表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
居場所を守れ~AI外食コンサルに潰されなかった居酒屋〜  作者: いわん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/10

1話:数字が来た夜

 暖簾をくぐると、いつもの匂いがした。

 出汁と酒と、少しだけ煙草の残り香。カウンターに七席、小上がりに二卓。それだけの空間が、梶にとっての全てだった。路地の奥に引っ込んだ場所にあるせいか、看板を出していなくても客は来る。来る客は決まっていた。初めて来た客が二度目に来ると、もう常連だった。梶はそういう店を三十年続けてきた。

 今夜も仕込みをしながら、梶は何も考えていなかった。考えないことが、梶の仕事の流儀だった。手が動いていれば、余計なことは浮かんでこない。出汁を取り、つまみを仕込み、酒の在庫を確認する。その繰り返しが三十年続いていた。親父がここで始めた店を、梶が引き継いでからも同じことをしていた。変えなかったのは意地ではない。変える理由が見つからなかっただけだ。

 常連が一人、また一人と入ってくる。

「大将、いつもの」

「あいよ」

 言葉はそれだけで足りる。梶は黙って燗をつけ、カウンターに置く。客も黙って受け取り、一口飲む。それで十分だった。この店に来る人間は、賑やかな場所が欲しいわけではない。ただ、どこかに居たいだけだ。仕事が終わって、家に帰る前に、少しだけ一人でいたい。あるいは誰かと話したいわけでもないが、完全に一人でもいたくない。そういう気持ちの置き場として、赤ちょうちんは三十年機能してきた。梶はそれを知っていた。知っていて、それでいいと思っていた。

 午後八時を過ぎた頃、見慣れない男が暖簾をくぐった。

 スーツがよく似合っていた。三十代前半だろうか、顔の輪郭が鋭く、目に無駄がない。整った顔立ちだが、愛嬌がない。こういう目をした人間が赤ちょうちんに来ることは、まずない。この路地に迷い込んだのか、あるいは目的があって来たのか。梶には後者に見えた。

 男はカウンターの端に座り、メニューも見ずに言った。

「ビールをください」

 梶は黙って栓を抜いた。グラスと一緒に男に渡す。男はグラスにビールを注ぐと、一口、二口、飲み、あとは手をつけなかった。飲みに来たわけではない、ということが、それでわかった。

 しばらくして、男が口を開いた。

「梶さん、ですね。店主の」

「そうだが」

「少しお時間をいただけますか」

 梶は手を止めなかった。煮込みの鍋の火加減を確認しながら答える。「見ての通り、今は営業中だ」

「わかっています」男は鞄から書類を取り出し、カウンターに置いた。「簡単にご説明するだけです。五分もかかりません」

 書類の一枚目に、この店の住所が記されていた。

「この一帯が、再開発エリアに指定されました」男の声は平坦だった。感情が乗っていないというより、感情を必要としていないように聞こえた。ニュースを読み上げるアナウンサーが、原稿に感情を持たないのと同じ種類の平坦さだった。「来年の春をめどに、周辺の区画整理が始まります。この建物も対象です」

 梶は手を止めた。

「私は、AI外食コンサルタントをしています。鷹宮と申します」男は名刺を出した。「うちの会社では、再開発に伴う飲食店の事業継続支援を行っています。簡単に言えば、店舗の数字を見直して、新しい環境でも黒字化できる形に整えるお手伝いです」

「俺の店の数字を、見たことがあるのか」

「概算は把握しています」鷹宮は書類をめくった。「売上、原価率、回転率、客単価。この規模の店なら、だいたいの数字は推測できます。失礼ですが、現状では厳しい数字だと思います」

 梶は何も言わなかった。

「三ヶ月あれば、黒字化の道筋は作れます」鷹宮は続けた。「ただ、そのためにはいくつかの見直しが必要になります。仕込みの時間、メニューの構成、人員の配置。数字を見れば、改善できる部分は明確に出てきます。感情ではなく、データで判断すれば、答えは出ます」

「改善、ね」

 梶は言葉を繰り返した。改善。その言葉が、何かを切り取っているような気がした。何を切り取っているのかは、うまく言葉にできなかった。ただ、切り取られているという感覚だけがあった。

「もし三ヶ月で結果が出なければ、撤退をお勧めします」鷹宮の声は変わらなかった。「その場合は、買取の条件もご提示できます。悪い数字ではないと思いますよ。立地の価値は高いですから」

 梶はしばらく黙っていた。鍋を再び確認した。火加減は問題なかった。それからゆっくりと、燗をつけた徳利を常連のいるカウンターに置いた。常連は、燗を猪口に注ぐ。いつも通りだった。手が動いていれば、余計なことは考えなくて済む。今夜もそうだった。

「今日のところは結構だ」

 梶はそれだけ言った。

 鷹宮は表情を変えずに立ち上がり、ビール代を置いた。釣りのいらない額だった。書類だけをカウンターに残し、「ご検討ください」と一言残して、暖簾をくぐって出ていった。

 しばらく誰も口を開かなかった。

 カウンターの端に座っていた常連客―真鍋―が、残された書類に手を伸ばした。真鍋は、IT関係の会社を経営している男で、酒の量だけは梶と張り合えるほど飲む。無口だが、頭の回転が速いことは、長年通ってきてわかっていた。真鍋はページをめくり、数字を眺め、グラフを確認し、それから静かに言った。

「これは、本気だ」

 梶は何も答えなかった。ただ鍋の火加減を見ながら、今夜の残りの仕込みのことを考えていた。書類は鷹宮が置いていった場所に、そのままあった。

 窓の外で、風が暖簾を揺らした。路地の向こうから、どこかの店の音楽が聞こえてきた。梶はそれを聞きながら、出汁の様子を確認した。今夜の出汁は、よく出ていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ