1★事故と装着と白い空間
お久しぶりです。
自分の中では王道のファンタジーに挑戦しました。
過去に書いた異世界うなぎやエンマのセルフリメイクになりますね。
厨房に響き渡った耳をつんざくサイレンは、リ仕込み用の寸胴鍋を火から下ろす暇すら与えてくれなかった。
「緊急事態発生!コード・オメガ発令。全職員は直ちに指定の退避ルートへ向かってください。繰り返します――」
無機質なアナウンスが廊下に反響する。ここは人里離れた山中に建てられた、先端科学とやらを研究する施設だ。
俺【日比野炎真】ような委託業者の調理師には何の研究をしているのか知る由もなかったが、「危険な薬品でも漏れたのか」と焦燥感に背中を押され、エプロンを引っ手繰るように脱ぎ捨てて非常階段へと飛び出した。
だが、通路に出て目に飛び込んできたのは、ガスや火災などという生易しいものではなかった。
廊下の奥から、壁や床を咀嚼するように這い寄ってくる「漆黒の何か」。影が実体を持ったようなそれは、触れた照明を破裂させ、鋼鉄の防護壁を異音と共に飲み込みながら、猛烈な速度で空間そのものを侵食していた。
視覚がそれを危険だと拒絶する。心臓が跳ね、無我夢中で足を動かした。
数メートル前方には、同じように必死に走る女性がいた。
髪型と髪色から毎日昼時に食堂へやってきては、やたらと大盛りを頼んでくる娘だ。
「おい、急げ!」
前方の防火隔壁の分厚い耐圧シャッターが、けたたましい警告音と共に猛スピードで降下を始めている。あれが完全に閉まれば、向こう側へは二度と行けない。
俺の脚力なら、余裕で滑り込める距離だった。
だがその瞬間、前に走っていた女性が床のコードに足を引っ掛け、激しく転倒した。
「しまっ――!」
女性が床に這いつくばったまま顔を上げる。 シャッターはすでに腰の高さまで落ちてきていた。彼女が立ち上がって飛び込む時間はない。このまま走り抜ければ、俺なら一人だけなら確実に潜り込める。見捨てれば助かる。
考えるよりも早く、身体が動いていた。
加速した勢いのまま、倒れた女性の両足の裏めがけて渾身のドロップキックを放った。
「ぐっ……行けぇッ!」
ガツンと鈍い衝撃が足裏に走り、ワックスの効いた床の上を、女性の身体がまるでカーリングのストーンのように滑っていく。
滑り込みセーフ。彼女の身体は、降下するシャッターのわずかな隙間を潜り抜け、向こう側へと吸い込まれた。
だが、彼女を蹴り出した反動と摩擦で、自身の前進する勢いは完全に殺されていた。
床に手をつき、起き上がろうとしたら目前で、 シャッターが床まであと数十センチというところまで迫る。もう間に合わない。
向こう側の床に倒れ込んだ女性が、ハッと振り返った。彼女の瞳に絶望と、次の瞬間には決死の光が宿る。
「これを受け取って!」
女性が自身の左手首から荒っぽく引きちぎったのは、金属質の奇妙な腕時計のような端末だった。シャッターの隙間から滑り込ませるように投げ込まれたそれが、手元へとカチャリと転がってくる。
シャッターが床に激突し、激しい金属音と共に完全に外界を遮断した。
背後から、光をすべて吸い尽くすような絶対の闇が足首に絡みついてくる。冷たいのか熱いのかすら分からない、皮膚が融解するような錯覚。
遮断された向こう側から、彼女の悲痛な叫びがかすかに響いた。
「【装着】して!!」
転がってきた端末を無我夢中で掴み、自らの手首に押し当てた。黒い濁流が視界を埋め尽くし、全身の感覚が闇に呑まれていくその刹那、残された肺の空気をすべて吐き出すように叫んだ。
「――【装着】ッ!!」
端末がカチリと異様な噛み合わせの音を立て、眩い閃光を放った瞬間、意識は底知れぬ暗闇の底へと落ちていった。
★
瞼を開けても、そこには何の色もなかった。完全な暗闇。上も下も、壁も床も認識できない漆黒の空間だった。
だが、身体は止まっていない。激流に放り込まれた丸太のように、目に見えない強烈な「流れ」に呑まれ、どこかへ流されている感覚だけが生々しく伝わってくる。
(……溺れてない? 息ができてる……?)
不思議と息苦しさはなかった。顔を触ろうと手を動かした瞬間、自分の異変に気づく。
頭部は硬質なフルフェイスのヘルメットのようなもので密閉されており、首から下は肌に吸い付くように薄く、かつ強靭なウェットスーツのような感触のインナースーツに包まれていた。
手首には、先ほど押し当てたはずの金属端末がスーツと一体化していた。
あの警備員の叫んだ「装着」という合図は、この一瞬で全身を覆うパワードスーツのようなものを展開させるキーワードだったのか。
(あそこは……先端科学どころか、SFやアニメみたいな超技術を研究してたってことか……!?)
あんな得体の知れない黒い侵食現象が起きるくらいだ。表向きはただの研究施設に見せかけて、とんでもない実験をやっていたに違いない 。
そう思い至った、まさにその時だった。
ガァンッ!!
流れの先で、何かに激しく衝突した。
硬質ながら脆い「何か」を突き破る感触。
ガラスか、それとも現実の境界線そのものを粉々に叩き割ったかのような破壊音とともに、視界を埋め尽くしていた漆黒が一瞬にして吹き飛ぶ。
俺は床へ投げ出された。
今度は、見渡す限り一面の真っ白な空間だった。
まばゆい光に焼かれるような白ではなく、何もないキャンバスのような純白。
(さっきのが濁流なら……ここは、陸地か……?)
手袋越しに床の感触を確かめようと身じろぎしたその時、頭蓋の奥に直接、抑揚のない機械的な女声のようなアナウンスが響き渡った。
『異世界の異邦者を確認。スキャンを開始……』
全身を不可視の光が通り抜けるような、奇妙な悪寒が走る。
『……対象を解析。精神構造、および身体データ照合。世界【テイル】の文化レベルを引き上げる人材と判明。基本的なスキル譲渡を開始…………成功』
何かが脳内の神経網に無理やり書き込まれていくような、鈍い熱感が走る。
『適正スキルを抽出…………職業【剣鬼】を獲得』
(けんき……? 剣鬼って、包丁しか握ったことないんだが……!?)
料理人の技術をどう誤読したらそうなるのかと突っ込む暇もなく、機械的な声は淡々と処理を継続した。
『警告。未確定疑似生命体を外部装甲として確認。データベースと照合不能……類似生命体の新種として認定』
このスーツのことか?
自分の胸元を見下ろした瞬間、ヘルメットのバイザー部分の内側に、淡い緑色の文字とグリッド線がバチバチと火花を散らすように浮かび上がった。
『――世界【テイル】へのランダム転送準備を開始』
機械的なアナウンスと同時に、純白の床へ幾何学的な幾筋もの光が奔流となって走り抜けた。
足元を中心に、複雑な紋様が瞬く間に描き出されていく。眩い黄金の光を放つ、巨大な魔法陣。
(なんなんだよ、いったい……!)
事態の展開が目まぐるしすぎて、頭の処理が追いつかない。
だが、今の流れを整理するなら、あの研究所の事故で次元の穴か何かに落ち、ここは異世界へ渡るための『検問所』のような場所だったということか。そこで勝手に審査され、スキルを与えられ、今まさに「テイル」という未知の世界へ送り出されようとしている。
まるで規格外の荷物が、問答無用でベルトコンベアに乗せられて出荷されていくような感覚だった。
「ちょっ、待て! 説明くらい――」
抗議の声を上げようとしたが、足元の魔法陣が臨界点に達したかのように爆発的な輝きを放ち、視界を黄金の奔流が塗りつぶす。
ヘルメット越しにも容赦なく差し込む光の中で、あの抑揚のない声が、どこか事務的な響きのまま脳髄に落ちてきた。
『テイルをお楽しみください』
遊園地のアトラクションの送り出しのような一言を最後に、重力が完全に消失した。
内臓が浮き上がるような強烈な浮遊感とともに、意識のスイッチは再びぷつりと切断された。
お読みいただきありがとうございます。
豊富なストックがあるので今回は一気に5話まで更新します。




