第6話「余白の走り書き」
なぜこの人は、頼んでもいないのに、私の好きな本を知っているのだろう。
机の上に置かれた一冊を見て、そう思った。『近隣諸国の紋章変遷史』。昨日、閉架書庫の外交記録を整理しているとき、索引の注釈に書名だけ載っていた本だった。気になると口にした覚えはない。棚の前で少し長く手を止めただけだ。
それを、この人は見ていた。
朝の書庫で、私は外交資料の束と向き合っていた。
マルタから頼まれた仕事だった。両国間の外交関連資料の中に、人物相関が未整理のまま放置された書類群がある。誰がどの家と繋がり、どの交渉に関わったのか。名前と肩書きが錯綜したまま、何年も棚に眠っていた。
名鑑の配列を直したときと同じだ。目の前に散らばった情報を、正しい位置に並べ直す。私の手は、考えるより先に動いていた。
人物の名前を索引と照合し、所属と役職を確認し、交渉記録の日付順に並べていく。二時間ほどで、紙の上に相関図の骨格ができあがった。
そのとき、ひとつの不整合に気がついた。
両国間の商人ギルドの通行許可に関する小さな交渉記録が、二つの異なるファイルに分かれて綴じられていた。片方には交渉の経緯が、もう片方には関係者の一覧が入っている。別々の棚に保管されていたせいで、誰もこの二つを突き合わせていなかった。
二つの書類を並べてみると、交渉が膠着している原因が見えた。双方の担当者が、相手側の窓口を誤認している。レストル側の交渉記録には古い肩書きの担当者名が残っており、ヴェルディーク側の記録には後任者の名前しかない。互いに別の相手に書簡を送っていて、返事が来ないまま放置されていた。
人物相関を正しく整理すれば、正しい宛先がわかる。それだけのことだった。
私はマルタを呼んだ。
「マルタさん、これを見ていただけますか」
マルタは相関図と二つの書類を交互に見た。眉が上がった。
「……あんた、これ自分で気づいたの?」
「資料を並べ替えていたら、たまたま——」
「たまたまで外交案件の膠着原因を見つける人間がいるんだ」
マルタは書類を手に取り、廊下へ出た。「館長に見せてくる」と言い残して。
指示された仕事は、人物相関の整理だった。交渉問題の原因を探ることではなかった。また、でしゃばってしまった。名鑑の棚のときと同じだ。気になったから動いた。それだけのことなのに、その「それだけ」が、いつも指示の範囲を超えてしまう。
しばらくして、オスカーが書庫に来た。手にマルタから渡されたらしい書類を持っている。
「リゼット嬢」
オスカーは相関図を広げた机の前に立ち、書類と見比べた。指先が相関図の線をなぞり、二つの交渉記録の接点で止まった。
「担当者の誤認が原因で書簡が届いていなかった、ということですか」
「はい。人物相関を整理したら、宛先の不一致が見えました。正しい担当者に書簡を送り直せば、交渉が動くかもしれません」
「かもしれません、ではなく、動きます」
オスカーは静かに断言した。それから相関図を丁寧に巻き、書類と一緒に手に取った。
「これはあなたの仕事です、リゼット嬢。フーゴに渡して、外交部で処理してもらいます」
あなたの仕事。
名鑑の棚を直したときは「正確です」と言われた。今度は「あなたの仕事です」と言われた。指示されていないのに動いてしまったことを、この人は咎めるどころか、私の名前をつけて認めた。
「……ありがとうございます。でも、私はただ資料を並べ替えただけで——」
「並べ替えただけで交渉問題の原因を特定できる人は、この図書館にはいませんでした」
オスカーはそう言って、軽く頭を下げた。館長が臨時補佐に頭を下げている。マルタが書架の陰からそれを見ていたことに、私はそのとき気づいていなかった。
昼過ぎ、マルタと二人で書庫の片づけをしていた。
「ねえ、リゼット」
マルタが言った。
名前だった。「あんた」ではなく、「リゼット」と。
「……はい?」
「さっきの交渉記録の件、よくやったよ。あんたの——いや、リゼットの目がなかったら、あの書類はあと何年もあの棚で眠ってた」
マルタは棚に本を押し込みながら、さらりと言った。
「それとさ、ひとつ聞いていい?」
「何ですか」
「あの人——館長のことなんだけど」
マルタは手を止めて、こちらを向いた。
「あの人、リゼットの前だけ声のトーンが変わるんだよ」
「……え?」
「気づいてない? 普段のあの人は、誰と話してても同じ調子なの。講義みたいな喋り方で、抑揚がなくて、事務的で。でもリゼットと話してるときだけ、声が少し低くなって、間が長くなる。言葉を選んでるっていうか、気をつけてるっていうか」
心臓が跳ねた。
「それは……業務上の配慮では」
「業務上の配慮で声のトーン変える人間がいると思う?」
マルタは呆れたように首を振った。
「あたしはあの人の下で五年働いてるけど、あんな声、聞いたことなかったよ。外交官が来ても、王宮の役人が来ても、同じ調子。それがリゼットの前だけ変わるの」
返す言葉が見つからなかった。
「まあ、あたしが口出すことじゃないけどね。ただ、気づいてないなら教えておこうと思って」
マルタは台帳を拾い上げ、書架の奥へ歩いていった。
私はその場に立ったまま、さっきの会話を反芻していた。
声のトーンが変わる。
この人は本気で私を見ている——そう思いかけて、打ち消した。外交上の配慮かもしれない。臨時補佐への気遣いかもしれない。報告書に関わる人物だから丁寧にしているだけかもしれない。
でも、マルタは五年間で一度も聞いたことがないと言った。
信じたいのか、信じたくないのか。自分の中のどちらが正しいのか、わからなかった。
夕刻、宿舎に戻る前に館長室の前を通りかかった。
扉が薄く開いていた。中に人の気配があった。覗くつもりはなかった。ただ、足音を立てないように通り過ぎようとしたとき、机の上が目に入った。
オスカーが椅子に座っていた。片手にペンを持ち、もう片方の手で額を押さえている。机の上には書きかけの紙が何枚も広がっていた。
報告書の下書きだった。
見えてしまった。紙の端——本文ではなく、余白の部分に、小さな文字が並んでいた。書いては消し、書いては消した跡。インクの滲みと、消し損ねた筆跡。
私の名前だった。
リゼット、と書かれていた。何度も。何度も書かれて、何度も線で消されていた。
息を止めた。足が動かなかった。
オスカーは気づいていなかった。ペンを置き、余白の文字をじっと見つめてから、紙を裏返した。そしてまた新しい紙を引き寄せ、報告書の文面を書き始めた。
私は音を立てないように、その場を離れた。
宿舎の部屋に戻り、扉を閉めて鍵をかけた。
椅子に座った。膝の上で手を組んだ。指先が冷たかった。
報告書の余白に並んだ私の名前。あの人の筆跡で書かれた四文字。書いては消し、書いては消した痕跡。あれは業務ではない。配慮でもない。報告書に私の名前を書く必要はない。ましてや、余白に何度も書いて消す必要など——
マルタの言葉が蘇った。「あの人、リゼットの前だけ声のトーンが変わるんだよ」
あの報告書に、この人は何を書くのだろう。あの余白に私の名前を並べながら、制度と義務と、それから何か別のものの間で、あの人は何を考えているのだろう。
今日、交渉記録を整理しただけの私の仕事に、あの人は「あなたの仕事です」と名前をつけた。その同じ手が、報告書の余白に私の名前を書いて消していた。
信じたい、と思った。マルタの言葉も、声のトーンのことも、あの余白の走り書きも。全部、本当であってほしいと思った。
でも、まだ信じきれなかった。十五回の見合いで、誰にも本当の名前を呼ばれなかった私が、十六回目の相手にだけ、こんなふうに——
机の上の本が目に入った。今朝、頼んでもいないのに置かれていた『近隣諸国の紋章変遷史』。その隣に、外交儀礼の本と書箱が並んでいる。借りものの部屋に、少しずつ増えていく、借りものではないもの。
窓の外で鐘が鳴っていた。報告書の期限が、あと何日かを数えた。あの下書きの山が、いつ清書されるのか。清書されたとき、余白の走り書きは消えているのだろう。
あの人の字で書かれた私の名前は、私が自分で書いたどの文字より、はっきりと読めた。




