約束
――僕は汚れたものが好きだった。
物を汚すことが好きだった。
泥に塗れた服、落書きまみれのノート。
例を上げればきりがない。
汚れたものを見るのが好きだった。
ぼろぼろで水にふやけた新聞紙、スプレーで落書きされた壁。崩れそうな家。サビまみれで動くのかわからない機械。そもそも元の姿すらわからないもの。
僕のこの趣味は、物だけでは止まらなかった。
人だってその対象になっていった。
僕の両親はよく喧嘩していた。
お互いに罵り、時には暴力をふるいあっていた。
それを見るのがとても楽しかった。
人が汚し合うのがとても見てて楽しかった。
それだけで済んでいれば。僕はここにはいなかったのかもしれない。
でもそれは後悔するようなことじゃない。
僕のこの趣味が更にこじれたのは忘れるはずのないと思っていた二つの出来事だ。
一つは子供の頃の話だ。親戚の葬儀に親と一緒に参加した時の話だ。
その人にあまりいい思い出がなかった。
酒癖が悪くて、みんなに嫌われていた。汚い人だった。
でも遠目であの人を見てる範囲ではとても楽しかった。
そんなろくでもない人が不幸にも事故で死んで、色々あったけれど葬儀が行われた。
この揉め事も何も知らないと思ってる大人たちが子供のまえで押し付けあっているのを見ていた。
通夜の時、母が、父が。みんなが死んだあの人のことを罵っていた。
「酒癖が」「金遣いが」「よく暴力を振るってくる」「最低の人」
聞いているだけでゾクゾクしていた。
人って自分が知ってる死んだ人間にさえ唾をかけれるんだと。
死んでも人は殺せるんだ。その人のことをゴミのように貶めることが許されるんだと。
そして、もう一つは。
山名凜花。――凜花さん。
僕が最初に愛した人。僕が最初に関係を持った人。僕が初めて殺した人。僕が初めて汚した人。
彼女と最初にあったのは高校一年のときだった。
彼女の最初の印象は決して良くないものだった。
――不気味で得体のしれないもの。
それが凜花さんに抱いたものだった。
それまで僕はそんな人間に出会ったことがなかった。
みんなどんな人間かだいたい見通せた。推測できた。その評価は大体あっていた。
でも、凜花さんは別だった。
凛花さんはそういう領域に存在しない生き物だった。
僕らが二次元に生きる存在だったら、彼女は三次元の生き物だった。
そんな印象だった。
僕でさえそう思う人に、他の人間が彼女のことを理解できるはずがなかった。
みんなが彼女から遠ざかった。それで賢明だったと思う。僕だってそうしていたから。
でもその離れていた関係はちょっとしたことで壊れた。
放課後の教室で僕は宿題を解いていた。
家で勉強したくなかった。だって親を見てるほうが楽しかったから進まないのだ。
でも勉強ができなかったら、その矛先は僕に向く。それはあまり楽しくなかった。
だから放課後によく残ってた。
「ねぇ? そこわからないの?」
女の子の声にびっくりした。そこには彼女がいた。いつ寄ってきていたのか。そもそも何故今残っているのか。何もわからなかった。
「あの先生教え方が下手なんだよね。こうするとわかりやすいよ?」
彼女の言う通りにすると、ずっと悩んでた問題があっさりと解けた。
正面から見てたらずっとわからなかったものが横からみたら大したことのないようなそんなあまりにも単純なロジックだった。
それが凜花さんとの初めての会話だった。
それから彼女との距離が縮まっていった。
でも彼女への評価は変わらなかった。
得体のしれないもの。自分より高次の領域に存在するものだった。
彼女の言い方は独特でよくわからないことがよくあった。
でもわからないことがあっても彼女と話すことは面白かった。
わからないのが面白かった。
彼女との関係は、クラスメイトから、知人へ、友人へ、そして男女の仲まで進んでいった。
そんな中で僕は彼女に初めて自分のこの悪趣味を教えた。
彼女は笑顔を浮かべたまま、素敵な趣味だと思うよと言ってくれた。
彼女は一方で自分の父親が政治家の河本清太郎だと教えてくれた。
秘密を教えてくれたからそのお返しだと。
僕を理解してくれる初めての人間だった。
だからこそ僕は彼女に魅入られていたのかもしれない。好きという感情が正しいのかは今でもわからない。
彼女との会話を楽しむ一方で、彼女へのいじめが徐々に過激になり始めてきていた。
みんな無視し続けれていればよかったのにと思った。みんながそれなりに上手くやれている中で異質で異様なはみ出しものが許せなかったのだろう。
もしくは彼女が僕のように他の人間たちに合わせられたらこんな事も起きなかったのだろう。
僕はそれをずっと眺めていた。
彼女という存在がいじめられるのに、嬲られるのに興奮していた。
山名凜花という孤高の天才が、何もわかっていないのに協調性だけの凡人たちに汚されるのを見ているだけでたまらなかった。
止めれたかもしれない。でも僕は止めなかった。こんなに楽しいものを自分から止めたくはなかったから。
ある日の夕方のことだった。
彼女から提案を受けた。いつもの何を考えているかはわからないが、楽しそうな声の調子だった。
「ねぇ、こーちゃん。実験に付き合ってほしいの」
彼女は僕のことを【こーちゃん】とよんでいた。
「なんだい? 僕で良ければ手伝うよ。凛花さん」
「凜でいいって言ってるのに。こーちゃんは治らないなぁ」
と笑顔を浮かべながら彼女はその続きを口にする。
「死者は生者を殺せるのか?」
彼女の言うことはわからないことがよくある。
今回もそういうたぐいだと思った。
こういうときに僕はいつも同じ方法を使っていた。
「ごめん、何を言ってるかわからないよ」
「はー……。うん、わかりやすく言うね。こーちゃん。私を殺して」
確かにさっきよりはとてもシンプルになったとは思う。でもやっぱりわからなかった。
何で僕が彼女を殺さないといけないんだ? と。
彼女が何をいいたいのかが全くわからなかった。
「凛花さん、……自分が何を言ってるのかわかってる?」
「もちろんよ。こーちゃん、もしかして私がいじめられているのを気にしていないと思ってたりする?」
少し考えてから僕は頷いた。
彼女からすれば虫がたかってきているぐらいのものだと思っていたからだ。気持ち悪いかもしれないが、それほど大したことじゃないと思っていた。
いじめられても彼女はそれほど大きな反応をしてこなかったからだ。
「そんなことないよ、とても苦しいし。辛いの。あいつらに仕返ししたい。だから死ぬの」
「凛花さん、やけにならないで。……警察に言うとか手はあるよ」
「そんなの無駄よ。どうせ、軽く指導を受けるぐらいで終わるわ。そんなんじゃ駄目なの。このつらい気持ちをあいつらにも体験させたいの。いじめられる感覚をあいつらに教えてあげたいの。こういうのってね、誰かが死なないと大事にならないの。そこまで行かないと誰もことの深刻さを理解しないの」
先生が役に立たないのは僕も知ってた。あいつは知った上で自己保身のために無視してる。
校長も似たようなレベルの人間でそれほど役に立たないと判断していた。
でもそれより上の人たちなら? と思って提案した僕の案は却下される。
どうやら彼女が死ぬことは簡単に覆せないらしいと言うことはわかる。
それほどまでに彼女の決意は固いらしい。
「僕は人殺しになんてなりたくないよ。凛花さん、そこまで死にたいっていうのであれば一人で死んでよ。僕を巻き込まないで」
「冷たいこと言うのね、こーちゃん。今までこんなに仲良くしてきたのに。それにこーちゃん。私は知っているの。あなたは私がいじめられているのを見てるのが楽しかったんだよね。そんな私と話すのはどう? 楽しかった?」
楽しかった。
そう言いたかった。でも言葉が出てこなかった。
「あなたもあいつらと同類。ううん、もっと悪質だよね。知ってた上でそれを見てるのが楽しいなんてとても素晴らしい趣味を持ってるんだもんね。でもね、私はもっと君が楽しくなれることを知ってるの」
彼女の唇の端が釣り上がる。聞いてはいけないと思いつつもその言葉の先を聞かずにはいられなかった。
「多分だけれど君にとってね。人を物にするのって。今までのどんな行動より最高に気持ちいいと思うよ?」
そうして彼女は僕の口をふさいだ。
「――それじゃお願いね」
全てが終わった後、彼女は僕に実験という名の計画を打ち明けた。
それはあまりにも壮大で、本当にそうなるのか、僕には半信半疑だった。
でも彼女はそう信じていた。信じ切っていた。
「……少し暴れたり、……汚すかもしれないけれど。後はお願いね」
彼女はゴミ袋を頭にかぶった。
そして床に倒れる。
後は僕がやるだけだった。
スカートを更に上からかぶせて、彼女の口と鼻に当たる部分を手で抑える。
そうしながら、彼女の首にゆっくりと反対の手を当てる。
ゆっくりとゆっくりと締め上げていく。
そもそも人の首を絞めるなんて経験をしたことはない、体が震えた。
彼女の手足もジタバタし始める。
でも最後まで、やらないといけない。
それが約束だったから。
クラスメイトとして、友達として、彼女としての。
彼女との約束だったから。
どれだけそうしていたのかはわからない。
彼女がピクリとも動かなくなってもずっとそうしていた。
そしてスカートとゴミ袋を外した。
ゾクリと心が震えた。
舌を出し、右目が異様な方向に向いていた。反対の左目だけが僕を見ているように見えた。
息はしていなかった。言うまでもなく心臓も動いていなかった。
目や鼻から赤い変な液体が出ていた。
ようやく僕は凛花さんを殺したんだとそこで実感が湧いてきた。
そこで思ったのは罪悪感でも恐怖でもない別の感情だった。
ここに転がっているのは、山名凜花という生き物だったものだ。あれほど知的でかわゆくて、素敵で時として何を考えているのかわからない彼女はもういない。今転がっているそれはただの肉の塊だ。
屠殺された家畜と変わらない。食用にならないことを考えればそれより価値がないものだ。
人を物にする瞬間がこんなに心を震わせるなんて思わなかった。
「ああ、そうか……そういうことか」
人を物にする瞬間。つまり殺す瞬間。それは人を最も汚く汚す瞬間なんだと僕が気づいたのはこのときだった。
興奮で叫びたくて仕方なかった。
もっと彼女を汚したいと思った。
でもそれはできなかった。
誰かが来る前に彼女との約束を済まさなければならなかったから。
教室の掃除を済ませて、僕は最後に凜花さんだったものを窓から投げ捨てた。
家に帰った後も興奮が収まらなかった。
自分が凛花さんを殺したことで警察に捕まる可能性を考慮しなかったと言えば嘘になるが、些細なことだった。
これで自分の人生が終わってもいいと思うぐらいには最高の気分だったのだから。
だが、そうはならなかった。
彼女が言う通りに物事は進行した。
凛花さんが死んだ次の日とその次の日は警察が僕を含めクラスメイトに聞き込みをしてきていたが、そこまでだった。
それ以降彼らは現れることがなく時が過ぎ、後に山名凜花の死は事故であったと、先生から聞かされた。
彼女の言う通りだった。
彼女は本当にただの人間ではなかったのかもしれない。
彼女は殺害を拒む僕にこう告げていたからだ。
「こーちゃん大丈夫だよ。君が私を殺しても君は捕まらないから。そうだなぁ……自殺扱い、いや事故で処理されると思うよ。だから心配いらないよ」
だけれど、凛花さんの死を事故と言われてもみんな信じていなかった。
その光景を教室の一番後ろから見ているのはとても楽しかった。
凜花さんの影がみんなに取り付いているように見えた。死んだはずの凛花さんがみんなを汚していた。
一方的に汚されるだけのはずの死者が逆に生者を汚していた。
それは僕が今まで見たことのない興味深い光景だった。
僕が学校を卒業するまでに当時のクラスメイトの内、三人が転校していった。
その三人のうち一人が自殺したところまでは知っている。
そう彼女の実験である「死者は生者を殺せるのか?」は見事に成功したのだ。
それを彼女が知ることはなかったわけだけれど。
そしてときは僕が社会人の頃、正しくいえば僕が連続殺人を始める頃へと進むことになる。
どうして僕が人を再び殺し始めたのか。
それは人を犯し殺す感覚を忘れられなかったからではない。むしろ、逆だ。
――忘れ始めたからだ。
もちろん凛花さんを殺したことを忘れたわけではない。
細部において記憶が薄れ、全く関係のない記憶と混ざり始めていたのに気づいたのだ。
怖かった。
あのときのことをすべてを忘れることは流石にありえないだろう。でも細かいところは自分の都合のように書き換えていく。それが怖かった。
忘れないために僕が行動を開始した。
それもまた彼女との約束であったから。
彼女との約束。
それは僕がもし彼女を殺したことを忘れ始めた時に与えられる僕への罰だ。
死ぬまで絶対に忘れないと思っていたにもかかわらず忘れつつある僕への罰だ。
僕への罰。そして彼女との約束。
それは僕が皆に蔑まされるような醜悪な人間になること。
その原因、発端は山名凜花の死であり、その死はクラスメイトのいじめによるものだと告げること。
方法は任されていた。別に守らなくてもいいと言われていた。どうせ自分は死ぬのだからそれを確かめる方法はないのだと。
だからこそ約束は守らねばならなかった。
彼女のその期待を裏切らないために。
その上で僕は凛花さんにできなかったことを殺した人たちに実行した。
殺した後も弄ぶことにより汚した。これは当時凜花さんにはできなかったことだった。
更にその姿を記録に収め、更にネットに流すことで更に死んだ人間を汚すことを思いついた。
これは親戚の葬儀の時の出来事から思いついた僕なりの発想だった。
僕は自分の悪趣味を満たしつつ、誰からも蔑まされるような大量強姦殺人鬼へと変貌していった。
僕の行為はどんどんエスカレートしていった。それはもう自分では止められなかった。
どんどん過激なものを投稿し、更には生放送で僕の行為を晒した。
僕を叩く人間は後を絶たなかったが一方で被害者を蔑む声が存在し見れることに興奮した。
心地よかった。自分が汚れることが気持ちよかった。
そしてみんなが汚れていくのを見るのがこれほど楽しいなんて思わなかった。
肉体的に血と涙と汗などの他人の体液で汚れ、人を次々に殺すことで倫理観が腐っていった。今にも溢れかえりそうなぐちゃぐちゃの欲望などで汚れた僕の存在を皆が触れるたびに同じように汚れていくのを見るのがたまらなかった。
そして僕は逮捕された。
頃合いだった。後は警察が凜花さんの件まで掘り返してくれるのを待つだけだった。
だが現実はそううまく行かなかった。
僕は凜花さんほどの天才ではなかった。わかってはいたけれどここで失敗するとは思わなかった。
警察も検察も、誰も山名凜花の名前にさえ触れないなんて夢にも思わなかった。
実際立件されていた事件だけでも僕を死刑にするには十分ではあったのだからわざわざ触れる必要がなかったのは否定しない。
でも、有能な彼らならば突き止めてくれると思ってた。
ここで僕はようやく凛花さんの父である河本清太郎のことを思い出していた。
そうだ、彼ならば隠蔽を図ることができたに違いないと。
そして最初の凛花さんの殺人が公にならなかった理由もこれだと確信した。
そうなれば、なおのこと自分から凛花さんのことをバラすわけにはいなかった。そうすれば自分が何かを企んでいると思われる可能性があったからだ。
そうなれば河本清太郎に計画を潰される可能性があった。
仕方なく僕は別の手段を取ることにした。
僕にとって都合の良い代弁者を用意し、その人物に僕についての謎解きをしてもらい、僕が作り上げた真相を世間に告発してもらうという方法だった。
そして僕は一つの質問を思いついた。
「僕は何人殺しましたか?」という質問だ。
実のところ、この質問には意味はない。
答えは何人でもよかった。
大事なのはその後だ。
「あなたがそう思う根拠を教えてください」と聞くことで、僕は僕の言うことを程よく信じ、且つ僕が他にも誰かを殺していると疑ってくれる人を探していたのだ。
十数人以上もの審査の末の上、選ばれたのが遠坂正樹さんだった。
高校の先輩だったのも実に都合が良かった。
僕は彼のことを覚えていたからだ。
いわゆる陰謀論者のカテゴリーの人間で、自分が不都合なことを受けるのは誰かのせいと思う人間で、そのくせ人の上前をかすめるのが得意。
それがこの陰謀がうごめく世界において生きていくための処世術と勝手に思っている。一方で情に弱い。
そして大人になっても彼の本質は変わっていなかった。そんな彼の答えは僕を満足させるものだった。
僕が彼に伝えたことで失敗したは主に二つ。
一つは凛花さんの殺害に関して、僕は思わず彼の言葉にいら立ちを感じてしまったこと。
僕が彼女を殺したのは事実なのに。それを突き止めてほしいと思っていたはずのに。遠坂さんに実際にそれを言われ指摘されたとき、一瞬だけあいつを殺したいと思った。
お前が気軽に凛花さんのことをしゃべるんじゃないと。
彼女が死を選んだ日が彼女の誕生日だという僕が知らなかった事実に彼がたどり着いていたことにどうしても耐えられなかった。
そして最大のミス。
それは河本清太郎を巻き込んでしまったことだろう。
彼女の計画に父親である彼のことは含まれていなかった。あくまで彼女が告げていた復讐の相手はクラスメイトと当時の担任たちを含む学校の関係者までだった。
でもそれは僕として許せなかった。
自分の娘の死を誤魔化して、のうのうと生き、成功者として生きるあいつが許せなかった。
河本清太郎が失脚したのを知って僕が自分と凛花さんの計画――復讐が成功したのだと思った。
火はついた。後はその火がみんなを焼き殺していくのを遠い場所からのんびりと眺めているだけで良かった。
だからこそ僕は上告しなかったのだ。
だが計画は失敗に終わった。
今朝の新聞記事を読んでそのことを知った。
天才である凛花さんの親はやはり天才だった。自分に及ばない相手だったのだ。
彼と遠坂さんが手を組むとは思ってもいなかった。
恐らく近寄ったのは遠坂さんでは無く河本の方からだろう。
それでも、遠坂さんは自己責任に耐えられず、都合の良い言い訳を考えて逃げると思っていた。
僕はどうやら河本だけでは無く、遠坂さんの評価も誤っていたようだった。
凜花さんの実験、計画は完璧だったはずだった。
事実として過去には彼女がいった通りに死者は生者を殺したのだ。
だが自分がアレンジ――余計なことをした結果がこれだ。
もし自分が河本清太郎を巻き込んでいなければ。
遠坂正樹さんに凜花さんへのいじめの件だけ話していれば。
山名凜花と言う名の死者は再び生者を殺していたに違いない。復讐を成し遂げていたに違いない。しかも今度はより大きな被害を生んでいたはずだ。
僕はこの狭い部屋に置かれた机に向かって座る。
そして一枚の紙に名前を書いていく。
「……香織さん。君の死を無駄にしちゃった」
香織さんは僕が最後に殺した女性の名前だ。
確か二四歳のOLだったはずだ。警察に追われていた僕はろくに下調べもできないまま無理やり彼女を捕らえて殺害した。ろくに面識すらなく、実に短絡的な行動だったと思う。
彼女の殺害、そしてその後の行動をしている時僕は警察に逮捕された。
彼女は僕にとって不完全な汚し方をしてしまった相手だった。
そのまま過去に遡っていくように名前を書いていく。
それは僕が殺した人達の名前。
彼女と僕の計画に利用した人間の名前。いや実験に失敗した以上、これらは僕が楽しむために使った人間たちの名前だ。
そして最後に、山名凜花と名前を書いた。そこで僕の手が止まる。
「……ああ、思い出した」
そこで僕はようやく最も大事なことを思い出した。
今まで忘れていたこと。それは実のところあまりにも辛くて忘れようとしていて、そして今の今まで本当に忘れていたことだった。
ようやく取り戻したのだ。それは彼女との記憶の最後の一欠片。ついになんとしてでも元に戻したいと思っていた記憶が全て形になる。
彼女の名前の横に一本横線を引く。仕方がなかった。そうするしかなかった。
だってそれには名前がなかったから。
「ごめん、凜花さん。君が僕に頼んだ実験さ……失敗しちゃったよ。やっぱり僕は君には遠く及ばないね……。本当にごめん……。でもようやく全部わかったんだ……。これは僕へのプレゼントだったんだね……」
僕はいつの間にやら上を向いていた。気がつくと頬から生温かい液体が僕の頬を伝っていく。僕は知らないうちに涙を流していた。
実際にそこに見えるのは死刑囚が収容される部屋のただの低い天井しかなかったが、僕には関係なかった。
もっと上には彼女たちがいる気がした。自分には届かない場所に彼女たちはいる。きっと死んでも僕はそこへ行くことは出来ないのだろう。
「僕は何人殺しましたか?」
繰り返すが、この質問には意味はない。
でも、もし僕が僕自身にこの質問をしたとするならば。
今の僕ならばこう答えるだろう。
「僕は全部で十四人殺しました」と。