【4】
「んんっ……」
鼻をつく畳のいぐさの匂いで弥生はそっと目を開ける。床に直接寝た時のように身体中が痛くて重い。
「ここは……」
ゆっくりと身体を起こすと、弥生は薄暗い部屋に倒れていた。床が畳敷きなところからここはどこかの和室らしい。自分の身体を見回すと、トラックに轢かれたはずの身体は何も変わりがなかった。試しに掌を握って開いてみてもいつも通り動いた。
「夢、だったの……?」
トラックに轢かれたのは夢で、倒れた弥生を誰かがここに連れて来てくれたのだろうか。それにしても床にそのまま寝かされていた辺り、少々乱暴な気もするが……。
その時、視界の左端にほのかな緑色の発光が映った。部屋を見渡して光源を探していると、横長の机の上にガラス瓶が置かれているのに気付く。蓋がされた掌サイズのガラス瓶の中には緑色に光る球体が入っていたのだった。
「蛍かな。綺麗……」
そう呟いた時、球体は返事をするかのように光を強めた。それまでは何度も明滅していたが、弥生の言葉に反応してからはずっと光り続けていたのだった。
弥生は机に近づくと、球体が入ったガラス瓶を手に取る。球体の表面は風が吹いているのか緑色の煙が細く渦巻いていた。幾重にも煙が棚引く様子からまるで木星のようだと思ったのだった。
(でも形は昔読んだ本に出てきた幸せを運ぶ生き物に似ているかも。なんだっけ……ケセランなんとかって言う名前だったような……?)
そんなことを考えながら軽くガラス瓶を振った時だった。外から襖が開けられたかと思うと、人影が現れたのだった。
「そこにいるのは誰だ!? 泥棒か!?」
「きゃあ!?」
暗い部屋に急に光が射したことで眩しさに目を細めて、片手で顔を庇ってしまう。そんな弥生の姿に気付いたのか、人影が呟いたのだった。
「お前は……人間の霊か。どこから入ってきた?」
逆光になっているので男の顔は見えないが、声からして若い男のようだった。部屋に入ってきた男だったが、弥生が持っていたガラス瓶に気付くと足音を荒くして慌てた様子で近づいて来る。
「それをどうするつもりだ!? 早く返せ!」
男は声を荒げると、ガラス瓶を持つ弥生の腕を掴む。
「それって……このガラス瓶のことですか……?」
「そうだ! それを早く返せ、盗人がっ!!」
「泥棒じゃありません! とにかく返すので手を離して下さい……!」
弥生の手の中にあるガラス瓶を男が力強く引っ張った時、衝撃で手からガラス瓶が滑り落ちる。
間が悪いことにガラス瓶が落ちた先は先程の机の上であった。ガラス瓶は机に当たると、音を立てながら割れたのだった。
「何をするんだ!」
「す、すみません……」
男は弥生を一喝すると割れたガラス瓶の破片を集め始めたので、責任を感じた弥生も手伝おうと手を伸ばす。けれども邪険に払われてしまったのだった。
「コイツに触れるな! 部屋の隅にでも居ろ」
余程緑色の球体が大切なのか、男は弥生を追い払うとガラス瓶の破片を掻き分ける。手を切りながらも大きなガラス片を避けると、中から先程の球体が出て来たのであった。
「良かった。無事だったか……」
男は安堵の息を吐きながら両掌で掬うように球体を拾う。球体は緑色の光を煌めかせながら室内に浮かび上がったかと思うと、鳥籠から飛び出した鳥のように室内を飛び回り始めたのだった。
男に言われた通りに部屋の隅で様子を見ていた弥生だったがハッとして気付く。
(い、今の内に……)
ここがどこかは知らないが、泥棒呼ばわりしたこの男と居ても何もメリットは無い。それなら男が目を離した隙にここから出た方がいい。
弥生は襖の位置を確認すると、足音に気を付けながら畳を滑るように動く。
あと少しで襖の引手に手が触れるというところで、今まで天井を旋回していた緑色の球体が向きを変えた。
「どうした?」
戸惑うような男の声を聞いて弥生が振り返った時、球体は弥生に向かって真っ直ぐに飛んできたのであった。
「きゃあ!」
「おいっ!?」
男が手を伸ばして球体を捕まえようとするが、わずかに球体の方が速かった。弥生は腕を大きく振って追い払おうとするが、球体はその隙間をするりと抜けてしまう。
弥生の眼前に迫った球体だったが、煙で覆われた表面に男の顔が映ったような気がした。
(今の人、どこかで……)
男の顔に目を奪われていると、耳の奥から声が響いてくる。
――やっと、会えたね……。
トラックに轢かれた際に聞いた声と似ていると思った時、球体から部屋中を満たすような鮮やかな緑色の光が放たれる。
「きゃあ!?」
「くっ!?」
光に目を焼かれそうになったのか、弥生だけではなく男も目を庇う。
その間に球体は弥生の胸の中に吸い込まれるように入ると、そのまま消えたのであった。
球体に次いで緑の光が消えた直後、弥生の心臓が激しく脈打ち出す。
激しい運動をした直後のように音を立て始めた胸を押さえていると、弥生の身体に変化が起こり始めたのだった。
「あっ……」
体温が急上昇してマグマのように身体の内側で煮えたぎる。
体調を崩して発熱した時とは比べものにならない高熱と身体中の関節の痛みに、弥生はその場に膝を突くと疼くまってしまう。
「おい、しっかりしろ!」
男に両肩を掴まれて声を掛けられるが、弥生は声を発するどころか指一本動かすことさえ出来なかった。ただ額から脂汗を流し、苦悶の表情を浮かべながら痛みに耐えるだけで精一杯であった。
「ぐうぅっ……」
やがて高熱と激痛が絶頂に達すると、弥生の中で何かがぶつりと切れる音が聞こえてくる。
その直後に身体からするりと力が抜けていくと、声を出せぬままその場で気絶したのであった。
※
どこまでも真っ暗な世界が広がる夢の中で、弥生は誰かの膝の上で眠っていた。
時折冷たい手が弥生の頭や髪を愛撫し、熱を発する身体に氷のような冷たさが染み入る。それが心地良くて身を委ねていると、やがて額に唇の感触を感じて、そっと目を開ける。
周囲の暗闇に紛れて相手の顔ははっきりと見えなかったが、口付けてきたのは膝枕の主だった。
薄っすらと見えるシルエットから膝枕の主は男のようだったが、膝枕をしてくれるような相手に心当たりは無かった。
誰なのか尋ねようと弥生が口を開いた時、先に声が聞こえてきた。
『……を頼んだ』
球体を見つめた時に耳の奥から聞こえてきたのと同じ若い男の声が頭上から聞こえてくる。どうやら弥生を膝枕しているのは、あの時の若い男らしい。
口が渇いて舌が回らないが、どうにか言葉を発する。
「もう一度、言って?」
『おれの代わりにアイツのことを頼んだよ。やよちゃん』
「アイツ……?」
弥生が尋ねた瞬間、二人を中心に突風が吹き荒ぶ。身体に滞留していた熱が徐々に引いていき、夏の日のお風呂上りに冷風に当たった時と同じような快感を覚える。心なしか、身体も軽くなったような気がしたのだった。
『おやすみ……』
その言葉を最後に弥生は夢現の中で微睡むと、再び目を閉じたのだった――。
※




