第1話「三分間の嘘」
「名鑑の記述と、いくつかの点が異なります」
十六回目の見合い相手が開口一番そう言った。
席に着いて、挨拶を交わし、茶が運ばれてきた。私が姉の声で「本日はよろしくお願いいたします」と微笑んだ、その直後だった。三分と経っていなかった。
私は微笑みを崩さなかった。背筋を伸ばしたまま、膝の上で指先を組み直す。完璧な所作。完璧な角度。十五回繰り返して身体に刻み込んだ、姉の微笑み。
向かいに座る男性は、書類の束を卓上に置いたまま、じっとこちらを見ていた。
ヴァルトシュタイン侯爵家の次男、オスカー・ヴァルトシュタイン。ヴェルディーク王国の国立中央図書館長。年齢二十七歳。名鑑に記された身体的特徴——暗褐色の髪、深い緑の瞳。その通りの容姿だった。
ただ、想像していたのと違ったのは、その目だ。
品定めの目ではなかった。値踏みでもなかった。何かを確かめようとしている目。古い文献の頁をめくるように、慎重で、静かで、正確な目。
「……何がでしょうか」
姉の声を真似て応じた。柔らかく、ほんの少し首を傾ける。名鑑に記された姉の声質——やや高い澄んだ声。話し方の特徴——語尾を軽く伸ばす癖。十五回の模倣で、私はそのすべてを自分の喉に馴染ませていた。
「いくつか、と申しましたが」
オスカーは穏やかな声で言った。丁寧だが、長い。まるで資料を読み上げるような話し方だった。
「名鑑には声質について、やや高い澄んだ音とあります。お声は確かに澄んでいらっしゃいますが、響き方が記述と異なる。語尾の伸ばし方にも、記述された癖とは別の癖が混じっています。意識して作っている声と、本来の声では、息の使い方が変わります」
心臓が止まるかと思った。
十五回。十五回、誰にも気づかれなかった。
見合いの身元確認は保証書で済む。父の署名と印が入った、家紋入りの身元保証書。それを提示すれば、あとは名鑑に記された髪色、瞳色、身長帯との目視照合だけ。姉と私は同じ母から生まれた姉妹で、亜麻色の髪も、灰青の瞳も、身長帯の区分も同じだった。書面が整っていれば通る制度だった。
十五人の相手は、名鑑を事前に読み込んではいなかった。保証書を確認し、髪と瞳の色を一瞥し、それで終わりだった。一時間か二時間の見合いの間、私は姉の口調で話し、姉の仕草で笑い、姉として席に座った。誰も疑わなかった。
この人は、違う。たった三分で見抜いた。
「……」
姉の微笑みを維持できなくなった。唇の端が震えた。
逃げなければ。バレた。完全にバレた。このまま席を立って、帰って、父に報告して——
椅子を引こうとした私の手が、止まった。
「お待ちください」
オスカーの声は変わらなかった。責めるでもなく、問い詰めるでもなく、ただ穏やかだった。
「名鑑に記されているのはセリーヌ・クレールヴォー嬢の情報です。しかし今、この席にいらっしゃるのは、別の方だ」
呼吸ができなかった。
「あなた自身の話を聞かせてください」
意味がわからなかった。
バレたなら、怒るのが普通だ。席を蹴って退出するか、保証書の不正を指摘するか、そのどちらかだ。十五回の経験が教えてくれた。見合いとはそういう場だ。書面通りの人間が書面通りに振る舞い、書面通りの条件を確認し合う。それだけの場。
なのにこの人は、私に、話を聞かせてくれと言っている。
「……私の話を聞いて、どうなさるんですか」
姉の声ではなかった。自分の声が出ていた。少し低くて、少しかすれた、誰の真似でもない声。
オスカーはほんの一瞬、目を見開いた。それからすぐに表情を戻し、小さく頷いた。
「それは、お話を伺ってから考えます」
正直な人だ、と思った。嘘が下手な人だ、とも。理由を取り繕わない。結論を先に言わない。ただ、目の前のことを正確に把握しようとしている。
私は椅子を引いた手を戻した。
逃げても帰る場所は同じだ。父の書斎。姉の隣。次の見合いの準備。ならば——
「……リゼットです」
自分の名前を口にした。
「リゼット・クレールヴォー。セリーヌの、妹です」
オスカーは書類の束をそっと脇へ寄せた。まるで、私の言葉のために卓上を空けるように。
「リゼット嬢——いえ、クレールヴォー嬢。失礼、どちらでお呼びすればよろしいですか」
「……どちらでも」
「では、ひとまずクレールヴォー嬢と。お姉上の代わりに見合いにいらしたのは、今日が初めてではないのですね」
隠す意味はなかった。もう見抜かれている。
「十五回です。今日で十六回目でした」
オスカーの手が止まった。彼は何かを言いかけ、やめ、それから低い声で言った。
「……十五回」
その繰り返し方には、感嘆でも軽蔑でもない、別の何かがあった。けれど私にはそれが何か、わからなかった。
見合いの残り時間は、三十分もなかったはずだ。
私は姉のことを話した。社交界でクレールヴォーの華と呼ばれる姉が、一対一の見合いの席では緊張して言葉が出なくなること。父が最初に代役を命じたのは六年前、私が十五歳のときだったこと。書面が整っていれば疑われないこと。姉と私の髪色も瞳色も同じで、身長差も名鑑の区分では判別できないこと。
オスカーは一度も遮らなかった。時折、確認するように短い質問を挟んだだけだった。
やがて、仲介の立会人が控えの間から声をかけた。時間だった。
「本日はありがとうございました」
私は立ち上がり、姉の所作ではなく、自分の所作で頭を下げた。深く、丁寧に。
オスカーも立ち上がった。長身の彼が軽く一礼した後、ほんの少し間を置いて言った。
「クレールヴォー嬢。報告書には、今日の見合いの内容を記載する義務があります。どのように記すかは、もう少し考えさせてください」
報告書。
そうだ。王家仲介の見合いには、三十日以内に結果報告書を提出する義務がある。この人が報告書に何を書くかで、私の——いえ、姉の、父の、家の運命が変わる。
胸の奥が冷たくなった。けれどオスカーの顔には、脅しも駆け引きもなかった。
「……ありがとう、ございます」
声が震えた。姉の声ではなく、私の声で。
伯爵家の馬車に揺られながら、私は窓の外を見ていた。見合い会場から屋敷までの道は、もう何度も通った道だった。
帰ったら姉に報告しなければならない。バレた、と。
屋敷に着くと、姉は自室の寝椅子に横になっていた。私が入ると身を起こし、柔らかく微笑んだ。
「おかえりなさい、リゼット。どうだった?」
「お姉様。今日の方には、見抜かれました」
「……え?」
セリーヌは目を丸くした。それから、ゆっくりと首を傾げた。
「見抜かれた? どういうこと?」
「名鑑の記述と違う点を指摘されました。声の響き方と、語尾の癖だそうです」
「まあ」
姉は唇に手を当てた。驚いてはいた。けれどその目には、私が予想していた焦りがなかった。
「でも、大丈夫でしょう? だってリゼットならできるでしょう? その場で何とかなったのなら、きっと問題ないわ」
何とかなったのではない。完全に見抜かれたのだ。
「お姉様。報告書に書かれたら、家の仲介縁談が止まるかもしれません」
「報告書……? でも、これまでだって大丈夫だったじゃない。お父様もバレなければ問題ないとおっしゃっていたし」
セリーヌは不安そうに眉を寄せたが、それは自分が困るかもしれないという種類の不安だった。妹が今日、何を感じたかを尋ねる不安ではなかった。
またか、と思った。
姉はいつもこうだ。悪気はない。ただ、見ていない。私がどんな顔で席に座っているか、どんな声で姉の言葉を真似ているか、そういうことを見ていない。見る必要がないから。リゼットがやってくれる。リゼットならできる。それで十分だから。
「……そうですね。お父様にはお伝えしておきます」
「ええ、お願いね。リゼットがいてくれて本当に助かるわ」
姉は再び寝椅子に横になった。
私は部屋を出て、自室に戻った。
窓際の椅子に座り、今日のことを思い返す。
十五回の見合いで、誰も私の名前を聞かなかった。当然だ。あの席に座っているのはセリーヌ・クレールヴォーであって、リゼット・クレールヴォーではないのだから。
あの人だけが聞いた。
名前を。
「あなた自身の話を聞かせてください」と、あの人は言った。
私は姉ではなく私として、あの椅子に座り直した。自分の声で話した。自分の名前を名乗った。たったそれだけのことが、今も胸の中で小さく鳴っている。
それが怖い。
自分のために用意された椅子だと錯覚してしまいそうで——あの席は、最初から姉のために用意された椅子だったのに——、その温度を体が覚えてしまったことが、何より怖い。
報告書に、あの人は何を書くのだろう。
姉と父は、明日も変わらない朝を迎えるのだろう。
窓の外が暗くなっていた。
十五回は何時間もかけて気づかれなかった嘘が、十六回目はたった三分で終わった。あの三分間だけが姉の時間で、そのあとの全部が私の時間だった。
私は椅子から立ち上がれないまま、十六回目の見合いの残響を、ひとりで聞いていた。




