第10話「はじめまして」
「リゼット・クレールヴォーです」
その名前を、私はもう一度口にすることになる。けれどそれは、まだ少し先の話だった。
朝の館長室に、フーゴが封書を持って現れた。
オスカーと私が同席していた。数日前に手紙を提出してから、オスカーとの間に言葉が戻り始めていた。以前と同じではない。けれど、黙って隣にいることを避けなくなっていた。
フーゴは封を切った。レストル王国の記録官府の紋章が押された公式文書だった。
「レストル王国記録官府より、処分通達。クレールヴォー伯爵家に対する名鑑詐称の最終認定および処分の決定について——」
フーゴの声は正式な口調だった。外交書記官として、一語も省略せず読み上げる。
「ヴェルディーク側より提出されたセリーヌ・クレールヴォー嬢の直筆書簡、および十六件の身元保証書に押印された家長の印影を、名鑑記載と照合した結果、本件の名鑑詐称はクレールヴォー伯爵家の組織的行為と認定する」
組織的行為。
父の弁明書にあった「リゼットの独断」という主張は、退けられた。姉の手紙と父の印が、それを証明した。
フーゴが読み続けた。
「処分。クレールヴォー伯爵家の王家仲介縁談を無期限に停止する。なお、本件に関わるセリーヌ・クレールヴォー嬢の全縁談は白紙とする。本通達は両国に送達される」
無期限停止。全縁談白紙。
姉の顔が浮かんだ。社交界で「クレールヴォーの華」と呼ばれた姉。見合いの席が苦手で、妹に代わりを頼んだ姉。「リゼットならできるでしょう?」と笑った姉。
その姉の縁談が、すべてなくなった。
父の顔も浮かんだ。書斎の逆光。保証書の印。「姿を消せ」と言った声。「リゼットが独断でやった」と書いた弁明書。あの人の社交上の信用は、この通達で崩れる。
フーゴは文書を読み終え、紙を机の上に置いた。
「以上が処分通達の全文です。レストル王家の記録官府長官が決定権者であり、ヴェルディーク側は証拠提出を行った立場として記載されています」
静かだった。
私は椅子に座ったまま、膝の上で手を組んでいた。震えてはいなかった。
恨みはなかった。姉を恨む気持ちも、父を恨む気持ちも、今の私の中にはなかった。ただ、もうあの家に戻ることはないのだという事実が、静かに確定した。諦めに近い、けれど諦めとも違う、穏やかな決別だった。
フーゴが書簡筒に文書をしまいながら、軽く付け加えた。
「ちなみに、過去十五回の見合い相手の方々にも、名鑑詐称の事実は伝わっているようですね。見抜けなかったことが周知されるわけですから、社交の場では少々居心地が悪くなるかもしれません」
フーゴはそう言って、いつもの軽い口調に戻った。
「まあ、それはそれとして。何かあれば言ってくださいね」
フーゴが館長室を出ていった。
オスカーと二人きりになった。
机を挟んで、向かい合っている。窓から午前の光が差していた。館長室の書架に並ぶ本の背表紙が、光を受けて色を変えていた。
オスカーは黙っていた。処分通達の間もずっと黙っていた。フーゴが読み上げている間、一度も口を開かなかった。
私は、この人の顔を見ていた。
見合いの席で嘘を見抜いた人。図書館に招いてくれた人。本を取り寄せて「出てきた」と嘘をついた人。報告書の余白に私の名前を書いて消した人。真実を書くと決めた人。事前に知っていたことを隠していた人。それでも、全部を話してくれた人。
方法は不完全だった。正しくない部分もあった。けれど、この人が私の名前を呼ぶとき、声のトーンが変わること。マルタがそう言ったこと。報告書の余白に並んだ私の名前。あれは計算ではなかった。
信じると決めたのは、自分の意志だった。
「オスカー様」
口から出ていた。
オスカーの目が見開かれた。手が机の上で止まった。
私がその名前を呼んだのは、初めてだった。「ヴァルトシュタイン様」と呼んでいた。図書館に来てからずっと、そう呼んでいた。
「……今、何と」
「オスカー様、と呼びました」
声が少しだけ震えた。けれど、止めなかった。
「お名前で呼んでも、よろしいですか」
オスカーは答えなかった。答えられなかったのだと思う。口を開きかけ、閉じ、もう一度開いた。いつもの講義調は影も形もなかった。
それから、不器用に微笑んだ。
見合いの席で初めて会ったとき、この人は笑わなかった。図書館で再会したとき、口元を緩めたかどうかわからない程度の変化があっただけだった。本を渡すときも、報告書に封をするときも、照会文書の前で黙り込んだときも、この人は笑わなかった。
今、笑っていた。不器用で、ぎこちなくて、口元の角度が左右で違っていて、それでも確かに笑っていた。
「……ええ。もちろん」
低い声だった。短い声だった。それだけだった。
けれどその声のトーンは、マルタが言った通り、他の誰に向けるものとも違っていた。
午後、書庫の前にマルタがいた。
「リゼット、ちょっと来な」
マルタに連れられて行った先は、図書館の一階の広間だった。普段は閲覧室として使われている場所だが、今日は机が端に寄せられ、中央に空間が作られていた。
数人の職員が集まっていた。見覚えのある顔が並んでいる。書庫で会釈を交わすようになった人たち。食堂で隣に座ったことのある人たち。
オスカーが広間の奥に立っていた。
「本日は、図書館の職員にあらためて紹介する機会を設けました」
オスカーの声はいつもの館長としての声だった。穏やかで、丁寧で、少しだけ長い。
「臨時補佐として勤務いただいていた方を、正式にご紹介します」
オスカーが私の方を見た。
職員たちの視線が集まった。マルタが私の背中を軽く押した。
広間の中央に立った。
ここに来たとき、私は逃げてきた人間だった。父に追い出され、帰る場所をなくし、見知らぬ国の図書館で借りものの立場を与えられた。名前を名乗るとき、いつも後ろめたさがあった。伯爵家の次女。社交デビュー未済。姉の代わりに見合いに出ていた妹。その肩書きのどれもが、本当の私ではなかった。
今、この場所に立っている私は、誰の代わりでもなかった。
名鑑の棚を直したのは私だった。外交資料の人物相関を整理したのは私だった。交渉問題の原因を見つけたのは私だった。手紙を差し出して自分を守ったのは私だった。オスカーの名前を呼んだのは私だった。
全部、私がやったことだった。
「リゼット・クレールヴォーです」
自分の声だった。姉の声ではない。誰の真似でもない。少し低くて、少しかすれた、私の声。
「これからも、どうぞよろしくお願いいたします」
頭を下げた。深く、丁寧に。見合いの席で姉の所作を真似ていた頃とは違う、自分の角度で。
顔を上げると、マルタが腕を組んで頷いていた。フーゴが広間の入口に寄りかかって、軽く手を上げていた。
オスカーが広間の奥に立っていた。あの不器用な微笑みが、まだ残っていた。
職員の一人が拍手をした。それが広がって、小さな拍手が広間を満たした。
私は立っていた。震えていなかった。
見合いの席で初めて自分の名前を名乗ったとき、声が震えていた。手紙を渡したとき、指先が冷たかった。けれど今、この場所で同じ名前を口にしたとき、声は真っ直ぐだった。
窓の外で、図書館の鐘が鳴っていた。午後の鐘。いつもと同じ音だった。けれど今日のその音は、何かが終わった後の鐘ではなく、何かが定まった後の鐘に聞こえた。
書庫に戻る廊下で、オスカーが隣を歩いていた。
「リゼット」
オスカーが言った。「嬢」がなかった。名前だけだった。
私は足を止めた。オスカーも止まった。
「……はい」
「よろしくお願いします」
それだけだった。それだけで十分だった。
廊下の窓から光が差していた。私は歩き出した。隣に、あの人がいた。
(完)
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