8話
八
急に話が朱莉に近づき始めて、爪を立てられたように心がざわつく。
「詳細はわからない。手に入った情報は、蓮華の代替を作ることとだけ。君の父親は何故わざわざそんなものを生み出そうとしている?」
「……わかりません」
「君の父親は優秀な鬼代だった。十七年前に前線で怪我をしてからその力のほとんどを失ってしまったみたいだけど。蓮華があれば、君の父親はまた力を取り戻すことが出来る。彼の研究内容は公にされてはいないが、今この世で一番蓮華を必要としているであろう鷹見悠玄が側にいる。そしてわざわざ東方天という身分を隠して君の近くに」
続く資料には、父の情報があった。研究に関しては、ほとんどが塗り潰されているけれど、以前は確かに兄と同じ防衛司令部の所属となっている。
何故だか込み上げてくるような吐き気がする。朱莉は不安もため息も吐き気も飲み下すように、酒を一気に煽った。
「話を最初に戻そうか。何故そんな二人が熱心に世話を焼く娘の君に厄介な術がかかってるんだい? 君にかけられた術はなんなんだ? これも憶測を過ぎないけれど、もし君のお父上の研究が、――何の力も持たない鬼代を蓮華に変える研究だったらどうする?」
どれも突拍子のない話だ。証拠なんてない。それなのに今まで育ててくれた父や、助けてくれた悠玄を疑うなんて罰当たりなことだろう。しかし、これが全て嘘だと言ってくれる人は此処には誰もいなかった。
ならどうして悠玄は朱莉に嘘をついているのだろう。どうして朱莉に優しくするのか。勘違いさせるようなことばかりして、彼への利はなんなのだろう。
悠玄は朱莉の望むようにしようと言った。なら、悠玄は一体何を望んでいるのだろう。朱莉には、何もわからなかった。
自然と溢れ出す涙を、呆然とした朱莉の代わりに嶌が殴ってくれた。あの時と同じように、落ち着いてと背中をさすりながら。
「良いかい、朱莉ちゃん。君自身今日感じなかったかい? 力が無いからといって、鬼代たちが名門海藤の娘を欲しがらないなんてことはないよ。その血は次の優秀な鬼代を産むし、力を持っていない御令嬢はごまんといる。君ほど美しい女性を、そんな些細な理由で袖にするなんて有り得ない。君が嫁に出てしまっては都合が悪い人間がいるんだ」
息が苦しい。目が回りそうだ。胃の奥から不快感が込み上げてくる。手が震えていてもう力も入らなかった。
「そもそも婚約者がいるくせに、何故鷹見悠玄は君を構うんだい? 理由がないじゃないか。それに僕が君を助けたあの日、君をつけていたのはおそらく鷹見悠玄の用意した人間だよ」
「わたし、……わたしは」
「僕の言葉は全て憶測の域を過ぎない。信じるか信じないかは君次第だけど、片桐悠玄なんて男はいなくて、それを隠して君のそばにいる。これだけは間違いない事実だよ」
「そう、ですが」
「これを持っていて。君にかかってる術を徐々にだけど解いてくれるから」
嶌はそう言うと、背広のポケットから小さな術の描かれた小さな紙切れを差し出した。
「……いりません」
「朱莉ちゃんが信じられないなら捨てていいよ。ただもしかしたら、かけられた術の影響で何か君の体に決定的な変化があるかもしれないから。気を付けて」
「……あなたは、何者なんですか」
「ずっと昔から君を知ってる。それこそ、昔社交界で暗い顔していた君もね」
紫の瞳には絶望した顔をした己が写り込んでいる。心臓がまた違う脈を刻んだ。朱莉の顎をなぞる嶌の手を降り解けない。
世界なんてなく無くなって仕舞えばいいのに。否、無くなるべきは己だろうか。そんなことばかり考えていた。
嶌が朱莉の懐に紙切れを仕舞い込んだ刹那、バンと硝子戸がなんの予告もなしに開け放たれた。戸の向こうにいたのは、何故か今晩はいないはずの悠玄だった。
青く鋭い瞳が朱莉を見る。焦っているようにも怒っているようにも見えた。それが余計に朱莉を絶望させるのだ。
この人の過保護はどうしてなのだろうとずっと疑問だった。愛している婚約者がいるのに、どうして朱莉に優しくするのか。全て嶌の憶測の話だというのに、どうしてこうも納得してしまっているのだろう。
そら見たことかと言わんばかりに、嶌は首を横に振った。
「朱莉嬢、帰るぞ」
「……悠玄」
「朱莉ちゃん、また会おうね」
「次など無い」
「……ずいぶん彼女に熱心なのですね。片桐殿」
「黙れ」
悠玄の声は地を這うようで、思わず粟立つ程の威圧感があった。嶌は凄む悠玄にも特に怯む様子はなく、「必ず助けるから」と耳打ちして離れていった。長椅子に座り直すと、足を組んだまま涼やかに朱莉に手を振った。
差し出された手を取るのが怖くて躊躇っていれば、代わりに悠玄の手が伸びてきた。会場からは連れ出されるように去り、後部座席に押し込められた。運転席に座る兄だけが「おかえり」と笑う。
「あの男とはどこで知り合った」
「……あの場で、少し」
「なら二度と会うな。車を出せ」
「はいはい」
ぴしゃりと言い切る彼の言葉に温度はない。どこか苛立っているようにも聞こえた。兄も何か知っているのだろうか。
朱莉が何の断りも無しにパーティーに行ったから、仕事を放り出して飛んできてくれたのだろうか。しかし、兄の言った拗ねるの言葉よりも嶌の言った言葉の方ばかり思い出してしまう。朱莉がこの家から離れたら困るのだと。朱莉は大切な許嫁を助けるための代わりなのだから。
前はこういうパーティーに顔を出す時も悠玄が送り迎えをしてくれて。変な男に捕まるなと軽口を叩いて。それを嬉しく思っていたこともあるけれど、今はどうにも心臓が早る。
「悠玄は、」
「なんだ」
「……なんでも、ありません」
あなたにとっての私とは何?
そう聞きたいけれど、これ以上言葉を発したら泣いてしまいそうだった。どうした? と怪訝そうに振り返る悠玄と、どうしても顔を合わせることが出来ない。
ただの上官の娘だと答えられた方がずっとマシだなんて思いもしなかった。不安と絶望で押し潰されぬように、懐に入れたままの紙を握りしめた。




