間話 星を数える
星の浮かばない夜。
私は蝋燭を手に持って、暗い廊下を歩いていた。
ここはアルタイル家の本邸──私の実家だった場所だ。
〝実家だった〟──私はもう、ここに住んではいない。
私は実家を出た。
両親の気味が悪いほどの賞賛が嫌で、逃げ出したのだ。
それなのに、私はここにいる。
廊下の先は暗闇に包まれている。
耳には弟の泣いている声が届く。
──行かなくては。
私はそう思い、廊下を進む。
この廊下の先に、弟の部屋がある。
暫く歩いていると、不意に扉が目の前に現れた。
私は驚かなかった。
こういうものだとすっと心が受け入れる。
少しだけ、扉が開いていた。
私はそっと、扉の隙間から部屋の中を覗き見た。
「うう……。ううう……」
弟の泣く声が大きくなる。
カーテンは閉め切られており、部屋の中は真っ暗だった。
暗闇の中、弟の姿を探す。
ベッドの上に毛布の塊があった。
その毛布の塊は僅かに震えて、声に合わせて動いている。
私の弟──ノヴァだ。
「痛い……。苦しい……。辛い……」
声変わりのしていない幼いノヴァの声が、毛布の中から聞こえる。
呼吸は浅く、鼻を鳴らして泣いている。
時折みじろぎながら、ノヴァは苦しそうに唸っている。
私はそれを扉の隙間から眺めていた。
なんと声をかけようか、考えるだけで、私の体は動かない。
そうしている内に、ノヴァの苦しそうな声がどんどんと大きくなる。
耳を塞いでしまいたかった。
逃げ出してしまいたかった。
「──お兄様、助けて」
ノヴァは私に手を伸ばす。
毛布の隙間から見えた弟の姿に、私はぎょっとした。
歯は抜け落ち、目は飛び出て、頭は凹んでいる。
──弟は見るも悍ましいゾンビになっていた。
□
ハッと私は飛び起きる。
辺りを見渡すと、そこは私の自宅の寝室だった。
アルタイル家の本邸ではない。
当たり前だ。
あの家はもうない。
私が潰したのだから。
「夢……」
今まで見ていたものは夢だった。
酷い悪夢だ。
私は泣いている弟に声すらかけられなかった──昔の私と同じように。
そして、ゾンビの姿になった弟に、私は何を思った?
「……クソ」
全身に汗をびっしょりとかいている。
汗で体が冷え、凍えそうになる。
私は額を伝う汗を拭い、ベッドから立ち上がった。
──ノヴァの顔を見たい。
□
足音を立てないように廊下を歩き、ノヴァの部屋まで来る。
顔を見るだけだ。
ノヴァを起こさないように、私はそっと、ノヴァの部屋の扉を開ける。
扉の隙間から、ベッドの上を見る。
そこにノヴァの姿はない。
驚いて、私は扉を勢いよく開けた。
「ノヴァ……?」
ノヴァは窓辺に腰掛けていた。
窓から空をぼんやりと見上げている。
いきなり部屋へと入ってきた私には目もくれない。
「眠れないのか」
私が問う。
ノヴァはゆっくりと首を動かした。
金色に輝く二つの瞳が私を見る。
「ゾンビは寝なくて良いんだよ」
ノヴァはへらへらと笑った。
「ゾンビは土の中で眠るのが好きなんでしょう?」
「あれは寝てる訳じゃねえ。土に包まれてると安心するんだよ。ほら……死体の本能って奴?」
「ならば、土を用意しますか」
「はっ。要らねえよ」
ノヴァは呆れたように笑い、再び空を見上げる。
「何を見ているんです?」
私が尋ねる。
ノヴァは直ぐには答えなかった。
聞こえなかったのだろうか。
それとも、答える気がないのだろうか。
「ノヴァ──」
「星を」
別の話題を振ろうと、私が声をかけたとき、ノヴァが答えた。
「星を数えてる」
「星を?」
「夜の方が見えるからな、オレの目」
ノヴァは自分の目を指差して、へらりと笑う。
満点の星空の星を数えるなんて、途方もない時間がかかる。
死体しかない【墓場の森】で、そうやって暇を潰してきたんだろう。
「イオリの世界はさあ、こんな風に、満点の星空はなかなか見れねえんだって」
「そうなんですか?」
「なんか、イオリの住んでる地域……〝トカイ〟? ──は夜でも明るくて、光の弱い星が見えにくいらしい」
「なるほど……」
「イオリの住む世界は、オレみたいな奴には住みにくいだろうなあ。夜でも明るいなんてさ。ゾンビに光は大敵だってのに」
ノヴァは膝に肘を乗せて、頬杖をつく。
「イオリの故郷に行ったら、どうやって時間潰せば良いんだろうな。ま、向こうの世界も、オレなんかに来て欲しくねえか」
私はノヴァに歩み寄る。
ノヴァの隣に来て、窓から同じ星空を見上げた。
「星」
「ん?」
「何処から何処まで数えたんです?」
「そこからそこまで」
ノヴァが星空を指差す。
私は首を傾げて、ノヴァを見る。
「何処から、何処までですって?」
「だから、そこからそこまでだって」
私は再び星空を見え上げる。
「……わかりません」
「はは。こういうのは感覚でいいの」
ノヴァは笑う。
その笑顔が妙に懐かしく感じた。
──知らないはずなのに、不思議な感覚だった。
私はノヴァから目を逸らし続けた。
ノヴァが死んだと聞いて、ゾンビになったと聞いて、初めて、ノヴァに目を向けた。
全てが遅過ぎた……。
──ノヴァと共に星を数えよう。全ての星を数え終えるまで。




