最終章 結末・旅立ち:男としての第一歩
やわらかな陽光が、白いレースのカーテンを透かして室内に差し込んでいた。どこか遠くで鳴る馬車の轍の音と、賑やかな街の喧騒。焦げくさい灰の匂いも、不快な高周波もそこにはない。漂っているのは、干したてのシーツの匂いと、どこかの屋台から漂ってくる焼きたてパンの甘い香りだった。「……ん……っ」アルファはゆっくりと瞼を開いた。体にのしかかっていた重度の倦怠感と、指先まで痺れるような魔力酔いの感覚は綺麗に消え去っている。身体に巻かれた清潔な包帯からは、上質な回復薬の匂いがした。「ここ……王都の……宿屋?」起き上がろうと身体を小さく起こした、その時だった。「あっ……!い、起きたの……!?アルファ……ちゃん」ベッドの脇に置かれた椅子から、弾かれたように立ち上がった影があった。リリアだ。甲冑を脱ぎ、動きやすい町娘風のブラウスとスカートに身を包んだ彼女は、手にしていた濡れタオルを思わずポロリと水桶の中に落とした。「リリア様……。僕、どれくらい眠ってた……?」アルファが目を擦りながら尋ねると、リリアは慌てたように視線を泳がせ、視線をアルファの顔から明後日の方向へと逸らした。「ふ、ふた日よ!まるまる二日間、ずっと眠り続けてたんだから!……本当に、心配したんだからね」「そっか……ふた日も……」アルファは自分の掌をグーパーと握り直した。あの極限状態で紡ぎ出した新旋律《即興曲:愛の讃歌:アリア・アモール》。 四天王アルファベトを打ち砕いたあの瞬間の感覚が、今も指先に温かい熱となって残っている。「……あ、あのね、アルファ……」「ん?」アルファが顔を上げると、リリアはなぜか頬をぽっと赤く染め、もじもじと両手を前で組んでいた。普段の凛々しい勇者としての姿はどこへやら、まるで恋する乙女のようなソワソワとした挙動だ。「身体……どこも痛くない?スープ、飲む?それとも、喉乾いたかしら……?あ、お水持ってくるわね!」「あ、大丈夫だよリリア様。それより」アルファはベッドから脚を下ろし、リリアの顔をじっと覗き込んだ。「なんか……僕の顔、直視してくれなくない?」「〜〜〜っ!? な、そんなことないわよっ!直視してるわよ!ほら、堂々と!」リリアはバッと顔をアルファに向けたが、目を合わせると一瞬で耳の先まで真っ赤になり、すぐさま視線をお手元の水桶へと落とした。(……なんで!? いつものリリア様なら、『無事でよかった〜!』って即座にぎゅーって抱きしめてくるはずなのに……!)アルファの鋭い知覚機能が、リリアから立ち上る「音の色彩」を拾い上げた。いつもは純白で穏やかな彼女の音色が、今はまるで打ち上げ花火のようにパチパチと弾け、甘く乱れた桃色の旋律を奏でている。
(これって……まさか……)
アルファの胸の奥で、小さな期待が爆発しそうになった。気絶する寸前、自分が呟いた言葉を思い出す。『今度は……子供扱いじゃなくて……男として抱きしめてくれた……?』(意識……してくれてる……!?僕のこと、『男』として……!!)アルファの顔も、みるみるうちに熟したトマトのように真っ赤になった。二人の間に、なんとも言えない甘酸っぱく甘ゆい静寂が漂う。「よおよお、二人揃って顔真っ赤にして何やってんだか」ガチャリとドアが開き、豪快な声とともに部屋に入ってきたのは重戦士だった。全身に痛々しい包帯を巻き、腕を吊ってはいるものの、その表情は実に晴れやかで元気そのものだ。「重戦士さん!身体、大丈夫なの!?」アルファが驚いて声を上げると、巨漢の戦士はガハハと笑って自分の太い腕を叩いた。「おうよ! 坊主の圧倒的な回復魔法……じゃなくて、王都の一流ヒーラーに治してもらったぜ。だがよ、本当にお前さんのおかげだ。あの四天王の黒い文字に削られた傷は、普通なら一生治らねぇところだったらしい」重戦士はアルファのベッド脇まで歩み寄ると、真剣な目つきになって、アルファの頭へガシッと大きな手を置いた。「ありがとな、アルファ。お前のおかげで、俺もリリアもこうして生きてる」「……へへ、いいよ。僕たち、仲間でしょ」アルファが照れくさそうに笑うと、重戦士はニッと口の端を上げた。「仲間、か。……だがな、事態はそう気楽なもんでもなくなってきたぜ」重戦士の表情が、急に引き締まった。彼は懐から一枚の羊皮紙を取り出し、テーブルの上へと広げた。そこには王都のギルドと騎士団から発せられた、極秘の警戒令が記されていた。「四天王アルファベトの撃破……。魔王軍にとっては相当な衝撃だったらしい。奴ら、お前が復元した『音声魔法』を、世界を揺るがす最大の脅威として本格的にマークし始めた」「僕の……歌を?」「ああ。これまでは『廃れた異端の魔法』としてナメてたようだが、四天王の一角が消されたとなれば話は別だ。今後、刺客の質も量も段違いになるだろうよ」リリアも表情を勇者のものへと戻し、深く頷いた。「ええ。王都の騎士団からは『王城で保護する』という提案も受けたわ。でも……」リリアはアルファを見つめた。「アルファちゃんを籠の鳥にするわけにはいかない。この子が紡ぐ『生きた歌』は、世界を駆け巡ってこそ輝くものだから。……それに、私は決めたの。この子を、絶対に私が守り抜くって」「リリア様……」「だからアルファちゃん。危険な旅になるけれど……私と一緒に、魔王を倒す旅に出てくれる?」
夕暮れ時。王都を一望できる小高い丘の上。赤金色の夕日が開けた街並みを美しく染め上げ、遠くの教会からは夕刻を告げる鐘の音が優しく響いていた。風が吹き抜け、草木がさわさわと心地よい「音の色彩」を奏でている。「綺麗な音……」アルファは丘の端に立ち、目を細めた。 字形魔法に支配された都市であっても、夕暮れの風や人々の生きる営みの音は、変わらず生きた歌として世界を満たしている。「アルファちゃん」後ろから、リリアが歩み寄ってきた。 背中には研ぎ澄まされた大剣。その佇まいは凛として美しく、夕日の光を受けて神々しいほどだった。「出発の準備、できたわよ。重戦士さんも下で待ってる」「うん」アルファは振り向いた。そして、リリアの顔を真っ直ぐに見つめた。もう、背伸びをするような強がりはいらなかった。自分の胸の中には、四天王との死闘を経て手に入れた、揺るぎない「確信」があったから。「リリア様」「なあに?」アルファは一歩、踏み出した。そして、少しだけ手を伸ばし、リリアのしなやかで温かい手をギュッと、自分から握り締めた。
「っ……!」
リリアの身体が跳ねる。小さな、けれど力強い握り拳。もう「子供に握られた手」ではない。一人の男が、大切な女性を守ると誓うように、力強く組み合わされた指先。「僕ね、分かったんだ」アルファは夕日の光を瞳に反射させながら、堂々と告げた。「僕の『音声魔法』が本当に強くなるのは、綺麗な自然の音を真似してる時じゃない。……君を守りたいって、君が好きだっていう情熱を歌に乗せた時だって」「アルファ……ちゃん……」「だから、もう護衛される子供として旅をするんじゃない。僕が君のパートナーとして、最後まで君を守る」アルファの言葉には、迷いも、幼さもなかった。そこにいたのは、十二歳にして世界最高の魔法を紡ぎ出し、愛する人のために覚醒した、一人の立派な「男」の姿だった。リリアの胸が、どクンと激しく打ち跳ねた。顔が熱くなり、赤面を隠すように一度目を伏せたリリアだったが――すぐに、愛おしそうに口元を綻ばせた。「……ずるいわね」「え?」「そんな風に言われたら……もう、子供扱いなんてできないじゃない」リリアは握られたアルファの手を、優しく握り返した。その手は小さかったけれど、どんな大剣よりも温かく、どんな魔法よりも頼もしかった。「よろしくね、私の騎士様」ふわりと微笑んだリリアの顔は、夕日よりも赤く、そして世界で一番美しかった。
丘の下の街道では、大斧を担いだ重戦士が待ちくたびれたようにあくびをしていた。「おいおーい! 二人とも遅いぞー!日が暮れちまうだろーが!」手をつないで丘を下りてくる二人を見て、重戦士は意悪くニヤニヤと口端を歪めた。「へっへー、なんだなんだ?いつからそんな仲良しこよしで手を繋ぐようになったんだぁ?えぇ?勇者様よぉ?」「〜〜〜っ! じ、重戦士さんっ!からかわないでください!これは……その、迷子にならないようにというか……ッ!」リリアが速攻でパニックになり、顔を真っ赤にして手をぶんぶんと振る。「迷子って、街の中で繋ぐならともかくこんな一本道で迷子になるかよ!ガハハ!やれやれ、世界を救う前にこっちの甘さにやられそうだぜ!」「重戦士さん!!」「いいじゃんリリア様! 堂々としてようよ、僕たちはパートナーなんだから!」胸を張るアルファの横で、リリアは「もう……っ!」と耳まで真っ赤にして顔を覆うのだった。灰色の「文字の死体」に覆われたこの世界で。死にかけた世界に「生きた歌」を取り戻すための、そして、あまりにも一途で甘酸っぱい恋を成就させるための旅。空には一番星が輝き始めていた。その光は、まるで二人の未来を祝うかのように、金色に優しく瞬いていた。
十二歳の天才魔導士と、十八歳の女勇者。 甘酸っぱくて生意気な、世界を越える恋と戦いが、今ここから始動する!
【エピソード一 完】




