第8話「事前調査」
フーゴが照会文書を読み上げている。リゼットは、その中の一文で息が止まった。
館長室だった。報告書を発送してから約一ヶ月が経っていた。書庫の整理は閉架の奥まで進み、マルタとの作業も手慣れたものになっていた。食堂で顔を合わせる職員たちが会釈を返してくれるようになり、宿舎の部屋には本が少しずつ増えていた。
その日常の中に、レストル王家の記録官府からの正式な照会文書が届いた。
フーゴが外交便から封書を受け取り、館長室に持ち込んだ。オスカーと私が同席していた。フーゴは封を切り、文書を広げ、外交書記官としての正式な口調で読み始めた。
「レストル王国記録官府より、ヴェルディーク王国外交部宛。縁談結果報告書受領に基づく照会。受領した報告書の記載内容に関し、以下の事実確認を求める——」
文書は長かった。報告書に記載された名鑑詐称の事実について、記録官府が保証書の署名と印影を名鑑記載と照合し、事実認定を完了したこと。クレールヴォー伯爵家への通知と弁明機会の付与が行われたこと。弁明書の提出期限は通知から十四日以内であること。
そこまでは、閉架書庫で読んだ外交記録の通りだった。制度は設計通りに動いている。報告書が届き、照合が行われ、事実が認定された。
フーゴが次の段落を読み上げた。
「——なお、本件に関し、ヴェルディーク側の縁談担当者が、見合い実施前の段階で名鑑記載との不一致を認識していた可能性について、事実関係の確認を求める」
空気が凍った。
見合い実施前。名鑑記載との不一致を認識していた可能性。
私はオスカーを見た。
オスカーは動かなかった。椅子に座ったまま、机の上の一点を見つめていた。表情が消えていた。いつもの穏やかさも、講義調の言葉も、何もなかった。
「……ヴァルトシュタイン様」
声が出た。自分の声だとは思えなかった。
「最初から、知っていたんですか」
オスカーは答えなかった。
「名鑑の記述と違う点があると、見合いの前からわかっていたんですか。三日間名鑑を読んでいたのは——準備ではなく、確認だったんですか」
マルタの言葉が蘇った。「見合いの前に名鑑を三日間読んでた」。あれは何気ない愚痴だった。上司の変わった仕事ぶりの一つだと思った。けれど今、照会文書の一文がその言葉に別の意味を与えていた。
「あの見合いの席で、名鑑の記述と違うと指摘したのは、その場で気づいたからではなかった。事前に不一致を把握していて、確認するために座っていた。そういうことですか」
オスカーの手が、机の上でかすかに震えた。
「……リゼット嬢」
「答えてください」
敬語が剥がれかけていた。喉が引きつっていた。
オスカーは目を閉じた。それから開いた。私の方を見た。
「……はい」
一語だった。
「名鑑の記述との不一致は、事前の精査で把握していました」
頭の中が白くなった。
あの見合いの席。三分で見抜いた人。「あなた自身の話を聞かせてください」と言った人。名鑑を偶然読み込んでいて、たまたま気づいた——そう思っていた。図書館長だから名鑑に目を通す習慣がある、とオスカー自身がそう説明した。
嘘だった。偶然ではなかった。最初から知っていた。
「この図書館に呼んだのも、報告書のために私を近くに置いておく必要があったからですか」
「それは——」
「交渉記録の整理を任せたのも、名鑑の棚を直させたのも、本を渡してくれたのも。全部、最初から計算の上だったんですか」
オスカーは口を開きかけ、閉じた。言葉が出ていなかった。あの見合いの席で嘘を見抜いたときの正確さが、今は自分自身に向いていた。答えを持っていないのではない。答えを言葉にする方法を持っていないのだ。
けれど今の私には、その区別がつかなかった。
フーゴが照会文書を静かに机の上に置いた。何も言わなかった。外交書記官は文書を読み上げる義務を果たした。それ以上でもそれ以下でもない顔をしていた。
私は椅子から立ち上がった。
「失礼します」
声が平坦だった。怒っているのか、悲しんでいるのか、自分でもわからなかった。ただ、この部屋にいられなかった。
廊下に出た。足が勝手に動いていた。書庫の前を通り過ぎ、正面の階段を降り、図書館の外に出た。
石段の下で立ち止まった。どこに行くのか決めていなかった。宿舎に戻るべきかもしれない。けれど、あの部屋にも今は帰りたくなかった。机の上に並んだ本が目に浮かんだ。オスカーが渡してくれた本。外部から取り寄せて「出てきた」と嘘をついた本。あれも、計算だったのだろうか。
街に出た。図書館の周囲は商業区で、行き交う人々の間を歩いた。ヴェルディーク王国の街並みはもう見慣れていた。石畳の道、煉瓦造りの建物、商人ギルドの看板。ここに来て二ヶ月近くが過ぎている。
「リゼット」
後ろから声がした。マルタだった。走ってきたのか、息が上がっていた。
「待ちなよ。どこ行くの」
「一人にしてください」
自分の口から出た言葉に、自分で驚いた。
マルタに向かって「一人にしてください」と言った。来て数日で名前で呼んでくれた人に。書庫で隣に立ってくれた人に。屋上で黙って寄り添ってくれた人に。
マルタの足が止まった。
「……わかった」
マルタはそれだけ言って、踵を返した。追いかけてこなかった。
私は歩き続けた。どこを歩いているのか、途中からわからなくなった。街の端の小さな広場にベンチがあった。座った。膝の上で手を組んだ。指先が冷たかった。
あの人だけが私の名前を聞いてくれたと思った。十五回の見合いで誰も見なかった私を、あの人だけが見てくれたと思った。
けれど、あの人は最初から知っていた。名鑑を三日間読み、不一致を把握し、確認するために見合いの席に座った。私が姉ではないことを、会う前から知っていた。
「あなた自身の話を聞かせてください」——あの言葉は、私を見てくれた言葉だと思っていた。けれど事前に知っていた人間が言う「あなた自身の話」とは、何だったのだろう。
信じたい。あの余白の走り書きも、声のトーンの変化も、本当だったと信じたい。けれど今は、何が本当で何が計算だったのか、その境界が見えなかった。
館長室では、フーゴがまだ残っていた。
オスカーが低い声で言った。
「なぜ読んだ」
フーゴは照会文書を書簡筒にしまいながら答えた。
「照会文書ですよ。省略できるわけがないでしょう」
「あの一文を読めば、リゼット嬢が——」
「オスカー」
フーゴの声が、いつもの軽さを失った。
「僕は外交書記官です。公式文書を正確に読み上げるのが職務です。あの一文を省略したら、僕が照会文書を改竄したことになる。それが何を意味するか、あなたにはわかるでしょう」
オスカーは黙った。
「それに」
フーゴは書簡筒の蓋を閉めた。
「隠し続けられると思っていたんですか。制度は嘘を許しませんよ。あなた自身が報告書に真実を書いたのと同じように」
フーゴは軽く頭を下げて館長室を出た。
オスカーは一人残された机の前で、照会文書が置かれていた場所を見つめていた。文書はもうない。フーゴが持っていった。けれどあの一文は、もう消せない。
机の引き出しを開けた。報告書の下書きが重なっている。余白に書いて消した名前の痕跡が、まだ残っていた。




