幸福の在処・3
* * *
標高377メートル。
自然を尊ぶ豊かな信仰と心揺さぶる壮大な芸術を数多生み出してきた名実ともに日本一の銘山、富士山。
壱真達がいるのは標高240メートルに位置する富士宮ルートと呼ばれる登り口だ。
四つある登山口の中で、登頂までが最短距離の一本道となっている。
薄暗く春まだ浅い、正式に解禁されてもいないその道を、ひょろり体型にヘルメットを装着した緊張しっぱなしの由貴と、サラリーマンの見本となる地味で清潔感のあるスーツを着こなす勇馬が中々の勾配を進んでいく。
そんな奇っ怪な二人を先導しているのは、間もなく中学入学を控えている壱真だ。
目立つ黄色いジャケットの背で、少々余っているヘルメットをがほがほさせている。
佐之助が用意したリュックサックは父親持ってくれているので、荷物と言えるのはポケットに忍ばせた非常食に、これまで活躍する場のなかった自前のケータイと背負った流星剣くらいのものだ。
本来、登り進める前に標高に慣れておくのが望ましい山だが、生憎と一行には余裕がなかった。
荒い呼吸で運動不足をひしひしと体感している由貴は、ちらりと腕時計を確認した。
陽は沈んでしまったものの、雲ひとつない見晴らしのよさで、中腹の山際に噴煙のうねりが見えている。
厳重なマスクをしてるので匂いはいまいちながらも、むっとする圧迫は体感として間違いなくあった。
噴煙までの距離は掴めないが、噴火の兆候が増せば人間などひとたまりもないことくらい容易に想像がつく。
「このまま歩いて着けるかな」
恐ろしく危険な状況をわかっているのかいないのか、壱真だけはへっちゃらな様子で行き先を心配し、噴煙の只中に特攻する気満々でいる。
勇馬はぐらぐらのヘルメット頭について歩きながら、切り上げさせるタイミングを計っていた。
いざとなったら、気絶させてでも連れて逃げるつもりで同行しているのだ。
流星剣がなんの変哲もない刀でないことは認めていても、噴火の兆しがある山に突入していく息子をほいほい許してやる親がいるわけがない。
どれほど刀に特殊な事情があろうと、壱真はお調子者で夢見がちな小学生でしかないのだから。
ところが、道を進むにつれ、これは自然にあるべき現象なのだろうかと勇馬は疑問を抱き始めた。
傾城の影響による噴火説を唱えた由貴でさえ、現実的な恐怖とは違う未知への畏れに戸惑っていた。
噴煙だと思っていた何かは、風に舞い散るでも重力で流れ落ちるでもなく、物理法則を無視して一定の山肌で渦巻いている。
粉雪のような、湯煙のような、真白のそれは幻想的な美しさで思わず見入ってしまう反面、説明のできない禍々しさがつかず離れず漂っていた。
思わず足取りに迷いが出てしまう由貴や勇馬だったが、壱真だけは怯む素振りを見せなかった。
「壱真」
いよいよ現場に近づきつつある距離で、勇馬はたまらず息子の肩を掴んで引き止めた。
壱真は驚いて振り向くと、すぐに落ち着いた眼差しを向けてきた。
「大丈夫だから下がってて」
言い返されて、まだ、お前は大人に庇護されるべき子どもなのだと見下ろしている親心とは裏腹に、気づけば勇馬の体は半歩下がっていた。
わかってくれたのだと解釈した壱真は、進行方向に向き直ると左肩から突き出る流星剣の柄を握り、迷いなく刀身を引き抜いた。
十二歳になっても持て余す長さなのだけど、人を相手にするわけではなかったから気が楽だった。
「よし」
剣道なんて知らない壱真は、野球のバットと同じ握りで深呼吸して気合いを入れた。
それから、自分を切らないよう気をつけて、正体不明に向かって袈裟斬りの体で刀を振った。
流星剣はまばゆい光を放ち、鋭いかまいたちを引き起こす――なんてことにはならなかった。
なのに、壱真には確かな手ごたえがあって、白いもやにも切り裂かれた痕跡がはっきりと残っていたので、この調子で濃い中心部に進めばいいのだとはっきりした。
* * *
気づけば壱真は一人だった。
さっきまで誰かと一緒だったことも、いつの間にか一人でいることも気にするものではなかった。
なんのために、どこにいるのかも曖昧で、ただひたすらに無我の境地で足を動かし前に進む。
それが、していることの全て。
特に疑問に思うことはない。
ぶかっとしたヘルメットや層の厚いマスクがなくなり、丈夫が取り得の靴も正孝と揃いのズックに戻っていることさえ不思議ではなかった。
キイン――
握っていた流星剣の切っ先が地面に触れたらしくて、金属特有の高い音を立てた。
弾かれた振動は壱真に伝わり、唐突に我に返らせる。
顔をなでるひんやりとした空気も、足の裏のごつごつした感触もない。
平らに開けた場所にいるようだけど、純白の粒子が辺りを漂い視界を遮っていた。
どこなんだろう。
遠くないどこかで近しい経験をしたような気がしないでもないのだけど。
いつから迷い込んだのか、壱真にはまったく覚えがなかった。
たぶん、ここはヤバい。
そう感じる根拠はなくても、嫌な感じ、気分が悪い、体がゾクゾクして関節が疼く。
そんな風邪のひき始めに似た感覚だけは確実に伴っていた。
「父さん、結城さん」
同行者の存在を思い出して呼びかけてみるけど、粒子に阻まれて声は遠くまで伸びず、返事だって一向に聞こえてこなかった。
だるい、
しんどい、
疲れた、
面倒くさい、
投げ出したい、
きつい、
辛い、
虚しい、
憎たらしい、
惨たらしい、
ばかばかしい、
一人を自覚したせいなのか、わけのわからないモヤモヤが壱真を占領していく。
不安、
孤独、
絶望、
焦燥、
悲壮、
哀惜、
嫉妬、
憎悪、
難しげで似合わないワードが次々と浮かんでは降り積もり、鬱々するせいで息苦しさを感じてしまう。
そうして、はっきりと異常を認識した頃には、壱真も状況を理解できていた。
行く手を阻むもの。
それは淀んだ負の感情だった。
だけど、正気を保っていられたのもここまでだった。
根っからの楽天家な壱真には抱えたことのない感情の渦が、内側でないところから入り込んでくる。
不快で苦痛なのは壱真なのに、元凶となる想いを育て上げたのは顔も見えない何かだった。
全てを焼きつくす黒い炎と何もかも凍てつかせる氷晶が拮抗しながら全身を支配していく。
まともな意識を保てない、ぐっちゃぐちゃな感情に頭から丸呑みされて、熱く凍えた体が盛大にわなないた。
ありえない現象に素直な拒絶を示す体に対し、幼い精神は混乱の極みとなっていた。
「うえっ……」
耳をふさぎ、目が虚ろになっても未知の気持ち悪さが膨らむばかりで、ついには意味もなく意味のない言葉を叫び出す。
「――!!」
あらん限りに声を張り上げても処理しきれない激情を、全力で全身を乱暴に振り回すことで発散の足しにした。
もしここで誰かが見ていたのなら、暗闇で絡みついた蜘蛛の糸を振り払う仕草に例えたかもしれない。




