷やし、新緑の香りが漂う。
山坂くんとの再会が頭から離れない。
彼は昔と変わらない優しさで、私を救ってくれた。
あの150万がなければ、私は今も地獄にいた。
でも、彼に会うたび、汚れた自分が嫌になる。
こんな私じゃ、彼に近づく資格はない。
家に帰り、鏡を見る。
腫れぼったい目、疲れた顔つき。
こんな姿で彼に会ってしまった。
もっとちゃんとしていれば…なんて、後悔ばかりが募る。
でも、彼の「また今度」という言葉が、心に小さな灯りをともす。




