第2話「保証書の印」
伯爵家の書斎の窓から差し込む朝日が、机上の保証書の印を照らしていた。
父の書斎に呼ばれるのは、いつも決まって朝だった。朝日の中で父の顔は逆光になり、表情が読めない。それがこの部屋の常だった。
「座れ」
クレールヴォー伯爵は短く言った。机の向こう側に立ったまま、こちらを見下ろしている。私は入口近くの椅子に腰を下ろし、背筋を伸ばした。
「昨日の見合いの件だ」
父の声は低く、平坦だった。怒りも焦りもない。ただ事実を処理するための声だった。
「相手方が何も言わなければ問題はない。報告書に書かなければ、それで終わる」
「……お父様、相手の方は名鑑との不一致をはっきりと指摘されました。書かない可能性は——」
「黙れ」
一語で遮られた。私は口を閉じた。
父は机の上の書類に目を落とした。見合いのたびに用意された、家紋入りの身元保証書。父の署名。父の印。その印が朝日を受けて、赤黒く光っていた。
「だが万が一のために、しばらく姿を消せ」
父は書類から目を上げないまま言った。
「相手が騒ぐ前に、お前は家にいない方がいい」
姿を消せ。
その言葉の意味を、私は数秒かけて理解した。
「……姿を消せ、というのは」
「お前の部屋は空にしておけ。いつ誰に見られても、次女は遊学中だと言えるようにしておく。行き先はお前の好きにしろ。金は出せん。足がつく」
父は一度もこちらを見なかった。保証書の束を揃え、引き出しにしまう。あの印を押したのはこの手だ。十六枚。十六回分の印を、この人が押した。
「いつまででしょうか」
「騒ぎが収まるまでだ。長くはかからん。あの程度の侯爵家の次男が、わざわざ王家に報告書を出すとは限らん」
父はそう言い切った。保証書に自分の印を押した事実を、この人は「形式的なもの」だと思っている。あるいは、思おうとしている。
私は立ち上がり、一礼した。書斎を出る足取りは、いつも通り静かだった。二十一年間、そうしてきたように。
自室に戻り、扉を閉めた。
部屋を見回す。姉と比べれば質素な部屋だった。窓際の椅子。小さな書き物机。寝台。衣装箪笥。それだけ。
私はまず衣装箪笥を開けた。旅に必要な最低限のものを選ぶ。替えの下着、防寒用の外套、使い慣れた靴。それから——
書き物机の引き出しに手を伸ばした。
奥にしまってある小さな書箱を取り出す。木製の、手のひらに収まるほどの箱。母が生前使っていたもので、蓋に小さな花の彫刻が施されている。中には母方の祖母のブローチと、何通かの手紙が入っている。金銭的な価値はほとんどない。けれどこれだけは、置いていけなかった。
書箱を旅の荷物の底に入れた。
荷物をまとめ終えると、部屋には私の痕跡がほとんど残らなかった。元からそうだったように。社交デビューもしていない次女の部屋など、誰が見ても「遊学中」で通るだろう。
父の指示に従っている。それはいつものことだ。けれど今回は、従った先に帰る場所がない。姿を消せと言われて消える。それだけのことだ。行き先はお前の好きにしろと言われても、好きな場所などない。
荷物を部屋の隅に置き、窓際の椅子に座った。
昨日のことを思い出す。あの見合いの席。三分で嘘を見抜いた人。「あなた自身の話を聞かせてください」と言った声。報告書をどう書くか考えさせてくれと言った、あの正直な目。
十五回の見合いを思い返した。
最初の頃は手が震えた。姉の名前で呼ばれるたびに、胸の奥が軋んだ。三回目あたりから慣れた。五回目で完璧になった。十回を超えた頃には、見合いの席に座る瞬間だけ、自分がセリーヌになったような錯覚すら覚えた。
錯覚だった。見合いが終われば私はリゼットに戻り、姉に結果を報告し、父に結果を報告し、次の見合いの準備をする。その繰り返しだった。
扉を叩く音がした。使用人の声だった。
「リゼット様、お手紙が届いております」
受け取った封筒には、見覚えのない紋章が押されていた。
開封する。整った筆跡。丁寧だが、一文が長い。
——クレールヴォー嬢。先日は率直にお話しいただき、感謝しております。改めてお話ししたいことがあります。こちらにいらっしゃいませんか。
差出人はオスカー・ヴァルトシュタイン。
手紙を読み返した。「改めてお話ししたいこと」が何かは書かれていない。報告書のことかもしれない。代役の件を追及するつもりかもしれない。あるいは——。
わからない。この人が何を考えているのか、まだわからない。
けれど、父は「姿を消せ」と言った。行き先は好きにしろ、と。
ヴェルディーク王国。あの人のいる場所。見合いの書簡を通じて、外交使節便の経路は知っている。商人ギルドの定期便に同行すれば、五日から七日で着く。
私は書き物机に向かい、返事を書いた。
ヴァルトシュタイン様。お手紙ありがとうございます。お言葉に甘えて、お伺いしてもよろしいでしょうか。
短い返事だった。理由は書けなかった。父に追い出されたとも、帰る場所がないとも、書けなかった。
ペンを置いた。指先が震えていた。
この震えが何なのか、自分でもわからなかった。嘘をつく恐怖か。それとも——返事の中の「お伺いしてもよろしいでしょうか」が、姉の代わりではなく私自身の言葉であることへの、名前のつけようのない衝動か。
封をした手紙を、使用人に託した。
荷物の底にある書箱の重みを、指先で確かめた。母の形見と、何通かの手紙。それだけが、この家から持ち出す私のすべてだった。
夕刻、姉の部屋の前を通りかかった。扉は閉まっていた。中から姉の笑い声が聞こえた。侍女と何か話しているらしかった。
足を止めかけて、止めなかった。
姉に別れを告げる理由がなかった。父に「姿を消せ」と言われたことを伝えたところで、姉は「そうなの、気をつけてね」と言うだろう。それがわかっていたから、扉を叩く手が上がらなかった。
翌朝。
私はまだ暗いうちに屋敷を出た。旅の荷物は小さかった。書箱の角が背中に当たっていた。門を出るとき、振り返らなかった。振り返る習慣がなかった。
商人ギルドの定期便が出る宿場町まで、馬車で半日。そこから先は、あの人の手紙が示した場所へ向かう。
父は追いかけてこないだろう。私の所在より、家名の方が大事な人だから。報告書がどうなるか、保証書の印をどう説明するか、それだけがあの人の頭にあるはずだ。
馬車の窓から朝焼けが見えた。レストル王国の空は、どこまでも平たく広がっていた。
返事を書いたあの手紙が、今どこを走っているのかを考えた。外交使節便なら七日から十日。商人便なら五日から七日。私の方が先に着くかもしれない。返事より先に本人が現れたら、あの人はどんな顔をするだろう。
想像して、少しだけ口の端が動いた。
それは、笑ったのとは違う。ただ、行き先があるということが、昨日の朝よりほんの少しだけ、胸のどこかを温めていた。




