一話 クリスマスなんて
「まっかーなおっはーなーのー。とーなかーいさーんーはー」
自転車の後ろで、機嫌の良い歌声が、曇り空を跳ね除ける勢いで、明るく響く。
クリスマスについては、恐らく、いや、間違いなく、今向かっている保育園で教えられたのだろう。余計なことをと苦味を覚える反面、息子に常識を教えてくれる有り難みもある。
「さんたのおーじっさんはー。いーいーまっしーたー」
サンタのおじさんなんて、いやしないのに。
昨晩降り始め、夜明けにようやく止んだ粉雪が薄く積もった道の上、滑らないよう強く握り締めたハンドルで、ゆっくりとブレーキをかける。サドルから下り、スタンドを立てる。白い息を吐きながら、ベルトを外してやると、息子は待ってましたとばかりに両手を上げた。その顔が、いつもより輝いて見えるのに、心の奥が鬱屈とする。
「きょうね、きょうね、おとーさん!」
抱き上げ、自転車から下ろし、ヘルメットを脱がせてやると、四歳の息子は温かなジャンパーに埋もれた顔をほころばせる。
「おうちにね、さんたさんがくるんだよ!」
毛糸の手袋で、俺の手を取るのに、上手く笑い返せなかった。サンタなんていないよ。せめて、そう諭そうと口を開きかけたが、保育園の職員に声をかけられた。人見知りを知らない、元気の良さで評判の息子は、手を振る職員に満面の笑みを返し、大声で挨拶を返す。
この笑顔は、俺の一言で、今日中に曇ってしまうのか。そう思うと、とても愉快な気になどなれない。そんな俺を振り向き、息子は楽しそうに飛び跳ねる。
「いってらっしゃい!」
両腕をぶんぶん振るのに、俺は片手を軽く上げて返事をし、自転車のスタンドを倒した。前かごに突っ込んである通勤カバンに、頭上の木からこぼれ落ちた雪がかかっているのを、片手で軽く撫でて落とす。ため息は、誰にも見られないまま、白い形をとって、寒空の中に消えていった。
*
クリスマスなんて、調子の良い人間が調子良くはしゃぐ、至極迷惑な日だ。
俺がこう思うのは、子どもの頃、一度もサンタが家にやってこなかったからだろう。「世の中のサンタは、親がやってるんだから」今年こそ、うちにもサンタがくるかと尋ねる度に、母親はうんざりした顔でそう言った。サンタのみではなく、イブも、クリスマス当日も、ケーキの欠片一つ食べることなく、ツリーやリースといった飾り物さえ我が家にはなかった。
世間だってそうだ。デパートの前では、巨大なクリスマスツリーを立て、電飾を巻きつけ、音楽をうるさく流しながら、呼び込みをしている。だが、二十五日を過ぎて、ひと晩経てば、全てはまるで夢だったかのようにしまいこまれ、粛々と門松が佇むようになる。その変わり身の速さには、呆れさえ覚える。
加えて、思い出したくない遠い記憶が、俺からクリスマスを奪っていく。思い出したくないそれは、いつしか思い出せないものとなり、クリスマスを亡き者にしたがっている。そんな記憶を掴めないのが、毎年歯痒くて仕方がない。
「クリスマスは、いらないみたいだな」
はっとした。同時に、嫌味な上司に対する嫌悪感と、ついぼんやりしてしまう自分への不甲斐なさがこみ上げる。存在を嫌っているクリスマスのことを考えて、現実の状況を忘れてしまうだなんて。
「そんな甲斐性だから、奥さんに逃げられるんだぞ」
事情を知っているはずの嫌味な笑みは、大量の書類を俺の机に残してさっさと退散していった。言い返す気力も起こらず、パソコン画面内蔵の時計に目をやる。確実に残業をしなければ捌ききれない仕事量だ。
「課長も嫌なこと言いますね」
隣の席の男が、見かねたのか声をかけてくる。俺より二年後輩の、歳は三十前後、独り身の男だ。
「奥さん、出張中なんでしょう」
いくらか声を抑えるのに、俺は、ああ、と返事をした。妻は出張の多い仕事で、数日間家を空けることは多々あり、その間は、俺が息子の世話と家事を担当することになっている。するしかないのだ。俺にもっと甲斐性があって、妻が専業主婦として家にいることができれば、息子も、母親が欠ける寂しさなど知らず、もっと楽しい日々を送れているだろうに。そう思うだけで、胸の奥がひりひりと痛む。
「明日には、帰ってくるけどな」
「それは、よかったですね。明日は、クリスマスですから」
クリスマスか。どこにいっても、クリスマス、クリスマス。みんな一体何を浮かれてやがるんだ。ただの一日二日の話、それが終われば、またいつもの日常に戻るのだというのに。その虚しさを、みんなは感じないんだろうか。
今朝方の、明るい歌声を思い出す。うちには、サンタはこないんだよ。こんな情けない男に、サンタを演じる資格も余裕もないんだ。
ああ、嫌だ。劣等感だの自己嫌悪だの、こんな気分にさせるクリスマスなんて、大嫌いだ。
「それ、僕がやっておきますよ。息子さん、楽しみにしてるんじゃないですか」
「いいよ。あいつだって、わかってくれるはずだ」
なんてやつだ。人の気も知らないで、なんて優しいやつなんだ。苛立ちが、抑えられないほどに。
「まだ小さいんでしょう、大人が思うより、子どもは繊細なんですから。こんな日に、お父さんが遅くなったりしたら、悲しみますよ」
クリスマスから逃げる口実さえ、奪っていく。
「今日は、特別な日じゃないですか」
「勝手なことを言うなよ」
それに比べて、俺はなんて卑劣な男なんだ。
「うちにクリスマスはいらないんだ。子どももいないのに、わかったようなことを言わないでくれ」
その言葉が、大層過ぎた失言であることに、言ってしまってから、気がついた。折角、こんな俺に気を遣い、息子のことまで気にかけてくれたというのに。
言葉を失った彼に、俺は軽く額を抑えて呻いた。
「……悪かった。ちょっと、気の重いことがあってな」
いくら気が重くとも、社会人として、人に当たるというのは如何なものか。
だが、そんな愚痴は口に出さず、よく出来た同僚は「疲れてるんですよ」と苦笑した。




