第4話 英雄の失脚、解かれた呪縛
王都の夜は、あの日もまた狂騒に満ちていた。
王城の大広間「白亜の間」では、勇者ガイアスの功績を称える祝賀会が催されていた。隣国との国境紛争を、ガイアスは一滴の血も流さずに平定したという。敵国の将軍までもが彼に心酔し、剣を捨てて和睦を申し出たのだ。
人々はそれを「聖なるカリスマ」と呼び、神の愛し子である証拠だと囃し立てた。
「さあ、ソフィア。皆に挨拶を」
ガイアスが促す。豪奢なシャンデリアの下、私は仮面のように貼り付けた微笑みを浮かべて一歩前に出た。
身につけているのは、国一番の織り子が仕立てた真紅のドレス。首には重たいほどの宝石。かつて村で着ていた麻の服の感触など、もう思い出せもしない。
私の隣に立つガイアス様は、今日も太陽のように輝いている。彼こそが私の全て。彼のために生きることが私の喜び。
そう、思っていた。
あの一瞬までは。
「待たれよ!」
鋭い声が、楽団の演奏を切り裂いた。
大広間の重厚な扉が乱暴に開け放たれ、武装した王室近衛騎士団が雪崩れ込んでくる。その先頭に立っていたのは、宮廷筆頭魔導師である老賢者だった。
会場がざわめく。貴族たちが困惑し、グラスを置く音がカチャンカチャンと不揃いに響く。
「な、何の真似だ。無礼であろう!」
ガイアスが眉を吊り上げ、威圧的に声を荒らげる。その姿は堂々としており、誰もが近衛騎士団の乱心を疑った。しかし、老魔導師は怯むことなく、杖の切っ先をガイアスへと突きつけた。
「勇者ガイアス。貴様を国家反逆罪、並びに禁忌魔術使用の疑いで拘束する!」
「……は? 何を言っている。老いぼれて頭が狂ったか?」
「狂っているのは貴様だ。貴様が使っているその力、神聖なカリスマなどではない。古代遺跡から発掘された禁断の魔導具、『幻惑の紫水晶』による精神汚染だろう!」
幻惑の紫水晶。
その言葉が出た瞬間、ガイアスの表情が強張ったのを私は見た。いつも余裕に満ちていた彼の顔に、焦燥と狼狽が走る。
「証拠はあるのか! 私は国を救った英雄だぞ!」
「証拠ならここにある。貴様が先日の会談で『魅了』をかけた敵国の将軍が、魔力遮断結界の中で正気を取り戻し、全てを自白したのだ。貴様に意識を操られ、国を売るような真似をさせられたと慟哭していたぞ」
老魔導師が合図を送ると、騎士たちが包囲網を縮める。
ガイアスは舌打ちをし、私の方を振り返った。その瞳には、かつて私に向けられていた慈愛の色など微塵もなかった。あるのは、道具を見る冷徹な計算のみ。
「ソフィア! やれ! 聖女の力でこいつらを吹き飛ばせ!」
「え……? でも、ガイアス様、人は傷つけてはいけないと……」
「うるさい! 私の命令が聞けないのか! この役立たずが!」
罵声。
耳を疑った。あんなに優しかったガイアス様が、私を「役立たず」と呼んだ。
混乱する私の腕を、ガイアスが乱暴に掴む。その力が強すぎて、骨がきしむ音がした。彼は私を盾にするように引き寄せ、懐から怪しく光るペンダントを取り出した。
「誰も動くな! この女がどうなってもいいのか! それに、この水晶の出力を最大にすれば、ここにいる全員の脳を焼き切ることだってできるんだぞ!」
紫色の光が、禍々しく脈打ち始める。
会場の貴族たちが悲鳴を上げて逃げ惑う。私は恐怖で足がすくみ、声も出なかった。
これが、私の愛した英雄?
世界を救うと言った人の正体?
「愚か者が。魔導具に頼り切り、己の技を磨くことを怠ったツケだ」
老魔導師が冷ややかに告げると同時に、彼の杖から閃光が放たれた。
それはガイアスを狙ったものではなく、彼が掲げたペンダントを正確に撃ち抜いた。
パリーンッ!
甲高い破砕音が広間に響き渡る。
紫色の破片がキラキラと宙を舞い、床に散らばった。
その瞬間だった。
私の頭の中に立ち込めていた、甘く濃厚な霧が、突風に吹き飛ばされるように晴れていったのは。
「あ……?」
視界がぐらりと揺れる。
色彩が変わる。
黄金に輝いて見えたガイアスの姿が、薄汚れた欲にまみれた、ただの男に見える。
煌びやかだと思っていた舞踏会場が、虚飾に満ちた空虚な箱に見える。
そして何より、自分自身の心臓を鷲掴みにされるような、強烈な吐き気が込み上げてきた。
「おのれ……おのれぇぇぇ!!」
ガイアスが獣のような咆哮を上げて騎士に飛びかかろうとしたが、すぐに数人に取り押さえられ、床にねじ伏せられた。
白銀の甲冑が床に擦れ、無様に泥のような音を立てる。
かつての英雄は、今や猿ぐつわを噛まされ、みっともなくもがき苦しむ犯罪者でしかなかった。
「連れて行け。地下牢でたっぷりと尋問してやる」
騎士たちがガイアスを引きずっていく。彼は私の方を振り返り、目を見開いて何かを叫んでいたが、猿ぐつわのせいで「うー! うー!」という唸り声にしかなっていなかった。
その必死な形相は、あまりにも醜悪だった。
私はその場にへたり込んだ。
ドレスの裾が乱れるのも構わず、冷たい大理石の床に手をつく。
周囲の視線が変わっていくのを感じた。
羨望と称賛の眼差しが、一瞬にして軽蔑と憐憫、そして嫌悪へと変わる。
「あれが偽の聖女か」「騙されていたとはいえ、愚かな女だ」「勇者の情婦としていい気になっていた報いだ」
ひそひそ話が、無数の針となって私の鼓膜を刺した。
その夜、私は王城の一室に軟禁された。
粗末なベッドと机しかない、独房のような部屋だ。
窓の外には鉄格子が嵌められ、冷たい月明かりだけが差し込んでいる。
静寂が、何よりも恐ろしかった。
魔導具による洗脳が解けた反動で、体中が熱く、頭が割れるように痛む。けれど、肉体の苦痛など比にならないほどの地獄が、私の精神を襲い始めていた。
記憶の奔流。
堰を切ったように、この数ヶ月間の出来事が「正常な判断力」を持った私の脳裏に再生される。
まるで、他人が演じている芝居を強制的に見せられているようだった。けれど、その主役は紛れもなく私自身だった。
『あなたみたいな平凡で退屈な男と、泥にまみれて一生を終えるなんて御免よ』
自分の声が蘇る。
村の広場で、アレンに向かって放った言葉。
あのアレンに。幼い頃からずっと私を守ってくれた、誰よりも優しい彼に。
私は彼の手を払い除けた。彼の必死の呼びかけを嘲笑った。彼の愛を「ゴミ」だと断じた。
「……う、嘘……」
私は自分の口を手で覆った。
信じたくない。あんな酷いことを、私が言うはずがない。
でも、その感触は鮮明に残っている。彼の手を払った時の、拒絶の感触。彼が見せた、魂が砕け散ったような絶望の表情。
全部、私がやったことだ。
「魅了」されていたとはいえ、私の口が紡ぎ、私の手が実行したことなのだ。
『私の翼を鎖で繋ぎ止めていた、忌まわしい過去なの』
なんてことを。なんてことを言ってしまったの。
あの日々は私の宝物だったはずだ。アレンと過ごした木漏れ日の下での昼食、収穫祭で踊った夜、将来を誓い合ったあの日。
それら全てを、私は自分の足で踏みにじり、泥を塗りたくり、唾を吐きかけた。
「ああああっ!!」
叫ばずにはいられなかった。
胃の中身をすべて吐き出しても、胸の中に巣食う汚穢は消えなかった。
私は自分の髪を掻きむしり、床に頭を打ち付けた。
痛い。でも、アレンが受けた痛みはこんなものじゃなかったはずだ。
私は彼を殺したも同然だ。彼の心を、私の言葉という刃物で滅多刺しにしたのだ。
「ごめんなさい……ごめんなさい、アレン……ッ!」
誰もいない部屋で、謝罪の言葉を繰り返す。
涙が枯れるまで泣き続けても、罪悪感は増すばかりだった。
自分が身につけている真紅のドレスが、まるで返り血を浴びたように見えて、私は慌ててそれを脱ぎ捨てた。下着姿になり、薄い毛布にくるまって震える。
ガイアスの口づけを受けた手、抱かれた体。
その全てがおぞましく、皮膚を削ぎ落としてしまいたい衝動に駆られた。
翌朝、扉が開いた。
入ってきたのは、昨夜の老魔導師だった。
彼はやつれ果てた私を見下ろし、淡々とした口調で告げた。
「勇者ガイアスの処刑が決まった。貴様に関しては……情状酌量の余地ありと判断された」
「……え?」
「貴様もまた、あの男の被害者だ。魔導具による精神干渉は強力だった。王都の医師による診断でも、重度の洗脳状態にあったことが確認されている」
私は処罰されない。
その事実に、安堵よりも先に絶望を感じた。
罰してほしかった。極刑にしてほしかった。
そうすれば、この罪の意識から解放されるのに。
「ただし、聖女の称号は剥奪する。王都からの追放だ。二度とこの門をくぐることは許されん」
「……はい」
「荷物はまとめてある。さっさと出て行け」
老魔導師は冷たく言い捨て、部屋を出て行った。
私は部屋の隅に置かれていた、村を出た時に着ていた麻の服に着替えた。
数ヶ月ぶりに袖を通すその服は、ひどく懐かしく、そして今の私にはあまりにも不相応に感じられた。
城の裏門から放り出された時、空は厚い雲に覆われていた。
王都の市民たちは、昨夜の騒動を知ってか知らずか、いつも通りの生活を送っている。
私は人目を避けるように、路地裏を歩いた。
行くあてなど、一つしかなかった。
帰らなければ。
アレンの元へ。
罵倒されるかもしれない。石を投げられるかもしれない。
それでも、彼に会って謝らなければならない。
地面に額を擦り付けて、許しを乞わなければならない。
そして……心のどこかで、甘い期待を抱いている自分がいた。
(アレンなら……アレンなら、きっと分かってくれる)
彼は優しい人だ。私の事情を知れば、洗脳されていたことを知れば、きっと許してくれるはずだ。
「辛かったね」と言って、以前のように抱きしめてくれるかもしれない。
だって、私たちは幼馴染で、婚約者だったのだから。
あの絆は、魔法なんかで切れるような薄っぺらいものじゃないはずだ。
私は懐に残っていた僅かな小銭を確認した。
馬車に乗る金はない。歩いて帰るしかない。
村までは徒歩で一ヶ月はかかるだろう。冬の寒空の下、野宿をしながらの過酷な旅路だ。
それでも、足は自然と北へ向いていた。
償いのため? 違う。
私はただ、救われたいのだ。
アレンという、世界で唯一の、私の帰るべき場所に。
王都の門を出ると、冷たい風が吹き付けてきた。
私は薄いショールをかき合わせ、一歩を踏み出した。
その一歩が、さらなる地獄への入り口だとは知らずに。
旅は想像を絶する過酷さだった。
聖女として崇められていた頃の華やかな生活は、夢幻のように消え去った。
食べるものにも事欠き、雨水を啜り、硬い木の実を齧って飢えを凌いだ。
村々を通るたび、私は顔を隠した。
「偽の聖女」の手配書こそ回っていなかったが、噂は風よりも速く広がっていた。「勇者とグルになって王国を騙した稀代の悪女」として。
ある村では、正体がバレて水をかけられた。
ある宿場町では、男たちに絡まれ、必死で逃げ出した。
私の美しい髪は泥と油にまみれて固まり、白磁のようだった肌は荒れ果て、ひび割れた。
靴は底が抜け、足の裏は血豆だらけになった。
それでも、私は歩き続けた。
アレンの顔を思い浮かべることだけが、私を動かす燃料だった。
夜、寒さに震えながらうずくまっている時、私は妄想に耽った。
村に帰れば、アレンが待っている。
暖かいスープを用意して、「おかえり」と迎えてくれる。
私は泣きながら彼に謝り、彼は苦笑しながら頭を撫でてくれる。
「もう二度と離さないよ」
そう言ってくれるに違いない。
そうであってくれなければ、私は生きていけない。
「アレン……アレン……」
うわごとのように彼の名を呟きながら、私は雪の降り積もる街道を進んだ。
私の心は、まだ気づいていなかった。
私が壊したのは、ただの「約束」ではない。
人の心そのものを殺したのだという事実に。
そして、死んだ心は二度と蘇らないという残酷な真理に。
一ヶ月後。
見慣れた山並みが視界に入った時、私は涙を流した。
故郷だ。
あそこには、私の全てがある。
失った時間を取り戻すのだ。ここから、もう一度やり直すのだ。
ボロボロの体を引きずりながら、私は最後の力を振り絞って坂道を登った。
村の入り口が見えてくる。
懐かしい土の匂い。
ああ、アレン。今、帰るわ。
あなたのソフィアが、ようやく目を覚まして帰ってきたのよ。
村の入り口にある大きな木の下に、人影が見えた気がした。
アレンだろうか。私の帰りを予感して、待っていてくれたのだろうか。
期待に胸を高鳴らせ、私は泥だらけの顔に精一杯の笑顔を作った。
「アレン!」
かすれた声で叫ぶ。
しかし、その声は風にかき消され、誰の耳にも届かなかった。
私の前には、ただ冷たく閉ざされた「拒絶」という名の現実が待っていた。




