第3話「職員宿舎の鍵」
馬車を降りたリゼットの前に、石造りの巨大な建物が立っていた。
ヴェルディーク王国の中央図書館。六日間の旅路の果てに辿り着いたその建物は、レストル王国の伯爵邸とは何もかもが違っていた。高い天井を支える石柱。正面入口の上に刻まれた王国の紋章。人が絶えず出入りする開かれた扉。
私は旅の荷物を抱え直した。背中に書箱の角が当たる。伯爵家を出てからずっと、この角だけが変わらなかった。
「クレールヴォー嬢」
声が聞こえて顔を上げると、正面の階段をオスカー・ヴァルトシュタインが降りてくるところだった。あの見合いの席と同じ暗褐色の髪、深い緑の瞳。ただ、今日は書類の束を持っていなかった。代わりに、少しだけ歩幅が大きい。急いでいるのだ、と思った。
「お疲れではありませんか。旅は長かったでしょう」
「いえ、大丈夫です。……ヴァルトシュタイン様、お手紙の前に着いてしまって申し訳ありません」
「ええ、驚きました。返信より先にご本人がいらっしゃるとは」
オスカーは一瞬だけ口元を緩めた。笑ったのかどうか、よくわからなかった。すぐに真顔に戻り、階段の上を示した。
「中でお話しさせてください。それから、正式にご提案したいことがあります」
図書館の館長室は、書架で壁が覆われた細長い部屋だった。オスカーは来客用の椅子を引き、私が座るのを待ってから、自分も机の向こう側に腰を下ろした。
「単刀直入に申します。資料整理の臨時補佐として、こちらで働いていただけませんか」
「……臨時補佐、ですか」
「図書館長には臨時職員の雇用裁量があります。外国籍の方の任用は文化省への届出が必要ですが、私の方で手続きを行います。報酬は多くありませんが、職員宿舎と食堂を使うことができます」
衣食住の保障。父に追い出され、手持ちの金もなく、帰る場所もない私にとって、それは断れる種類の申し出ではなかった。
「なぜ、そこまでしてくださるんですか」
聞かずにはいられなかった。オスカーは少し間を置いた。あの見合いの席と同じように、言葉を選んでいる目だった。
「名鑑の記述と異なる方が見合いにいらした。その経緯を正確に把握することは、報告書を書く上で必要な過程です。あなたにはこちらにいていただいた方が、確認がしやすい」
業務上の理由。筋は通っている。けれど、六日間かけてここまで来た人間に衣食住を保障する理由としては、少し過剰ではないだろうか。
私にはそれを問い詰める立場も余裕もなかった。
「……ありがとうございます。お世話になります」
頭を下げた。深く、丁寧に。追い出された先で差し出された手を取る以外に、選べることはなかった。
「それから」
オスカーが付け加えた。
「こちらでは名前でお呼びしてよろしいですか。リゼット嬢、と」
あの見合いの席で自分から名乗った名前。この人は覚えていて、今度は許可を求めている。
「……はい」
「では、リゼット嬢。まず主任司書を紹介します。この図書館のことは彼女に聞くのが一番早い」
オスカーに連れられて書庫に向かう途中、廊下の奥から足音が近づいてきた。
「館長、午後の閲覧申請がまた溜まってるんですけど」
声の主は、私より頭半分ほど背の高い女性だった。茶色い髪を無造作に束ね、腕まくりをした袖から日に焼けた腕が見えている。手には分厚い台帳を抱えていた。
「マルタ、紹介する。リゼット嬢。今日から資料整理の臨時補佐として来てもらった」
「……へえ」
マルタと呼ばれた女性は、私を頭の先からつま先まで見た。遠慮のない目だった。貴族の令嬢に対する目ではなく、新しく入った同僚を値踏みする目だった。
「あたしはマルタ・ゲーリング。主任司書。敬語は要らないよ、あたしは平民だからね。で、あんた、本の扱いはわかる?」
「……多少は」
「多少ね。まあいいや、とりあえず書庫を見せるから来な」
マルタは台帳を片腕に抱え直し、踵を返した。オスカーが「では私は館長室に」と言って廊下の奥へ消えた。私は慌ててマルタの後を追った。
書庫は広かった。天井まで届く書架が何列も並び、梯子が等間隔に立てかけてある。窓から差し込む光が、埃の粒子を浮かび上がらせていた。
「ここが一般書庫。貴族名鑑の写しと外交関連資料は奥の閉架に別置き。あんたの仕事は主にこっちの——」
マルタが書架の一角を指さした瞬間、私の足が止まった。
名鑑資料の棚だった。各国の貴族名鑑の写しや索引冊子が並んでいる。けれど——
「……これ、配列が違っています」
口に出してから、しまった、と思った。着いたばかりの臨時補佐が、主任司書の管理する書庫にいきなり口を出すべきではない。
マルタが振り返った。
「何が違うって?」
引き返せなくなった。指先が勝手に書架を指していた。
「名鑑の索引は発行年順に並んでいますけど、この棚だけ国別配列と年次配列が混在しています。それと、レストル王国の名鑑写しが二冊ありますが、改訂版と旧版が逆になっています。改訂版の方が奥に入っていて、旧版が手前に出ています」
マルタは目を丸くした。台帳を書架の端に置き、私が指した箇所を確認した。二冊の名鑑写しを引き出し、奥付を見比べる。
「……本当だ。いつからこうなってたんだろう。あんた、よく気がついたね」
「すみません、でしゃばったことを——」
「謝ることじゃないよ。これ、放っておいたら閲覧者が旧版の情報を引くところだった」
マルタは二冊の名鑑写しを正しい順に並べ直しながら、ふと思い出したように言った。
「名鑑といえばさ、うちの館長、あんたの見合いの前に名鑑を三日間読んでたんだよ。あの人、準備になると周りが見えなくなるタイプでね。閉館後も書庫に籠もって、名鑑のページに付箋を挟んで——あたしが帰れって言わなきゃ朝まで読んでたと思うよ」
三日間。
見合いの前に、三日間。
「……そうなんですか」
「そうそう。おかげでその週の書庫の貸出処理が全部あたしに回ってきたんだから。まったく、人使いの荒い館長だよ」
マルタは笑いながら台帳を拾い上げた。何気ない愚痴だった。彼女にとっては、上司の変わった仕事ぶりの一つに過ぎないのだろう。
けれど私の頭の中では、あの見合いの席の光景が蘇っていた。席に着いて三分で「名鑑の記述と、いくつかの点が異なります」と言ったあの正確さ。図書館長だから名鑑に目を通す習慣がある——さっき館長室でオスカーはそう言った。
習慣で、三日間籠もるだろうか。
考えかけて、やめた。今の私にそれを追及する余裕はない。まずはここで借りを返せるだけの働きをしなければ。
書庫の見学が終わった後、オスカーが職員宿舎まで案内してくれた。図書館の裏手にある石造りの小さな建物の、二階の奥の部屋。
扉の前で、オスカーが鍵を差し出した。
「ここがあなたの部屋です。食堂は一階の突き当たりで、朝と夕に開きます。不便なことがあればマルタか私に言ってください」
鍵を受け取った。小さな金属の鍵だった。伯爵家の自室には鍵がなかった。令嬢の部屋に鍵をかける必要はないとされていた。使用人がいつでも入れるように。父が確認できるように。
「……ありがとうございます」
オスカーが軽く頭を下げて廊下を去った後、私は部屋に入り、扉を閉めた。
小さな部屋だった。寝台と机と椅子。窓から図書館の裏庭が見える。伯爵家の自室より狭い。けれど、鍵がある。
荷物を下ろし、書箱を机の上に置いた。旅の間ずっと背中に当たっていた角の感触が消えて、肩が軽くなった。
鍵を握りしめた。手のひらに金属の冷たさが伝わった。
冷たいはずなのに、それは不思議と温かく感じられた。自分だけの部屋の、自分だけの鍵。借りものの場所で、借りものの立場で——それでも、ここには鍵がある。
窓の外で、図書館の鐘が夕刻を告げていた。
マルタの声が廊下の向こうから聞こえた。「食堂開いてるよ」と誰かに声をかけている。
私は鍵をそっと机の上に置き、扉を開けた。




