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「聖女」の残響、凍てついた約束 ―魅了の騎士が遺した断罪の記録―  作者: ledled


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第5話 拒絶の雨、戻らぬ色彩

鉛色の雲が、低く垂れ込めている。

ポツリ、ポツリと降り出した冷たい雨は、次第に勢いを増し、凍てついた大地を容赦なく打ち叩き始めた。雨粒にはみぞれが混じり、肌に触れるたびに氷の針で刺されたような痛みが走る。


長い旅の果てに、ようやく辿り着いた故郷の入り口で、ソフィアは足を止めた。

かつては輝くような白磁の肌を誇っていた頬は土気色に汚れ、頬骨が浮き出るほどに痩せこけている。亜麻色の髪は油と泥で固まり、かつての「聖女」の面影はどこにもない。ボロボロの靴から覗く足は血と膿で汚れ、一歩踏み出すたびに激痛が走った。


「やっと……帰ってきた……」


乾いた唇から、掠れた声が漏れる。

視線の先には、懐かしい村の家々が見える。煙突から立ち上る煙、雨音に混じって聞こえる家畜の声。それら全てが、凍えきったソフィアの心に灯る唯一の温かい光だった。

あそこに行けば、救われる。

アレンがいる。長老がいる。優しい村人たちがいる。

彼らは最初は驚くだろう。怒るかもしれない。けれど、事情を話せば――あの忌まわしい「魅了」の魔法のせいだったと涙ながらに訴えれば、きっと許してくれるはずだ。

だって、私は被害者なのだから。


重たい足を引きずり、村の広場へと向かう。

雨足が強まる中、井戸端に数人の村人の姿があった。水汲みをしている女性たちだ。幼い頃、よく野菜を分けてくれたおばさんや、親しくしていた近所の娘の顔が見える。


「あ……」


ソフィアは声を上げようとして、喉が詰まった。なんと声をかければいいのだろう。「ただいま」だろうか。それとも「助けて」だろうか。

その躊躇いの間に、一人の女性がソフィアに気づいた。


「あら、あんなところに乞食が……」

「嫌だねえ、こんな天気の日に入り込んでくるなんて」


彼女たちは眉をひそめ、不審者を見る目でこちらを見ている。無理もない。今の自分は、誰が見てもただの浮浪者にしか見えないだろう。

ソフィアは震える手で、濡れた髪をかき上げた。精一杯、背筋を伸ばし、かつての自分を取り戻そうとする。


「私です……ソフィアです。帰ってきました」


その声が届いた瞬間、女性たちの表情が凍りついた。

驚愕。そして次に浮かんだのは、ソフィアが期待していた安堵や同情ではなかった。

かつて第2話で彼女を称賛し、送り出した自分たちの「愚かさ」を刺激されたことによる、強烈な羞恥と逆恨みだった。


「……ソフィアだって?」

「よくもまあ、おめおめと……!」


バシャッ!

冷たい水が、ソフィアの顔面に浴びせられた。汲みたての井戸水だ。氷水のような冷たさに、ソフィアは悲鳴を上げて顔を覆った。


「な、何をするの……!?」

「何をするだって? お前こそ、どの面下げて帰ってきたんだ! 稀代の詐欺師の片棒を担いだ魔女が!」

「勇者だ聖女だと囃し立てさせて、私たちをいいように操りやがって! おかげでこの村は、近隣から『詐欺師を英雄扱いした間抜けな村』だと笑いものだよ!」


騒ぎを聞きつけて、家々から人が出てくる。

かつて「万歳」と叫んで紙吹雪を撒いた村人たちだ。彼らは今、自分たちが熱狂していた過去を「黒歴史」として抹消したがっていた。そして、その恥ずべき記憶の象徴であるソフィアを叩くことで、自分たちは被害者だと正当化しようとしていた。


「違うの、聞いて! 私も騙されていたの! ガイアスの魔法で、心が正常じゃなかったの!」


泥水に顔をつけながら、ソフィアは必死に叫んだ。

しかし、その訴えは火に油を注ぐだけだった。


「魔法だと? 言い訳をするな!」

「俺たちがあの時、お前らを送り出したのも魔法のせいだったと言いたいのか!?」

「そうだ、全部お前らのせいだ! 俺たちが馬鹿だったんじゃない、お前たちが呪いをかけたんだ!」


彼らは自分たちの主体性を否定するために、ソフィアを「元凶」に仕立て上げた。

誰かが投げた石が、ソフィアの肩に当たった。それを合図に、石礫が雨のように降り注ぐ。


「静まれ!」


威厳のある声が響き、石礫が止んだ。

人垣が割れ、杖をついた長老が現れる。あの日、ガイアスに最も深く頭を下げ、ソフィアの手を取って送り出した長老だ。

ソフィアは泥だらけの顔を上げ、すがるような目で長老を見つめた。


「長老……! 信じてください、私は……」

「黙りなさい」


長老の声は、降り注ぐ雨よりも冷徹だった。

彼は自分の失態――偽の英雄を歓待した事実――を棚に上げ、全ての汚名をソフィアに被せる目をして彼女を見下ろした。


「王都での顛末は聞いている。勇者が処刑され、お前が追放されたこともな。……この村の顔に泥を塗って、よくものこのこと戻ってこられたものだ」

「違います! 私は、ここが故郷だから……みんなに償いをしたくて……」

「償い? お前がいること自体が、我々にとっての屈辱なんじゃ」


長老は杖で地面を叩いた。


「お前の顔を見るたびに、村人たちは『偽物を崇めた愚かな過去』を思い出さされる。お前は歩く恥晒しなのだよ。あの時、村を出ていったお前を皆が祝福した? その記憶こそが、今の我々には耐え難い汚点なのだ」

「そ、そんな……」

「聖女の力も失せ、ただの罪人となったお前を養う義理はない。村の秩序と名誉のためにも、お前を置くわけにはいかない。出て行きなさい。二度とこの土を踏むな」


最後通告だった。

ソフィアは絶望に打ちひしがれた。足元の泥が、底なし沼のように思える。

違う。こんなはずじゃない。私は被害者なのに。どうして誰も分かってくれないの。

そうだ、アレン。

アレンなら。彼だけは違うはずだ。

彼は私の婚約者だった。誰よりも私を愛してくれていた。彼ならきっと、私を庇ってくれる。


「アレン……アレンはどこ!? アレンに会わせてください!」


狂ったように叫ぶソフィアを、村人たちが冷笑する。

「まだあいつに頼る気か」「図々しいにも程がある」

その時、人垣の後ろから、静かな足音が近づいてきた。

村人たちが自然と道を開ける。

そこに立っていたのは、農作業着を着た見慣れた青年だった。雨に濡れた黒髪、少し痩せた頬、そして深い湖のような瞳。

アレンだ。


「アレン!」


ソフィアは最後の力を振り絞り、這うようにして彼に近づいた。

彼の足元に縋り付き、泥だらけの手で彼のズボンを掴む。


「アレン、助けて……! 私よ、ソフィアよ! 酷いことになってしまったの。怖かった、寒かった……!」


涙と雨水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、ソフィアは訴えた。

アレンは動かなかった。ただ黙って、足元の物体を見下ろしている。

ソフィアは顔を上げた。彼と目が合う。

その瞬間、ソフィアの背筋に、雨の冷たさとは異なる戦慄が走った。


アレンの瞳には、何も映っていなかった。

怒りも、憎しみも、悲しみも、憐憫さえも。

まるで道端に転がる石ころを見ているような、完全なる「無」がそこにあった。


「……アレン? ねえ、何か言って。怒ってるの? 怒鳴ってくれてもいい、叩いてくれてもいい。でも、お願い、私を一人にしないで」


ソフィアの声が震える。

アレンはゆっくりと口を開いた。その声は、驚くほど平坦で、日常会話のようなトーンだった。


「……汚れるぞ」


彼は短くそう言い、ソフィアの手を振り払うでもなく、ただ一歩後ろに下がった。

掴んでいた指が空を切り、ソフィアの手は泥の中に落ちた。


「汚れるって……アレン、私よ? あなたのソフィアよ?」

「ソフィアという名の女性なら、一年前に死んだよ」


アレンは淡々と言った。


「ここにいるのは、ただの他人だ」


その言葉は、どんな罵倒よりも鋭く、ソフィアの心臓を貫いた。

他人。

十数年の付き合いも、交わした約束も、積み上げた思い出も、全てがその一言で切断された。


「嘘よ……魔法のせいだったの! あの男に操られていたの! 私の本心じゃなかった。私はずっと、アレンのことを愛していたのよ!」

「そうか」


アレンの反応は薄かった。


「それが事実だとしても、俺にはもう関係のないことだ」

「関係ないって……どうして? あんなに愛し合っていたじゃない!」

「愛していたさ。……あの日、お前が馬車に乗って去っていく瞬間まではな」


アレンは遠い目をした。その瞳の奥には、燃え尽きた灰のような色が広がっている。


「お前が魔法にかかっていたとしても、俺に向けられた言葉、俺に向けられた拒絶の眼差し、あれは現実に起きたことだ。俺の心はあの日、一度死んだんだ。死んだ人間は生き返らない。壊れた鏡は元には戻らない」

「そ、そんな……償うわ。一生かけて、あなたに尽くすから……だから……」

「必要ない」


アレンは即答した。


「俺は今、一人で生きている。誰の干渉も受けず、誰にも期待せず、静かに暮らしている。それが俺にとっての平穏なんだ。お前が入り込む隙間なんて、もう1ミリも残っていない」


彼はソフィアを見つめた。

そこには、かつてソフィアが愛した温かい眼差しはなかった。ただのガラス玉のような瞳が、虚空を映しているだけだった。


「お前を憎んでさえいない」


アレンは静かに告げた。


「憎むには、関心が必要だからな。俺にとってお前は、もう怒りを向ける対象ですらない。ただの、過ぎ去った季節の残骸だ」


憎まれていない。

それは、許されたということではない。

「存在を消された」ということだ。

愛の反対は無関心。その言葉の意味を、ソフィアは骨の髄まで理解させられた。

憎まれているなら、まだ繋がりがある。謝罪し、償い、時間をかければ解けるかもしれない。

だが、「無」はどうしようもない。ゼロに何を掛けてもゼロなのだ。


「あ……あぁ……」


ソフィアの口から、言葉にならない音が漏れた。

彼女の最後の希望、心の支えだった「アレンとの絆」が、幻であったことを突きつけられたのだ。

アレンは踵を返した。

その背中は、かつてソフィアを守るために大きく見えたものだったが、今は決して触れることのできない高い壁のように見えた。


「行け。ここはお前の居場所じゃない」


アレンは一度も振り返らず、雨の中を歩き去っていった。

村人たちも、それ以上ソフィアに石を投げることはなかった。

アレンの態度を見て、彼らもまた悟ったのだ。

この女には、石を投げる価値すらないのだと。

彼女はもう「村の裏切り者」ですらなく、ただの「哀れな部外者」に成り下がったのだと。


「さあ、さっさと出て行け!」

「二度と来るな!」


村人たちは汚いものを追い払うように手を振り、それぞれの家へと戻っていった。

広場には、ソフィアだけが取り残された。

雨は激しさを増し、彼女の体を打ち据える。

寒さで感覚がなくなっていく手足。けれど、心の底から湧き上がる寒気はそれ以上だった。


「アレン……ごめんなさい……ごめんなさい……」


泥水に顔を埋め、ソフィアは嗚咽した。

どれだけ泣いても、どれだけ悔やんでも、時間は戻らない。

失った信頼は戻らない。

殺した心は生き返らない。

「魅了」が解ければ全て元通りになると思っていた自分の浅ましさが、今はただ恨めしかった。

魔法が解けても、私が犯した罪の傷跡は、アレンの心に永遠に残るのだ。


ソフィアは震える体を引きずり、村の出口へと向かった。

どこへ行けばいいのか分からない。

生きる目的も、帰る場所も、愛してくれる人もいない。

世界はこんなにも広く、そしてこんなにも冷たい。

彼女の視界から、世界の色が完全に消え失せていた。

かつて「聖女」と呼ばれた少女は、灰色の雨の中に溶けるように、静かに村を後にした。

その背中を追いかける者は、誰一人としていなかった。


***


アレンは家の窓から、小さくなっていくソフィアの背中を見ていた。

カーテンの隙間から覗くその瞳は、やはり無感情だった。

胸が痛むこともない。涙が出ることもない。

ただ、作業の邪魔が入ったな、という程度の感想しかなかった。


「……終わったな」


彼は独りごちて、カーテンを閉めた。

部屋の中は薄暗く、静かだ。

暖炉の火がパチパチと音を立てている。

彼は椅子に座り、読みかけの本を開いた。

文字を目で追う。物語の世界へ没入する。

そこには、裏切りも、期待も、絶望もない。

ただ静寂だけがある。

アレンは深く息を吐き、ページをめくった。

外の雨音はまだ続いているが、彼の心の中は、深海のように静まり返っていた。

それが幸福なのか、不幸なのか。今の彼には、それを問うことさえ億劫だった。

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