それからとこれから・1
富士山が噴火の兆し。
そのニュースは瞬く間に世界中を駆け抜け、翌日には誤認だったと訂正が追いつき、拍子抜けさせた。
専門家らは当分警戒すべきだとの見解を揃って述べているようだけど、それはこれまでとなんら変わらないのであって、今年も開山の時期がくれば多くの人が登頂を目指すことだろう。
正直なところ、事情を知る僕でさえ、あの白い何かの中で起こったことは把握できていない。
なぜなら、唯一の体験者である少年が何も語らないからだ。
数日後の現在で明らかなことは、少年のすぐ後ろを同行していた僕と少年の父親が揃って姿を見失った不可解さと、いないと気づいてから数分もしない内に後ろから現れたという謎だけだ。
「むうー」
ページの半分ほどを埋めたノートを開いている由貴は、鼻の下にペンを挟んで座椅子をぎしぎし言わせながら唸っていた。
できれば墨でも磨って、筆で流暢に記す方が気分も上がるのだろうけど、デジタル機器に慣れ親しんでいる世代なので無理というものだった。
だから、せめてもと、下書きくらいはアナログな作業を選んでみた。
「どこまで残したものかなぁ」
ぼやいた途端に、ペンが転がり落ちた。
あれから三日が過ぎた。
由貴は詳細な記録を残そうと、こうして昨日から思い返している。
自分のためだけでなく、いずれ現れるだろう、次世代の傾城と呼ばれる少女と流星剣を司る少年のために。
「やっぱり、おもいつくまま書き出してみないことには始まらないか」
拾い上げたペンをくるりと回して、記憶に新しい結末から書いてみようとノートに向き直った。
* * *
「壱真!」
タクシーを見送った地下道で正孝と正宗の親子、そして、佐之助が帰りを待っていた。
「無事でよかった」
駆け寄った佐之助に殴りかかる素振りはなく、率直にほっとしていた。
「ごめん、何もできなかった」
噴煙が収まり、五体満足で戻ってきたというのに、壱真は開口一番に謝罪を述べた。
どこかしょげたような、大きな挫折を味わったかのように落ち込み沈んで見えて正孝も佐之助も戸惑うが、それは同行していた勇馬と由貴にしても変わらなかった。
ともかく、聖夜の申し出により、全員が駿府城で面倒をみてもらえることとなり、それぞれ思うところはありながらも、あえて口をつぐんで各自気持ちの整理をつけながら眠ることとした。
翌日。
壱真は高熱を出して寝込んだ。
睡眠不足と心身の疲労によるもので、充分な休息さえとれば回復に時間はかからないだろうと診断がなされた。
実際、床に伏せていたのはその日だけで、次の日にはお腹が空いたと起き上がってくるくらいの症状だった。
ただ、一人寝込んでいた一日で大きく動いたものごとが三つあった。
一つは、あかりが意識を取り戻したこと。
手術は成功し、特に後遺症もなく健康を取り戻せるとのことだった。
多少の傷痕が残るだろうと説明されたのだが、本人は、その方がいいと静かに受け止めていた。
誰もが驚いたのは、その後のこと。
医者の面会許可が出るなり、体を起こせもしないあかりの頬を聖夜が引っぱたいたのだ。
平手で、加減もしていただろうが、個室に響いた音は強烈で、呆然とするあかりのほっぺは見る間に赤く染まっていった。
「あれだけ他人を、佐之助を巻き込むことを恐れていたのに、どうして自ら傷つける真似をした!」
今回の騒動で怪我を負ったのはあかりだけだ。
他は誰一人、壱真でさえ怪我という怪我はしていなかった。
けれど、そうしたことで心が深く傷ついた人は多かった。
正孝、佐之助、壱真。
それに、たぶん聖夜も。
「ごめんなさい」
あかりの声はとても小さかった。
聖夜には聞こえていたかも怪しい。
担当医に大慌てで追い出されてしまったのだから。
身動きのとれないあかりには、まだ青白い顔に浮かんだ頬の赤さが痛々しかった。
「あかりちゃん」
佐之助は明日が輝くばかりだった頃の、懐かしい名で呼びかけた。
そして、赤く火照った頬の端に冷たい手でそうっと触れた。
「ごめんね、さー君」
あかりが舌ったらずでうまく呼べなかった頃の微笑ましい愛称で返すと、ぶんぶん首を振って許してくれたので、あかりも弱々しくだけど笑うことができた。
その日、聖夜から佐之助に一つの裁きが下った。
あかりの従者を首にするという厳命だ。
これまでの佐之助だったら自暴自棄になっていただろうけど、それは非情なだけの沙汰ではないと理解できたから粛々と受け入れた。
これからは、同等の友人として共に学ぶよう但し書きが添えられていたので。
佐之助は、見えていなかった聖夜の優しさに触れられたような気がした。
二つ目の動きは、同日の夕刻にあった。
とは言っても、こちらはほとんど由貴にだけ関わる出来事だ。
「あの、結城さん。壱真の祖父、つまり私の父が結城さんと話したいと言っているのですが、出てもらえますか」
それは、勇馬からの唐突な申し出だった。
お江戸の敷地はケータイの電波を遮断しているので、外と通話したければ電話線を通すしかなく、勇馬は家に連絡するために役員専用の回線を使わせてもらうと席を外していたところだった。
「僕ですか?」
由貴としては困惑でしかなかった。
「壱真に付き添ってもらったと伝えたので、その礼が言いたいのだと思うのですが」
そんな理由づけをした勇馬も、納得はしていない様子だ。
とりあえず、電話代も馬鹿にならないはずだと、貧乏性で小心者の由貴は、そわそわと受話器を握った。
「あの、もしもし?」
「結城 由貴さんですか」
聞こえてきたのは、通りがいい年配者の声だった。
「はい、そうです」
「この度は壱真を助けてくださり、誠にありがとうございました。私は愉快那 馬馬です」
「は? どういうことでしょうか」
「ご想像の通り、私は孫可愛さのために、あなたを利用しました」
「それは……」
由貴は二の句が継げなかった。
本当に壱真の祖父が愉快那 馬馬なら、言葉のままの意味なのだろう。
この時期にお江戸に向かうよう唆したのは、それ以外にない。
けれど、不思議と腹立たしさはなかった。
「本当に申し訳ありませんでした」
震える声音を聞き取ると、由貴は返す言葉を見つけられた。
「よかったです」
「なぜ、ですか」
「あなたが望まれたように、壱真君の無事を見守ることができたからです。ただ、具体的に役に立った手助けができたわけではないのが心苦しいですが」
「そんな、それは……」
遠くにいただけの玄馬は何も言えなかった。
「あなたとは一方的なやりとりでしたが、僕には悪意があるとは思えなかった。だから、本当の理由を教えてもらえて納得できました。それに、今後の資料の送付先はお江戸でお願いしたかったので、連絡をもらえて助かりました」
「まさか、特区の代表に強要されたのですか?」
「いえ、違います。聖夜さんは、そこまで考えられるほど落ち着けていませんから。まあ、黙っていたら、時間の問題だったかもしれませんけど、今回は僕からお願いしたのでご心配なく。あ、もちろん、あかりちゃんや壱真君の特殊能力を検証したいからってわけじゃないですよ。なんて言うか、これまでは自己満足で調べていただけだったんですよね」
「ええ、知っています。そこを私が利用した」
「あーっと、言いたいのはそこじゃなくて、僕には成果や推察を表に出す気が全然なかったってことです。ブログに載せてたくせに何言ってんだって感じですけど、純然たる一人遊びだったんです。推察が外れてもがっかりして終わっただけで、あなたの誘いに乗ったのも、あくまで遊びの延長。騙されるのも経験と思って、小さなスリルを楽しんでいただけでした」
でも、と由貴は子ども達を思い浮かべた。
「でも、伝承のままにあざのある壱真君を見かけて、あかりちゃんが怪我をしたとも知って、図々しくも何か力になれるかもって思っちゃったんですよね。その瞬間、全部、この時のために費やしてきたんだという気になりました。誰かの役に立つ、そんな快感があることを恥ずかしながら初めて知りました。そうだ! だから、私もあなたを利用したってことで、おあいこにしませんか」
「それでいいのですか?」
「はい、もちろん。だから、これからもよろしくお願いします。愉快那 馬馬さん」
「結城さん、どうもありがとうございます。こちらこそ、よろしくお願いします」
かすれ聞こえた感謝の向こうで、玄馬が深く頭を下げている気配がした。




