二話 冷えた部屋に、カレーライス
真冬の今日こんにち、日暮れは早く、会社を出た頃にはすっかり街は暗くなっていた。自転車で信号を待つ間、マフラーを巻き直し、暗い空を仰いで、雪が降り出す気配を感じる。夜中には、また昨晩のように雪が舞うだろう。
やはりいくらかの残業は免れず、息子は、迎えを待つ最後の一人として待ちくたびれ、ぐっすり寝こけてしまっていた。
今日はクリスマスイブなんだと、昼間はしゃぎすぎて、ろくに昼寝もしなかったと保母さんが言うのに謝罪し、息子を受け取る。自転車の後ろの席に座らせていると、眠たい目を手袋の手でこすって起き出す。マフラーにすっかりうもれ、顔の半分が隠れてしまっているが、今にも再び眠ってしまいそうな顔つきだ。
狭いアパートの一室は冷え切っていて、すぐにストーブを付け、風呂場に直行する。息子がすっかり熟睡してしまう前にシャワーで体を洗い、同時進行で湯を張っている風呂に浸け、温まらせる。
風呂を上がり、体を拭き、パジャマを着せ。戻った部屋が湯冷めしない程度に温もっているのにほっとしながら、作りおきのカレーをコンロで温める。
「トモ、寝るなよ。お腹すいてるだろ」
椅子に座ったまま寝こけそうな息子の前に、すかさずカレーライスの皿を置き、俺もその隣の席についた。テーブルに散らかる新聞紙や、整理できていないガスや水道の請求書を遠ざける。
「けーきは……?」
やっと食べきってくれたかと安心したのも束の間、寝ぼけ眼で息子は俺の顔を仰ぐ。
「ケーキ?」
「みんな、きょうは、けーき、たべるんだって。いちごのね、けーき。さんたさんがのってるの」
きっと、典型的な、白いクリームに、苺とサンタの砂糖菓子が乗っているケーキのことだろう。この時期、その手のコマーシャルが、いやというほどテレビで流れている。
勿論、俺がケーキなんて用意しているはずがない。忙しいんだ、ケーキなど買っている余裕が、どこにあっただろうか。
「カレー食べたばっかりだろ。ケーキなんて食べたら、気持ち悪くなるぞ」
だが、この期に及んでもそんな説明を口にできず、俺はわけのわからない言い訳を並べる。幸い、眠たい息子は、有り難く素直に頷いてくれた。
「歯磨きして、もう寝ないとな」
うん、と頷いて大あくびをするのに、口の端についたカレーをティッシュで拭ってやる。
「さんたさん、みちゃったら、わるいこなんだって。はやくねないと、ぷれぜんと、くれないんだって」
成る程。早く眠る良い子のところに、サンタは来るわけだ。大人の都合のいいようにできている。サンタのプレゼントが欲しくば、早く寝ろという暗示だ。
歯磨きをさせ、あとは寝るだけと布団を敷くと、中に潜り込む前に、息子は自分の小さな靴下を片方だけ持ってきた。
「ぷれぜんと、このなかに、いれてくれるの」
「そんな小さな靴下に、入らないよ」
「はいるの。さんたさん、ふしぎだから」
いそいそと、枕元にそれを設置するのに、思わず笑ってしまう。せいぜい、飴玉が数個入れられる程の大きさなのに、一体どんなプレゼントを想像しているんだろうか。
今日は二人、妻がいれば三人、川の字になって寝る部屋で、元々疲れていた息子は、すぐにぐっすりと眠り込んだ。しばらく寝息を聞き、布団を首元までかけ直してやり、俺は寝室を後にした。
居間に戻り、ため息をつきながら軽く片付けをする。帰ってから脱ぎ捨てたジャンパーやマフラーをハンガーにかける。たまった洗濯物は、明日の朝に洗濯しよう。幸い明日は土曜日だ。帰ってくる妻は、少々部屋が散らかっていようが、怒ることはないだろうが、喜ばしくはない部屋だ。
息子が起き出さないよう居間の電気を消すと、キッチンのテーブルで、置きっ放しのスマートフォンが点滅しているのに気がついた。こんな夜に、いったい誰からの連絡かと、画面のロックを解く。
サンタさん、準備できた?
妻からのメッセージだった。出張前、いや、何年も前から、妻とはクリスマスへの想いだけはすれ違い続けている。
そろそろ物心もつくんだから、クリスマスを祝ってあげないと可哀想だと妻は言う。その通りだと、俺も思う。だがその反面、現実的な自分が、何を浮かれているんだと鼻で笑う。たかだか一日二日の海外の行事に、宗教の概念すら持たない一般人が、この時こそと騒ぎ出す。馬鹿馬鹿しい。現に、クリスマスもサンタも体験しない人間が、こうして大人になったのだ。忙しい毎日のどこに、そんな余裕があるというんだ。
妻からのメッセージに、そうして鼻白む自分が無視をさせる。俺は、クリスマスを祝わない。どうせ、今からでは、遅すぎるんだ。
すると、息子の枕元に置かれた小さな片方の靴下を思い出してしまう。心の奥がひりひりと嘆く。朝、空っぽの靴下を見て、あの子は一体、何を思うだろう。サンタの正体を知る年齢になれば、不甲斐ない父親を軽蔑するだろうか。
ひりつく心を抱えたまま、スマートフォンを机に置き、ストーブを消して、コートを羽織って外に出た。
*
身を切る冬の寒風に、温もっていた体はあっという間に冷えていく。せめて体感温度の低下を防ぐため、しっかりとコートの前を閉め、襟を立てながら、アパートの階段を三階から一階まで下りた。自転車置き場を通り過ぎ、敷地と公道の境で、ポケットからくしゃくしゃに丸まった煙草の箱を取り出した。そういえば、煙草を吸うのも随分と久々だ。
夜も更け出したこの時間、外出する誰かどころか、帰宅する人の姿もない。道を隔てた向かい側に、街灯が寂しく点っているだけの、夜闇の世界だ。
「何をやってるんだろうな。俺は」
咥えた煙草に火を点け、一吸いすると、寒さも相まり、頭に潜んでいた興奮が収まっていくのを感じる。夜闇にぽっと灯る炎の赤を見ていると、段々と、心が静まっていく。
「……疲れてるんだろうな」
言葉の端に、ぽたりと白い点が落ちた。粉雪だ。冷え切った空気は、上空の水蒸気を雪に変え始めたらしい。このままだと、明日は立派な、ホワイトクリスマスとやらだ。
煙草を指に挟んだ手で、こめかみをかいた。今更どうしようもないというのに、明日が億劫でたまらない。
やめてくれ。俺はサンタにはなれないんだ。サンタを知らない人間が、どうして成りきれるんだ。妻に苦労を負わせ、息子に寂しさを感じさせ、後輩に八つ当たる、ただの不甲斐ない人間なんだ。
心が冷えていく。なんだ、俺はずっと、疲れていたんだ。そんな想いが止めどなく溢れてくる。この疲れは、誰にも癒せない。そして、これからが重くて仕方がない。ちっぽけな人間である俺には、今以上に背負えるものなんて有りはしないのに、今後の人生を、耐えられる気がしない。
「本当に、ダメなやつだな」
俯いて、零れそうな熱い塊を飲み込みながら、携帯用の灰皿に吸殻をしまった。
顔を上げ、目に飛び込んだ光に、思わず一度瞼を閉じた。




