↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/19

Aさんに関する介護記録

殺した、殺した、殺した、殺した……耳もとでだれかの声がリズムをとりながら繰り返している。(俺あ、なにもしない)勝呂はその声を懸命に消そうとする。(俺あ、なにもしない)だがこの説得も心の中で撥ねかえり、小さな渦をまき、消えていった。(成程、お前は何もしなかったとさ。おばはんが死ぬ時も、今度もなにもしなかった。だがお前はいつも、そこにいたのじゃ。そこにいてなにもしなかったのじゃ) 遠藤周作『海と毒薬』(新潮文庫)



休み明け。出勤するとAさんが亡くなっていた。女性。九十三歳。

いつ逝ってもおかしくない情況なのは誰の目にも明らかだった。家族が病院への受診を拒否し、「自然な形で死なせてあげたい」という強い希望があったので、該施設でターミナルケア(看取り)を行った。「自然な形で死ぬ」というのがどういうことなのかは僕には分からないが。



老衰というのは概ね餓死のことである。ある段階まで来ると、ひとは身体が食事や水分を受け付けなる。つまり何も食べられなくなり何も飲めなくなる。すると躰から力が無くなる。そしてベッドで寝た切りの状態になる。何も口にしていないのだから地獄の苦しみであろう、と思われるが案外にそうでもないらしく、栄養を供給されない脳が限界を迎えてドーパミン等の脳内物質が分泌され、当人は幸せな気持ちでいるという。また、昔の人は病床に伏しても水分を取ることが出来ずに死んでいった。つまり点滴などが無かった訳だが、水分を取らなければ痛みを感じる神経も枯死してしまうので、安らかに亡くなるものなのだという話もある。



Aさんの家族は毎日施設へ来訪し、手ずから水分を提供し続けた(点滴や酸素吸入は拒否したにもかかわらず)。後にパートの方から「母に何か飲ませてあげないと可哀想だから」と聞いた。別の職員が「Aさんは地獄の苦しみだね」と言った。

それからAさんの足にチアノーゼ症状が現れた。そして間もなく壊死した。皮膚は剥落し、肉が露出し、赤黒くなっている中に少し緑っぽい色が混じっている脚に青い血管が幾筋も錯綜し浮き出ていた。脚が腐るとこうなるんだなと思った。介護歴の長いひとに尋ねてみたが「あそこまで酷い状態は、ちょっと見たことがないな」とのことだった。看護長はこの事実を家族に隠匿した。壊死した脚にガーゼをぐるぐる巻いて「別に何でもないですよ」と取り澄ました顔をしていた。介護士にも緘口令が敷かれた。同僚が「これって僕たちも共犯ですよね」と言った。彼が「共犯」という強い言葉を使ったのは、我々のしていることがほぼ犯罪行為だからだ。家族への説明責任の放棄。医療行為の放棄。



僕が自分の目と耳で知り得たのはここまでだ。あとは別職員の残した記録を参照するしかない。亡くなる間際、Aさんは「一週間以上何も食べていないのに」、多量の排便が何度かあってから亡くなった、と記録されている。これは邪推だが、壊死した内臓でも出てきたのではないかと思う。そのショックで亡くなったのではないか、と。

午過ぎに看護長が呼吸停止を確認、それから家族が来て、十五時に出棺、とある。紙切れ一枚に、そう記してある。人生の最期は紙切れ一枚に要約されて終わる。そしてしかるべき時期が来て、PCにデータを移したら紙切れさえ破棄される。そしてAさんの部屋は速やかに、僅かな痕跡すら残らずに片付けられて、また新たな入居者の方が入ってくる。



自分がこの事の経緯とその終わりについて何を考えているのか分からない。どう受け止めればよいのか戸惑っているのかも知れないし、平生通り、クスリと酒で現実逃避して脳が理解を拒んでいるのかもしれない。ただ、「自然な形で死ぬ」ということが僕には分からなくなった、ということだけは分かった。

この業界では誰も長生きしようとは思っていない。僕も万が一、五十歳まで生きながらえるようなことがあれば潔く自決しようと思う。介護士や看護師のオモチャにされるのは御免蒙る。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。