第5話「閉架の奥」
七回目の見合いで、相手の侯爵子息が言った。「あなたは本当に噂通りのお方ですね」—— 私ではなく姉を見ているその目に、泣きそうになった。
閉架書庫の古い名鑑を開いた瞬間、その記憶が蘇った。
黄ばんだ頁の上に、見覚えのある家名が並んでいた。七回目の相手だった侯爵家の名前。その隣に、見合い記録の索引番号。私が姉として座った席の、公式な記録の痕跡。
指先が頁の上で止まった。閉架書庫の空気はひんやりとしていて、埃の匂いが鼻の奥に届いた。
名鑑資料の総点検を終えた後、マルタから閉架書庫の整理も頼まれていた。一般書庫より古い資料が多く、配列の乱れも大きい。その作業の途中で、古い外交記録の束に行き当たった。
両国間の縁談制度に関する記録だった。
手が勝手に頁をめくっていた。名鑑の配列を直すのと同じだ。目の前に情報があると、読まずにいられない。
縁談制度の歴史。成立要件。報告書の処理手順。そして——名鑑詐称の処分に関する記述。
「王家仲介縁談における名鑑詐称が認定された場合、当該家の仲介縁談は無期限に停止される」
無期限停止。
父が言っていた「バレなければ問題ない」の、バレた場合の結末が、そこに書いてあった。
記録はさらに続いていた。名鑑詐称の事実認定は保証書の署名・印影と名鑑記載の照合で完結するため、即日から数日で可能であること。認定後、当該家への通知と弁明機会の付与があり、弁明書の提出期限は通知から十四日以内であること。
即日から数日。十四日。
数字が頭の中で組み上がっていった。報告書が提出されれば、レストル王家の記録官府が照合を行う。照合は書面で完結する。つまり、事実認定に長い時間はかからない。
お姉様の縁談が全部なくなる。父の社交上の信用が崩壊する。伯爵家が——
頁を閉じた。指が震えていた。
父は「バレなければ問題ない」と言っていた。私もそう信じていた。処分がここまで重いとは、知らなかった。
ここで私が出頭して、「代役は私が勝手にやりました」と申し出れば、姉は守れるかもしれない。父も、家も。私が全部かぶれば——
それは、また姉の代わりになるということだ。
外交記録の束を棚に戻した。手が震えたまま、隣の棚の資料に目を移した。作業を続けなければ。考えるのは後でいい。
午後、閉架書庫の奥で資料の整理を続けていると、書架の向こう側から足音が聞こえた。
「リゼット嬢、ここにいましたか」
オスカーが書架の角から顔を出した。手に紙束を持っている。目が少しだけ充血していた。昨夜も遅くまで書類を読んでいたのかもしれない。
「ヴァルトシュタイン様。何かご用でしょうか」
「閉架の資料整理の進み具合を確認しに来ました。それと……少し、休憩にしませんか。食堂に茶の用意ができているそうです」
「ありがとうございます。でも、まだこの棚の——」
「マルタが、あなたは放っておくと昼食を抜くと言っていました」
反論できなかった。実際、昼の鐘を聞き逃していた。
閉架書庫を出て、職員食堂の隅の席に向かい合って座った。食堂には他に数人の職員がいたが、館長が臨時補佐と昼を共にする光景は珍しいらしく、ちらちらと視線が飛んできた。
オスカーは茶を一口飲んで、紙束を脇に置いた。
「閉架の外交記録も整理していただいているようですね」
「はい。配列がかなり乱れていましたので……ヴァルトシュタイン様、ひとつ伺ってもよろしいですか」
「何でしょう」
「ヴァルトシュタイン様は、なぜ図書館長をしていらっしゃるんですか」
聞いてから、失礼な質問だったかもしれないと思った。けれどオスカーは嫌な顔をしなかった。茶碗を両手で包み、少し考える間があった。
「侯爵家の次男ですから、家督は兄が継ぎます。私は……正直に申し上げれば、家の役に立たない弟だったんです」
言葉がゆっくりと出てきた。いつもの講義調ではなく、探りながら話している口調だった。
「社交の場が苦手で、雑談ができない。人と会うより本を読む方が性に合っている。父は落胆していたと思います。ただ、前任の図書館長が急逝されて、名鑑や外交文書に通じた人間が必要になったとき、たまたま私の知識が合致した。それだけの話です」
「それだけ、ですか」
「それだけです。家にとって必要だからではなく、たまたま空いた椅子に座れる人間が他にいなかっただけです」
たまたま座れた椅子。
その言い方は、自嘲でありながら、どこか清々しくもあった。この人は自分の居場所を、必要とされたからではなく偶然で説明する。
「私も、いてもいなくても同じ妹でした」
口から出ていた。止める間もなかった。
オスカーの手が、茶碗の上で止まった。
沈黙が落ちた。食堂の雑音——食器の音、職員の話し声——が遠くなった。
オスカーは何も言わなかった。同意しなかった。否定もしなかった。ただ黙って、私の方を見ていた。あの見合いの席で私の名前を聞いたときと同じ目だった。何かを確かめようとしている、静かで正確な目。
「……すみません。変なことを言いました」
「いいえ」
オスカーは短く言った。それから、茶碗を置いて、低い声で付け加えた。
「変なことでは、ありません」
それだけだった。それ以上は何も言わなかった。
けれどあの沈黙は、「そうですね」でも「そんなことはありませんよ」でもなかった。何か別のものだった。私にはまだ、それが何か名前をつけられなかった。
夕刻、フーゴが図書館に立ち寄った。
館長室にいたオスカーと何か話した後、廊下で私とすれ違った。
「リゼット嬢、ひとつお耳に入れておいた方がいいかもしれないことがありまして」
フーゴはいつもの軽い口調だったが、目は笑っていなかった。
「レストル王国から外交便が届きました。クレールヴォー伯爵が、リゼット嬢の不在について『家の事情による一時的な遊学』と王宮に届け出たそうです」
遊学。
父はそう処理したのか。
「つまり、お父上はまだ事態をご自分の手の中に収めようとしているようですね。まあ、それはそれとして——」
フーゴは軽く肩をすくめた。
「報告書の期限が近づいていますので、こちらとしても準備は必要です。何かあれば言ってくださいね」
フーゴが去った後、私は廊下の窓から外を見た。
父は「遊学」と処理した。つまり、まだ代役の件は表沙汰になっていないということだ。報告書が出される前に、事態を自分の都合のいい形に固めようとしている。
報告書が出れば、記録官府が照合を行う。事実認定は即日から数日。弁明の猶予は十四日。
もし私が今レストルに戻って「全部私がやりました」と言えば、姉は助かる。家も助かるかもしれない。
でもそれは、また姉の代わりに私が罰を受けるということだ。十六回目の代役。今度は見合いの席ではなく、処分の席で。
黙っていたい。消えてしまいたい。ここから静かにいなくなれば、誰にも迷惑をかけずに済む。
けれど——ここにいたいと思っている自分もいた。名鑑の棚を直し、外交記録を読み、マルタに「あんた」と呼ばれ、オスカーに嘘の下手な贈り物をもらい、食堂で茶を飲む。その日常の中に、もう少しだけいたいと思っている自分がいた。
宿舎の部屋に戻り、机の上の本と書箱を見た。
オスカーがくれた『両国間外交儀礼概説』。その隣に、伯爵家から持ち出した書箱。借りものではないものが、少しずつ増えている。
「いてもいなくても同じ」と言ったとき、隣にいた人が黙り込んだ。あの沈黙は、同意ではなかった。何か別のものだった。
それが何だったのか、まだわからない。けれど、あの沈黙の中に座っていた時間は、十五回の見合いの席のどこにもなかった種類の静けさだった。
報告書の期限が迫っている。父は事態を操ろうとしている。私は閉架の奥で、自分が知らなかった真実を読んでしまった。
窓の外で、図書館の鐘が日暮れを告げていた。




