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「聖女」の残響、凍てついた約束 ―魅了の騎士が遺した断罪の記録―  作者: ledled


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第6話 風化する記憶、墜落の果て

雨は、いつしか白い雪へと変わっていた。

空から舞い落ちる氷の結晶は、泥にまみれた大地を覆い隠し、世界を白一色に染め上げようとしていた。その静謐な白の中で、一つの影がよろめきながら森の奥へと進んでいく。

ソフィアだった。

村を追放された彼女は、行く当てもなく彷徨っていた。足の感覚はとうに失われ、自分の足で歩いているのか、誰かに引きずられているのかさえ分からないほど、意識は朦朧としていた。


「寒い……アレン、寒いよ……」


こだますることのない呟きが、白い息となって消えていく。

彼女が目指していたのは、村はずれの森の奥にある、小さな洞窟だった。

そこはかつて、幼い頃のアレンとソフィアが見つけた「秘密基地」だった。大人たちには内緒で、綺麗石や鳥の羽根、壊れた玩具なんかを持ち寄って遊んだ場所。

二人だけの世界。

あの場所に行けば、何かが残っているかもしれない。幼い日の温もりのかけらが、凍え死にそうな自分を温めてくれるかもしれない。

そんな縋るような思いだけが、彼女の体を突き動かしていた。


木々の枝が、枯れ木のように痩せた彼女の体に鞭打つ。茨が素足を切り裂き、雪の上に赤い点々を描く。けれど、今のソフィアには痛みさえも遠い感覚だった。

ただ、胸の奥にある空洞だけが、激しく疼いていた。


「どうして……どうしてこんなことに……」


後悔の念が、壊れたレコードのように頭の中で繰り返される。

あの日、ガイアスが現れなければ。

あの日、彼の手を取らなければ。

あの日、アレンの言葉に耳を傾けていれば。

無数の「もしも」が脳裏を駆け巡るが、そのどれもが今の惨めな現実を覆すことはない。

私は選んだのだ。

煌びやかなドレスを。

甘美な称賛を。

英雄の隣という特等席を。

その代償として支払ったのは、アレンという唯一無二の存在と、私自身の魂だった。その取引のあまりの不当さに、今更になって気づいても遅すぎた。


ようやく、見覚えのある岩肌が見えてきた。

蔦に覆われた入り口。子供一人がやっと通れるほどの狭い隙間。

ソフィアは泥だらけの手で蔦をかき分け、中へと這い込んだ。


洞窟の中は、外よりも幾分か暖かかった。風が遮られ、地面には乾いた落ち葉が積もっている。

薄暗い闇に目が慣れてくると、岩棚の上に置かれた小さな木箱が目に入った。

十年前、二人が埋めたタイムカプセル代わりの宝箱だ。

ソフィアは震える手でそれを引き寄せ、蓋を開けた。

中には、錆びついたブリキのコマと、ガラス玉、そして一枚の紙切れが入っていた。


『大きくなったら、アレンのお嫁さんになる』


拙い文字で書かれたその紙片を見た瞬間、ソフィアの目から堰を切ったように涙が溢れ出した。

あの頃の私は、なんて純粋で、なんて幸せだったのだろう。

未来は輝きに満ちていて、アレンと生きることが疑いようのない真実だった。

それを自ら破り捨てたのは、誰でもない私自身だ。


「うっ……ううっ……ごめんなさい……ごめんなさい……」


ソフィアは紙片を胸に抱きしめ、冷たい岩肌に背を預けてうずくまった。

涙が頬を伝い、泥と混じり合って落ちていく。

寒さが芯まで染み込んでくる。手足の先から感覚が消え、視界が白く霞んでいく。

眠い。

抗いがたい睡魔が襲ってくる。

ここで眠ってはいけないと分かっている。眠れば、二度と目覚めることはないだろう。

けれど、目覚めた先に何があるというのだろう。

アレンに拒絶され、村を追われ、誰からも必要とされない明日が待っているだけだ。

それならいっそ、この思い出の場所で、幸せだった記憶と共に眠りにつくほうがいいのかもしれない。


意識が遠のく中で、幻覚が見えた。

洞窟の入り口から、光が差し込んでくる。

その光の中に、誰かが立っている。

アレンだ。

今の冷たい目をした彼ではない。あの頃の、優しく微笑む少年時代のアレンだ。

彼は手を差し伸べている。


『ソフィア、帰ろう』


彼の声が聞こえた気がした。

温かくて、懐かしくて、泣きたくなるほど優しい声。


「うん……帰る。私、帰るね……」


ソフィアは幻のアレンに向かって、力なく手を伸ばした。

その指先が空を切り、やがて重力に従ってぱたりと落ちた。

瞳から光が消え、呼吸が止まる。

最後に彼女の脳裏に浮かんだのは、満開の花畑でアレンと笑い合う、永遠に失われた風景だった。

外では雪が降り続き、洞窟の入り口を静かに塞いでいく。

かつて「聖女」と呼ばれた少女の最期は、誰に知られることもなく、ただ風の音だけが弔いの歌のように響いていた。


***


それから、三年の月日が流れた。


辺境の村には、変わらぬ日常が続いていた。

季節は巡り、春が来て種を蒔き、夏に緑が茂り、秋に収穫し、冬に閉ざされる。その円環の中で、人々は生き、死に、また新しい命が生まれていく。

かつて村を揺るがした「聖女」と「勇者」の騒動は、今や遠い過去の出来事となりつつあった。

酒場の笑い話として語られることはあっても、深刻な顔で議論する者はもういない。

村人たちの記憶の中で、ソフィアという存在は「愚かな娘の教訓」として風化し、日常の風景に埋もれていった。


アレンは、二十一歳になっていた。

彼は村一番の働き者として知られていた。

誰よりも早く畑に出て、誰よりも遅くまで働く。寡黙だが誠実で、頼まれた仕事は決して断らない。

村の娘たちや、近隣の村からの縁談の話もいくつかあった。

アレンは美男ではないが、引き締まった体躯と、どこか影のある落ち着いた雰囲気が、一部の女性たちを惹きつけたのだ。

しかし、彼はその全てを丁重に、しかし断固として断り続けていた。


「俺には必要ない」


それが彼の口癖だった。

彼は独り身のまま、かつて両親と暮らした家を守り続けている。

家の中は常に整頓されているが、生活感というものが希薄だった。まるで、いつここを去ってもいいように、あるいは誰も住んでいないかのように、余計なものが一切ない。

唯一、暖炉の上に飾られた花瓶だけが、季節ごとの野花で彩られていたが、それを誰のために飾っているのか、彼自身も深く考えたことはなかった。


ある初夏の日。

アレンは畑で雑草を抜いていた。

額に汗が滲み、土の匂いが立ち込める。変わらない作業。変わらない風景。

ふと、通りかかった行商人の荷馬車が止まった。

村によく来る顔なじみの男だ。彼はアレンに手を振り、革袋から水筒を取り出した。


「よう、アレン。相変わらず精が出るな」

「ああ。……今年は雨が少ないから、手間がかかる」

「そうだな。どこの村も水不足で嘆いてるよ」


行商人は水を一口飲み、喉を潤してから、声を潜めて言った。


「そういえば、奇妙な噂を聞いたぞ。この村の北にある森の奥……昔、子供たちが遊び場にしていた洞窟があっただろう?」

「……ああ、あるな」


アレンの手が一瞬だけ止まったが、すぐにまた草を抜き始めた。


「先日、狩人がそこで白骨死体を見つけたらしいんだ。ボロボロの服を着た、若い女の骨だったそうだ」

「……」

「身元を示すものは何もなかったが、古いお守りのような紙切れを抱いていたとか。……もしかしたら、数年前に行方知れずになった、あの『元聖女』様じゃないかって、もっぱらの噂だ」


行商人はアレンの顔色を伺うように、じっと彼を見つめた。

村の誰もが、アレンとソフィアの過去を知っている。だからこそ、この話題に対する彼の反応に興味があるのだ。

同情か、悲しみか、それとも冷笑か。


アレンはゆっくりと立ち上がり、土のついた手袋を脱いだ。

その表情は、驚くほど平坦だった。

眉一つ動かさず、瞳は凪いだ水面のように静まり返っている。


「そうか」


短く、それだけ言った。


「……それだけか? お前の幼馴染だったんだろう?」

「幼馴染だった人間は、ずっと前にいなくなった。そこに転がっていたのは、ただの骨だ」

「冷たいもんだな、お前も」

「事実を言ったまでだ。……死ねば誰だって骨になる。それ以上でも以下でもない」


アレンは淡々と告げ、再び鍬を握った。

行商人は肩をすくめ、「ま、そうだな。邪魔したな」と言って馬車を進めた。

遠ざかる車輪の音を聞きながら、アレンは作業を再開した。


胸の奥が痛むことはなかった。

涙が出ることもなかった。

ソフィアが死んだ。孤独に、寒さの中で、誰にも看取られずに。

その事実は、彼の心に何の波紋も広げなかった。

かつてあれほど愛し、憎み、そして絶望した相手の死。それが、今の彼にとっては「明日は雨が降るかもしれない」という天気予報と同じくらいの重さしか持たない情報だった。


「……」


アレンはふと手を止め、北の森の方角を見上げた。

深い緑に覆われた山の向こうに、その洞窟はある。

彼女はそこで、何を思って死んだのだろうか。

後悔か、恨みか、それとも救いを求めていたのか。

想像することはできた。けれど、共感することはできなかった。

彼の中にある「感情」という回路は、あの日、雨の中で彼女を拒絶した時に完全に焼き切れてしまったのだ。


(俺は、壊れているのかもしれないな)


ぼんやりとそう思った。

悲しむべき時に悲しめず、怒るべき時に怒れない。

ただ、毎日を淡々と消費し、死ぬまでの時間をやり過ごしているだけ。

色のない世界。音のない感情。

それが、彼が選んだ、そして彼に残された唯一の生き方だった。


「アレン! おーい!」


遠くから、村の青年が呼ぶ声がした。

収穫の手伝いを頼まれていたのを思い出す。


「今行く」


アレンは鍬を肩に担ぎ、歩き出した。

振り返ることはない。

森の奥で朽ちていった少女の魂に、祈りを捧げることもない。

彼の足取りは確かで、迷いがなかった。

ただ前を見て、今日という日を生きるために歩を進める。

空はどこまでも青く、残酷なほどに澄み渡っている。

雲ひとつない快晴。

その眩しさが、アレンの凍りついた瞳を照らし出していた。


風が吹き抜け、森の木々を揺らす。

ザワザワという葉擦れの音が、まるで遠い昔の誰かの囁きのように聞こえたが、アレンは足を止めることなく、日常という名の喧騒の中へと戻っていった。

そこにはもう、「聖女」の残響すら残ってはいなかった。

完全に断ち切られた過去と、静寂に満ちた現在だけが、彼の中に永遠に横たわっていた。

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