第三十七話 犬の鼻
「殿下は逃げてしまわれた……」
先ほどのやかましい脱出劇は何だったのか。
静かになった私室の中で学者はつぶやいた。
「私がすべきことは⋯⋯」
「あのナスターシャが殿下に追いつかぬよう守ること⋯⋯」
学者の言葉には忠義が混ざっていた。
「よし!」
「切り札の自動反応魔力砲三門で、」
「あの化け物を倒してやる!」
どうやらよくわからないスイッチが入ったらしかった。
魔物を撫でるナスターシャに向けて砲塔が展開されていく。
「死ね!」
「ん?」
少し間の抜けた声とともにナスターシャは光に飲まれた。
「やった!」
「やったぞ!」
その様子に勝利を確信したらしく、
学者は大声を張り上げた。
しかし……
彼の首筋に手が添えられた。
「なに!」
「あら、私はまだ死んでいませんわ。」
その手の主はナスターシャだった。
「ぬか喜びさせてしまったかしら?」
声こそ穏やかであったが、
どこか底冷えするような冷たさがあった。
「さて、」
ニコッと彼女は微笑んだ。
「ヴィルヘルムがどこへ行ったか教えてもらえないかしら?」
「教えないならわかりますわよね?」
学者の目が首筋に添えられた腕を見るやいなや、
彼の表情には急速に怯えが浮かび始めた。
「は、はひ!」
あまりの恐怖に彼の呂律はもはや回ってはいなかった。
「そ、そこの窓から逃げていきました……」
戦意を喪失してしまった彼は、
あっさりとヴィルヘルムの逃げた先を暴露してしまった。
「そう、ありがとう。」
ゆっくりと首筋から腕が離れた。
「助かった……」
安堵かなんなのか、学者の目にみるみるうちに涙が溜まっていく。
「ふぅ。」
それを尻目にナスターシャは息をついた。
「待ってて!ヴィルヘルム!」
直後、彼女は窓に向けて駆け出しベランダから飛び降りた。
「婚約者が何人いたって構いませんわ!」
「私を101人目の婚約者にしてちょうだい!」
ドォォォォン――
地響きとともにけたたましい音が鳴り、
下から砂埃が舞った。
「なんだ?」
「殿下の次は隕石か何かか?」
下で庭園の整備を行っていた庭師たちは首を揃えて、
ナスターシャが着地した場所を見つめていた。
「ヴィルヘルムの……ヴィルヘルムの……」
砂埃が晴れ始め、次第にその姿が見えていく。
「ヴィルヘルムの匂いですわ!」
完全に砂が消え去りあらわになったのは……
四つん這いになって愛する人の匂いを探るナスターシャであった。
「うわああああああ!何やってんだあの人!?」
「変態が城内に!」
「衛兵さん!こっちです!」
その異様な姿に庭師たちは悲鳴を上げながら逃げ惑った。
「ヴィルヘルムの匂いは……」
「ここから北に向かってそこから突き当りを右に曲がったみたいですわ。」
なぜそんなことがわかるのであろうか。
クンクンと鼻を鳴らしながらぶつぶつと彼女はつぶやいた。
「さあ迎えに行きますわよ!」
どうやら居場所の探知は終わったらしく、
彼女は四つん這いのまま髪を振り乱しながら走り出した。
「飛び降りた殿下と言い、あの変態と言い……」
ナスターシャが走り去ったあと、
残されたのは困惑した数人の庭師たちだけであった。
「今日は一体何なんだ?」
庭師の1人が腕を組みながら言った。
「さあ、さっぱりわからん。」
「ただ、」
もう1人がどこか重そうに口を開いた。
「おれたちにはどうしようもないことなのは確かだ。」
「それもそうだな。」
2人の言葉にはついていけない状況へのあきらめがこもっていた。
ここまで読んでいただきありがとうございました。




