第20話「乱世の拳」
桶狭間の戦いから一夜が明けた。
雨に洗われた谷は血の匂いを残しつつも、澄んだ朝靄に包まれていた。
鳥の声が戻り、昨夜の死闘が夢だったかのように静けさが広がっている。
竜也は丘の上に立ち、拳を見つめていた。
血と泥で爪の間まで汚れたその拳。
昨日までただ喧嘩の道具に過ぎなかったそれが――今は違って見える。
「……この拳で、歴史が動いたのか」
呟きは靄に溶け、胸の奥が熱くなる。
喧嘩もタイマンも、これまでは自分の意地のため。だが昨夜は違った。
仲間を守り、信長を通し、天下の道を開いた。
拳が、乱世を変えたのだ。
◆
焚き火の跡に仲間たちが集まってきた。
新次郎はまだ肩に包帯を巻いたまま、だが笑顔を浮かべている。
「竜也殿、もう“ただの乱暴者”なんて誰も言いやしませんぜ」
「そうだ。俺たちも信じてる。竜也殿の拳で天下を獲れるってな」
仲間の一人が力強く頷き、拳を突き上げる。
竜也は苦笑し、後頭部を掻いた。
「拳で天下、なんざ大口叩いた覚えはねぇよ。ただ……」
拳を握り締め、真剣な目で仲間たちを見渡す。
「ただ俺は、もっとデケェ奴らとタイマン張りてぇ。それだけだ」
その言葉に仲間たちは笑い、拳を重ね合った。
◆
やがて、織田信長が姿を現した。
昨夜の戦勝報告を終えたのだろう、甲冑を脱ぎ、肩には薄布を羽織っている。
だがその眼差しは鋭さを失わず、燃えるような闘志が宿っていた。
「竜也」
呼ばれた名に振り向くと、信長は静かに告げた。
「乱世はまだ始まったばかりだ。義元を討ったとはいえ、今川の残党もいる。斎藤、浅井、武田……強敵は山ほど控えておる」
竜也はにやりと笑った。
「上等じゃねぇか。だったら、もっとデケェ舞台でタイマン張れるってことだろ」
信長は微笑を返し、近づいて拳を差し出した。
「この乱世、拳で切り開け。お前の拳は、ただの喧嘩では終わらぬ」
竜也は力強く拳をぶつけた。
音が朝靄に響き渡り、仲間たちも歓声を上げる。
◆
その夜、尾張に戻った織田軍は勝利の酒盛りに沸いた。
だが竜也は酒の輪から抜け出し、城の庭で一人、月を仰いでいた。
「……俺の拳、どこまで通じるんだろうな」
思い返すのは暴走族との抗争の日々。
「群れなんざダセェ」と叫んで、たった一人で敵に突っ込んだあの頃。
だが今は違う。信長がいる、仲間がいる。
“タイマン”の意味すら、自分の中で変わってきている。
――タイマンは、己一人のためじゃない。
背負った仲間や信念ごとぶつけ合い、勝ち取るもの。
竜也の拳が、そう教えてくれていた。
◆
翌朝、信長の号令で軍は再編を始めた。
兵も家臣も昨夜の勝利に酔いしれながらも、すでに次なる戦を見据えている。
その中で竜也は仲間を呼び集め、大声で叫んだ。
「よし! 次はもっとデケェ奴とタイマン張ってやる!」
その言葉に兵たちが振り返り、笑いと歓声が湧き上がる。
「竜也殿のタイマン、見届けようじゃねぇか!」
「次はどこの大名を拳でぶっ倒すんだ!」
笑い声と鬨の声が入り混じり、尾張の空に響いた。
竜也は拳を高く突き上げ、太陽を睨みつけた。
――拳が導く乱世は、まだ始まったばかりだ。




