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幸福の在処・4



 * * *



一体、どれくらい暴れていたのだろう。

体と心が苦痛に飽いたのか、単に疲れ果てただけなのか、壱真はいくらか混乱から遠ざかりつつあった。

声が枯れ、何度も忙しない呼吸を繰り返している内に、周りの粒子が薄れていると気がつくくらいには自分を取り戻していた。


「これのせいか」


息荒く体を震わせ、かすれた喉でつぶやくと、じとつく両手で流星剣を握り直す。

謎の粒子。

これがあかりを苦しめている災厄だった。

自分が行かないと! と、意気込んだ直感は正しかったのだ。


「俺が全部終わらせてやる」


粒子が集まる先を睨んだ壱真は、切って、切って、切りまくった。

鋭い刃が粒子に触れる端から嫌な気配が霧散していき、ねっとり絡みつくやっかんだ執着や残酷で淫靡な憂鬱、そんな狂気が流星剣によって浄化されていく。

黙々と切り払い、祓い清めては進んでいった。

それは自覚しないまま、暗殺依頼を聞かされてから今日まで浅慮でいた自身に向かう後悔の代償になっていた。


ひたすら道を切り開いた壱真は、やがて、刀を伸ばして数歩の距離に粒子の核となる濃密な塊に辿り着いた。

これまでとは明らかに違う、両手を広げれば抱きかかえられてしまう大きさの白い球体の何か。

これさえ消し去ることができれば、全てに片をつけられるはずだ。


「あかり、佐之助、待ってろよ」


一刀両断するつもりで呼吸を整え、標的を見据えて流星剣を振り上げる。

これで当初の予定通り、正義のヒーローとして帰ることができる。

壱真は逸る気持ちを抑えて狙いを定めた。


<壱君>


いざ。

そんな緊迫した間合いで名前を呼ばれて、刀を振り下ろすタイミングを逃してしまった。

耳に一番なじんだ正孝のものだったから。


<ごめんなさい、ごめんなさい。全部、僕が馬鹿なことをしようとしたせいだ。少しも許してくれなくてもいい。大嫌いになったっていいから、だから、どうか無事で帰ってきて>


一方的に伝わる正孝の心は謝罪と後悔、それから、壱真の心配を必死に繰り返していた。


「馬鹿だな」


危うい瀬戸際にいるのも構わず、思わず笑ってしまうくらいの勘違いだった。

壱真が正孝を嫌いになるはずも、一生許さないでいるわけもない。

だいたい、最初から怒ってなんかいないのだから。

何か思うところがあるとすれば、正孝を思いやる振りをして何も尊重しないで、無視しながら踏みにじっていた自分への戒めくらいだ。


<壱真>


今度聞こえてきたのは佐之助だった。


<あれは本当なのか? 本当ならどっちから……いや、そんなことは関係ないか。本当に事実なら、望んだ通りにぶん殴ってやる>


気にかけているのは、やっぱりだった。

それでも、言葉のわりには怒りや憎しみがこもっていなかった。


<だから、待ってるぞ。絶対に帰ってこい>


お人よしにも、佐之助は心から壱真の帰還を願っていた。


<壱君>


<壱真>


二人の祈りが壱真の真ん中に突き刺さる。

さっきまで襲われていた負の感情と同じように、正孝と佐之助の想いが壱真の体を占領していく。

それは、これまで生きてきた中で最高に強烈な衝撃だった。


彼らが優しいのは、とっくに知っていた。

正孝なんかは、両親よりもずっと一緒の時間を過ごしてきたくらいだ。

それでも、壱真はこんな感情を知らなかった。


みんなが明るく元気だと褒めてくれて、自分でもそれが取り得だって思っている壱真だけど、時々、知らない嫌な奴が顔を出す。

壱真には流星剣を手にしてから誰とも分かち合えない侘しさがひそりと住み着いていて、だから、わかりやすい孤独な条件が揃っていた正孝に寄り添うなんて簡単なことだった。

毎日のように面白い誘いがあって、小さないたずらや勉強をさぼったりしては愛情を持った大人達に叱られる日々は退屈知らず。

だけど、くだらないことが楽しいから馬鹿みたいに大口を開けて笑うのに、ふとした拍子に、頭のどこかで本当に楽しいのかと水を差す問いかけが降ってきた。

白けるだけだから聞かない振りして、もっともっと馬鹿笑いをしてみるのだけど、一度冷めてしまった芯を温め直すのは難しかった。

だから、壱真は知らなかった。

誰かの心で、これほど想ってもらえていることを。

自分にはこんなにも価値があるのだと思い知った瞬間、勇馬や正宗だけでなく、聖夜や由貴までが親愛の情を持って気に留めてくれているのを感じ取ることができた。


壱真は嬉しくてたまらなかった。

これが狂った果てに見る幻影だったとしても構わないくらい、全身が幸福に満たされていた。

心臓をわし掴みにされる優しさに侵されて、正孝の兄貴分として築いてきた偉そうな格好つけの矜持はぼろぼろ崩れ去り、久しぶりに心のままに泣きじゃくった。

みっともなく、わんわんと声を上げ、疲れきってしゃがみ込んでも泣き続けて、最後には赤ん坊みたいに丸くなって寝転がった。

この先なんて、いらないと思うほど不足なものはなかった。


「ありがとう」


<ごめんね>


妙な間合いで受信した噛み合わない感情は、あかりのものだった。


<約束を破ってごめんなさい>


胸を打つ真摯な謝罪だった。


「もういいよ」


聞こえてないだろうけど、壱真からはこんな言葉がこぼれ落ちた。

さっきまではよくなかったけど、もう構わない。

少し前は怒っていたし、許せない気持ちもあったけど、今は許せた。


「大丈夫だから、早く元気になれよ」


あかりは悔やんでいる。

それがわかっただけでも、富士山に来た甲斐があった。

寝転がったまま仰向けに手足を伸ばした壱真は、いつまでもみんなの心に浸っていたかった。


「でも、そんなわけにはいかないよな」


鼻をすすり、乱雑に涙を拭うと、よろよろと立ち上がる。

流星剣を担う壱真には、放り投げるわけにはいかない責任があった。


小さな銀河かブラックホールみたいな印象の白い渦を前に、もう一度、流星剣を握って振り上げる。


純白の狂気の塊。

壱真が切って捨てれば、能力によって生きながらえた佐之助はどうなるのだろう、影響を受けて栄えているお江戸は大丈夫だろうか。

そんな心配がよぎるけど、どれも心底ためらう理由にはならなかった。

なのに――


「こんなの、切れるわけない」


壱真はとうとう、みんなを救う機会を放棄した。

刀を握った両手を、祈っているみたいに額につけて黙り込んだ壱真は、やがてため息を追って逆手に握りを変えた。


「みんな、ごめんな」


小さく謝った壱真は、球体越しに刃を真っ直ぐ地面に突き刺した。

瞬間、取り囲んでいた粒子は流星剣を中心として静かに散っていった。

視界が晴れると、壱真はここが何に似ているのかを思い出した。

お江戸の初心者講習で体験した、サチ子の住むVRの世界だ。

もやが消えても真っ白で何もない空間は、別れ際のサチ子が手を振っていた場面とそっくりだった。


これでエンドマークでも出てきたら壱真は喜んでヘッドセットを外したことだろう。

残念ながら、現実には、これはなんの終わりでもなかった。

災厄の粒子は消し去ったのではなく、その場に縫い止めただけ。

流星剣があかりの能力を抑えたようではあるものの、打ち消したわけでも断ち切ったわけでもない。

これが、お姫様を助け出すと豪語してお江戸に乗り込んできた壱真にできる精一杯だった。

ヒーローを気取った壱真が救えたのは、傲慢で臆病な、ちっぽけの自分だけだった。


ぼうっと立ち尽くし、霧雨が降っていると思う内に景色は富士山に戻っていた。

雲の合間で輝いている星が綺麗すぎて、暗い足元に視線を落とせば、狭い登山道を勇馬と由貴が向かってくる声が聞こえてきた。

ここで意識を手放したら楽になれるけど、壱真に逃げる資格はもうどこにもなくて、しでかしてしまった失態に泣きたくなっても、これ以上何かをこぼすことはしたくなかったから堪えておいた。

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