第9話「四文字の名前」
逃げるなら今だ。誰にも迷惑をかけずに消えるなら、今しかない。
宿舎の部屋で、私は荷物を見つめていた。机の上の書箱。オスカーがくれた本。少しずつ増えた私物。これを全部まとめれば、来たときと同じ小さな荷物に戻る。
照会文書の朗読から数日が経っていた。あれ以来、私はオスカーと顔を合わせていなかった。書庫での作業は続けていたが、館長室には近づかなかった。オスカーも書庫に来なかった。
マルタだけが変わらなかった。朝、書庫で顔を合わせれば「おはよう」と言い、昼の鐘が鳴れば「飯」と一言だけ言って食堂に向かった。何も聞かなかった。何も聞かない代わりに、いつもと同じ距離にいた。
その朝、フーゴが図書館に来た。
書庫で資料の整理をしていた私のところに、マルタが来た。
「リゼット、館長室。フーゴが来てる」
マルタの声はいつも通りだった。けれど目が、少しだけ硬かった。
館長室に入ると、オスカーが机の向こう側にいた。数日ぶりに見るその顔は、以前より少し痩せたように見えた。目が合った。合って、逸れた。
フーゴが封書を手に持っていた。
「レストルから弁明書が届きました。クレールヴォー伯爵の弁明書です」
フーゴは封を切り、文書を広げた。外交書記官の正式な口調で読み上げる。
「クレールヴォー伯爵家の弁明書。本件の代役は、次女リゼット・クレールヴォーが独断で行ったものである。家長および嫡女セリーヌ・クレールヴォーは本件に一切関知していない。保証書への捺印は、家長が次女に見合いへの出席を許可する通常の手続きとして行ったものであり、代役を承認する意図はなかった——」
文字が頭に入ってこなかった。いや、入ってきた。入ってきたから、体が動かなくなった。
リゼットが独断で行った。家は関知していない。
父が私の名前を使って、自分と姉を守ろうとしている。保証書の印は「通常の手続き」だったと主張している。あの赤黒い印。十六枚の保証書に押されたあの印を、「代役の承認ではなかった」と。
フーゴが文書を読み終えた。紙を机の上に置いた。
「以上が弁明書の全文です」
静けさが落ちた。
「……全部、私のせいだと」
声が出た。自分の声だった。
「お父様は、全部私がやったことにして——」
椅子の肘掛けを握りしめた。指の関節が白くなった。
逃げるなら今だ。この弁明書を黙って受け入れれば、父と姉は助かる。私が「はい、独断でした」と認めれば、それで収まる。家名は守られる。姉の縁談は——いや、報告書が出た以上、事実認定は済んでいる。けれど弁明書が通れば、処分は軽くなるかもしれない。
それは、十五回の代役と同じ構造だった。私が黙って被れば、家は回る。私の名前が消えれば、家は穏やかに元に戻る。
書庫の扉が開いた。マルタが顔を出した。呼ばれていないのに来たのは、廊下で聞いていたからだろう。
「リゼット」
マルタは私の顔を見た。それから弁明書に目を落とし、フーゴを見て、オスカーを見て、もう一度私を見た。
「あんたはもう十分逃げてきたよ。今度は残ったらどうだい」
短い言葉だった。マルタらしい、飾りのない言葉だった。
残る。
残るとは、何をすることだろう。黙って被らないということだ。父の弁明書を受け入れないということだ。それは——
私は立ち上がった。
「少し待ってください」
館長室を出て、宿舎に走った。部屋の扉を開け、机に向かった。書箱を手に取った。蓋を開けた。母の形見のブローチの下に、何通かの手紙が重なっている。
その中から一通を取り出した。
セリーヌの筆跡だった。柔らかく丸い字。便箋に薄い花の香りが残っている。
「リゼットへ。明後日の見合い、お願いできる? あなたならうまくやれるでしょう? ありがとう、助かるわ。セリーヌ」
代役を依頼する手紙。姉が私に宛てた、直筆の手紙。日付も入っている。
これを出せば、「リゼットの独断」という父の主張は崩れる。姉が依頼していた証拠であり、家長が保証書に印を押していた事実と合わせれば、代役が家ぐるみの行為だったことが証明される。
今まで、この手紙を武器として使う発想はなかった。姉との思い出の一部だった。「リゼットならできるでしょう?」という言葉は、信頼だと思い込もうとしていた。信頼ではなかったと気づいた後も、手紙を捨てられなかった。
今、この手紙は私を守る唯一の証拠だった。
書箱を閉じた。手紙を持って宿舎を出た。
館長室に戻ると、三人がそのまま待っていた。
私はフーゴの前に立ち、手紙を差し出した。
「ブランケンブルク様。これが証拠です」
フーゴは手紙を受け取った。広げて読んだ。目を細めた。
「代役は姉の依頼で、父の承認の下で行われていました。この手紙は姉セリーヌの直筆です。日付は見合いの二日前。父の弁明書にある『リゼットの独断』という主張は事実と異なります」
フーゴは手紙を丁寧に机の上に置いた。
「これは保証書の伯爵の印と合わせて、組織的な代役の証拠になりますね。弁明書への反証としてレストルの記録官府に送付することは、制度上可能です」
フーゴは私を見た。いつもの軽い口調ではなかった。
「リゼット嬢、よろしいですか。これを提出すれば、お姉上とお父上の立場は今より厳しくなります」
「……はい」
声は震えなかった。
「承知しています」
フーゴは頷き、手紙を慎重に書類の間に挟んだ。
オスカーは椅子から立ち上がっていた。机の端に手をついたまま、私の方を見ていた。
「リゼット嬢」
数日ぶりに聞くその声は、低く、短かった。いつもの講義調ではなかった。言葉を選んでいるのでもなかった。選ぶ余裕がないのだと、声の震えでわかった。
「知っていました」
オスカーは私の目を見ていた。
「名鑑の記述との不一致は、見合いの前の段階で認識していました。三日間、名鑑の原本を精査し、声質と話し方の特徴記述を暗記した上で、見合いの席に座りました」
私は黙って聞いていた。
「あなたを図書館に招いたのは、報告書のためだけではありません。あなたの能力を知ったのは後からですが、招聘の動機は——外交でも、名鑑でも、業務上の判断でもなく、私個人の意志です」
オスカーの手が震えていた。机の端を掴む指の関節が白い。
「方法が不完全だったことは認めます。事前に知っていた事実を隠していたことも。けれど——」
「けれど?」
「あなたを引き止めたいと思ったのは、最初の瞬間からです。あの見合いの席で、あなたが自分の名前を名乗ったときから」
沈黙が落ちた。
照会文書を聞いた日、私は「また計算の中にいたのか」と思った。信じていたものが嘘だったと思った。けれど今、目の前に立つこの人は、言い訳をしていなかった。理由を取り繕っていなかった。事前に知っていたこと、隠していたこと、それでも引き止めたかったこと。全部を、そのまま言っていた。
方法は不完全だった。それは本当だろう。事前に知っていたのに黙っていたのは、嘘だった。
けれど余白に私の名前を書いて消していたのも、声のトーンが変わっていたのも、本を取り寄せて「出てきた」と嘘をついたのも——あれは計算ではなかった。計算でできることではなかった。
信じたい、と思った。照会文書を聞いた日に壊れかけたものを、もう一度組み直したいと思った。
「……わかりました」
私は言った。
「全部が正しかったとは、まだ思えません。でも——信じてみようと思います」
オスカーの目が揺れた。何か言おうとして、言えなかった。口を開きかけ、閉じ、もう一度開いた。
「……ありがとうございます」
それだけだった。それ以上の言葉を持っていないのだと、その声でわかった。
フーゴが書簡筒の蓋を閉めた。手紙と弁明書への反証は、次の外交便でレストルに送られる。
私は館長室を出た。廊下の窓から光が差していた。
手紙を手放した。六年間、書箱の底にあった手紙を。姉の筆跡。姉の香り。「リゼットならできるでしょう?」
握りしめていたのは、姉への忠誠ではなかった。自分にはそれしかないという思い込みだった。代わりであることでしか、家の中に居場所がないという諦めだった。
指先が軽かった。書箱はまだ宿舎の机の上にある。母のブローチは残っている。手紙だけがなくなった。それだけのことなのに、手の中の重さが変わっていた。




