1話:数字が来た夜
暖簾をくぐると、いつもの匂いがした。
出汁と酒と、少しだけ煙草の残り香。カウンターに七席、小上がりに二卓。それだけの空間が、梶にとっての全てだった。路地の奥に引っ込んだ場所にあるせいか、看板を出していなくても客は来る。来る客は決まっていた。初めて来た客が二度目に来ると、もう常連だった。梶はそういう店を三十年続けてきた。
今夜も仕込みをしながら、梶は何も考えていなかった。考えないことが、梶の仕事の流儀だった。手が動いていれば、余計なことは浮かんでこない。出汁を取り、つまみを仕込み、酒の在庫を確認する。その繰り返しが三十年続いていた。親父がここで始めた店を、梶が引き継いでからも同じことをしていた。変えなかったのは意地ではない。変える理由が見つからなかっただけだ。
常連が一人、また一人と入ってくる。
「大将、いつもの」
「あいよ」
言葉はそれだけで足りる。梶は黙って燗をつけ、カウンターに置く。客も黙って受け取り、一口飲む。それで十分だった。この店に来る人間は、賑やかな場所が欲しいわけではない。ただ、どこかに居たいだけだ。仕事が終わって、家に帰る前に、少しだけ一人でいたい。あるいは誰かと話したいわけでもないが、完全に一人でもいたくない。そういう気持ちの置き場として、赤ちょうちんは三十年機能してきた。梶はそれを知っていた。知っていて、それでいいと思っていた。
午後八時を過ぎた頃、見慣れない男が暖簾をくぐった。
スーツがよく似合っていた。三十代前半だろうか、顔の輪郭が鋭く、目に無駄がない。整った顔立ちだが、愛嬌がない。こういう目をした人間が赤ちょうちんに来ることは、まずない。この路地に迷い込んだのか、あるいは目的があって来たのか。梶には後者に見えた。
男はカウンターの端に座り、メニューも見ずに言った。
「ビールをください」
梶は黙って栓を抜いた。グラスと一緒に男に渡す。男はグラスにビールを注ぐと、一口、二口、飲み、あとは手をつけなかった。飲みに来たわけではない、ということが、それでわかった。
しばらくして、男が口を開いた。
「梶さん、ですね。店主の」
「そうだが」
「少しお時間をいただけますか」
梶は手を止めなかった。煮込みの鍋の火加減を確認しながら答える。「見ての通り、今は営業中だ」
「わかっています」男は鞄から書類を取り出し、カウンターに置いた。「簡単にご説明するだけです。五分もかかりません」
書類の一枚目に、この店の住所が記されていた。
「この一帯が、再開発エリアに指定されました」男の声は平坦だった。感情が乗っていないというより、感情を必要としていないように聞こえた。ニュースを読み上げるアナウンサーが、原稿に感情を持たないのと同じ種類の平坦さだった。「来年の春をめどに、周辺の区画整理が始まります。この建物も対象です」
梶は手を止めた。
「私は、AI外食コンサルタントをしています。鷹宮と申します」男は名刺を出した。「うちの会社では、再開発に伴う飲食店の事業継続支援を行っています。簡単に言えば、店舗の数字を見直して、新しい環境でも黒字化できる形に整えるお手伝いです」
「俺の店の数字を、見たことがあるのか」
「概算は把握しています」鷹宮は書類をめくった。「売上、原価率、回転率、客単価。この規模の店なら、だいたいの数字は推測できます。失礼ですが、現状では厳しい数字だと思います」
梶は何も言わなかった。
「三ヶ月あれば、黒字化の道筋は作れます」鷹宮は続けた。「ただ、そのためにはいくつかの見直しが必要になります。仕込みの時間、メニューの構成、人員の配置。数字を見れば、改善できる部分は明確に出てきます。感情ではなく、データで判断すれば、答えは出ます」
「改善、ね」
梶は言葉を繰り返した。改善。その言葉が、何かを切り取っているような気がした。何を切り取っているのかは、うまく言葉にできなかった。ただ、切り取られているという感覚だけがあった。
「もし三ヶ月で結果が出なければ、撤退をお勧めします」鷹宮の声は変わらなかった。「その場合は、買取の条件もご提示できます。悪い数字ではないと思いますよ。立地の価値は高いですから」
梶はしばらく黙っていた。鍋を再び確認した。火加減は問題なかった。それからゆっくりと、燗をつけた徳利を常連のいるカウンターに置いた。常連は、燗を猪口に注ぐ。いつも通りだった。手が動いていれば、余計なことは考えなくて済む。今夜もそうだった。
「今日のところは結構だ」
梶はそれだけ言った。
鷹宮は表情を変えずに立ち上がり、ビール代を置いた。釣りのいらない額だった。書類だけをカウンターに残し、「ご検討ください」と一言残して、暖簾をくぐって出ていった。
しばらく誰も口を開かなかった。
カウンターの端に座っていた常連客―真鍋―が、残された書類に手を伸ばした。真鍋は、IT関係の会社を経営している男で、酒の量だけは梶と張り合えるほど飲む。無口だが、頭の回転が速いことは、長年通ってきてわかっていた。真鍋はページをめくり、数字を眺め、グラフを確認し、それから静かに言った。
「これは、本気だ」
梶は何も答えなかった。ただ鍋の火加減を見ながら、今夜の残りの仕込みのことを考えていた。書類は鷹宮が置いていった場所に、そのままあった。
窓の外で、風が暖簾を揺らした。路地の向こうから、どこかの店の音楽が聞こえてきた。梶はそれを聞きながら、出汁の様子を確認した。今夜の出汁は、よく出ていた。




