第39章 葛城エース
かつてマウンドを降りた男が、再び立つ。
エースとは、何か。
雄平くんがあたしの代わりに登板してから、2イニングが進んでいた。
ズドン!!
彼の投げるボールは唸り上げるように重そうな音を立て、梓のミットに突き刺さる。
「……すご」
思わず言葉が漏れた。
「ストライーク!! バッターアウト!!!」
タイブレークの重圧なんて感じていないかのように、雄平くんは毎回あっという間に打ち取ってしまう。
向こうも負けずに守るから、試合はこう着状態に陥っていた。
「さすが藤堂先輩ですね」
あたしの隣。ベンチ裏へ繋がる扉の前に、後輩のリオンが立っていた。
「リオンは雄平くんのこと知ってたの?」
「ええ、少し……ですが」
「ふーん。――あれ? どうしたの、その手」
リオンの左手が赤く腫れ上がっている。
「あ、これは……その」
「もしかして雄平くんのボールを受けたときの?」
「もう少し上手く捕球出来れば良かったのですが、変なところで受けてしまったみたいで……」
ズドン!!
「ストライーク!!」
「いや、あの球は専門の捕手じゃないと無理でしょ。梓は楽しそうに受けてるけど……」
「そうですね……藤堂先輩の投球は、ストレートでもかなり独特な軌道でしたので。それがあの速さですし……」
「その割にリオンも幸せそうな顔だね」
「そ、そうでしょうか!」
なぜかデレデレと頬に手を当てて照れるリオン。
応援しながら話していると――突然、夏海せんせーに呼ばれた。
「千楓……ちょっと来てくれ」
「なんですか?」
「お前……」
「……え?……」
ズドン!!
「ストライーク!! バッターアウト!!」
「チェンジだ」
「はい」
ベンチの前に出て、梓と雄平くんを出迎える。
「ナイスピッチ! 雄平くん」
「おう! って休んどけよ」
「これくらいは大丈夫だよ」
ベンチに戻りながら、二人と話す。
「そうだぞ、千楓。今日はもう私たちに任せてくれ」
「それがさ、そう思ってたんだけどさ……」
「どうした?」
「雄平くん!」
「なんだよ」
「この回か次の回に……打順が来たら、あたしに譲ってくれない?」
「わかった」
「いやいやいや! 何を言ってるんだ二人とも!」
梓が慌てふためく。
「だいたいもう交代してベンチに下がってるんだから無理だろ」
「それが夏海せんせーが投手交代だけにして、あたしはDHで残ってるんだってさ」
「なっ!? そうなのか!」
「今日のルールには問題ないでしょ? 大谷ルールアリなんだから」
「ルールは問題ないが……珠子先生に熱中症だと言われたばかりだろ」
「あと一打席くらいは問題ないよ」
「いや、そうは言ってもだな……」
「それにこのまま下がったら、勝っても負けても納得が出来ないんだ。お願い、梓……」
あたしは、しっかり梓の目を見つめる。
「……〜っ! わかった。だが、プレーに支障が出たら即刻交代するからな」
「ありがとう!」
「抱きつくな! 男子の前だぞ!」
「見てねえから安心してくれ」
雄平くんはドリンクを飲みながら壁の方を向いていた。
「まあ、俺が投げてんだ。負けることはあり得ない。何回でも同点のまま逃げ切ってやるから、思いっきりやんなよ」
そう言って、こちらを向く。
その眼差しには一点の曇りもない。自信が宿っていた。
「「……」」
あたしたちは黙って彼を見ていた。
「なんだよ」
「いや……すごい自信だなって」
「うむ、ちょっと引いたな」
「いや引くなよ。……っと、今のうちにトイレ行ってくるわ」
あんなにすごいボールを投げているのに、汗ひとつかくどころか、トイレに行くほど身体の水分が余ってるようだ。
あたしたちがあんなに苦労して抑えた強力な打線を、彼一人で圧倒する。
野球に自信満々なその背中を見て、エースとはこう……かくあるべきかと、まざまざに見せつけられた気がした。
「葛城エース……か」
梓が赤くなった自分の左手を見つめて、呟く。
「なにそれ?」
「うちの学校が昔、甲子園を制覇した時のエースが、その呼ばれ方をしたそうだ。詳しいことまではわからないが……」
「そんな人がいたんだ。けど、急になんでそんなこと思い出したの?」
「ここが甲子園だったら彼が……雄平君がそう呼ばれていたのかなと思ったんだ」
「確かにね。あたしを差し置いてって言いたいけど、納得はさせられちゃうね」
「私も悔しいよ。このチームのエースは千楓だから……」
胸の奥で何かが燃え上がるように、熱くなっていく。
負けられない。誰が相手でも……ね。
「スリーアウト! チェンジ!」
「攻守交代か」
「雄平くんが投げ始めてから、試合のスピードがあがったね」
「相手も必死になってきたようだ。行ってくる」
「うん、行ってらっしゃい」
梓を見送ってから、あたしは自分のバットを持って後輩に声をかける。
「晴佳、うちの守備が終わったらブルペンに連絡ちょうだい」
「わかりました! クールダウンですか? あたし付き合いますよ!」
「ううん、大丈夫。もっと熱くさせてくるつもりだから」
「へ?!」
首を傾げる後輩を後ろに、あたしがベンチのドアを開けると――
ダダダッ!
「もう交代かよ! 早えよ!」
雄平がトイレからガチャガチャと慌てて出てきた。
「あ、待って雄平くん!」
「なんだよ千楓」
「チャック……開いてるよ」
「ぐっ……ありがとよ!」
閉めてから自分のグローブを持ち、慌ててマウンドへ向かって走っていった。
「ふふふ。キミには負けないよ、葛城エース」
熱くなる気持ちを吐き出すために、あたしはブルペンへバットを持って向かった。
ーーー少し遡って後方席にて
私は昔のことを思い出していた。
弟の雄平が小学生の時に野球を始めてから、今までのことを……
楽しく野球をしていた雄平。
それが出来なくなってしまった雄平。
また出来るようになった雄平。
そして、また出来なくなってしまった雄平。
けれど目の前には、また野球をしている雄平がいる。
すごく楽しそうだ。
「あの……大丈夫ですか?」
一緒に見ていた新明さんと執事さんが、心配そうにこちらを見ていた。
「よろしければ、こちらのハンカチをお使いください」
「え?」
差し出されたハンカチで、やっと気づく。
私は、大粒の涙を流していた。
ずっと後悔してた。弟が苦しいときに、手を貸してあげられなかったことを。
一人で苦しみ、自分でなんとかしようとしていた雄平が、今、チームメイトに頼られてマウンドに上がっている。
それを見ていると、止めどなく涙が溢れてくる。
「よかったね雄平……最後に楽しい野球が出来て」
新明さんと執事さんに聞こえないくらい小さい声で、私は呟くのだった。
ーーーそして一塁側ブルペンにて
「フッ!」
ビュン!
プルル! プルル!
ガチャッ!
暗いブルペンの中で一人。汗だくになりながらバットを振っていると、備え付けの内線電話が鳴った。
慌てて受話器を取る。
「もしもし、もう交代? わかったありがと! すぐ行くよ」
受話器を戻し、バットを持って球場裏の通路を走る。
ガチャ!
ベンチに繋がる扉のドアノブに手をかけた瞬間、扉が勝手に開いた。
「うおい! って千楓か」
「ごめんね、また驚かせちゃったかな」
「いや大丈夫だ。千楓こそ体調は大丈夫なのか?」
「なんとかね。それでも他の子には悪いけど、コレだけは譲れないよ」
「……そうか」
「じゃ! いってく……」
足を止めて、雄平くんのほうへ振り返る。
「どうした?」
「ね! 手を出してよ!」
「なんで」
「いいからいいから! 左手ね」
「あいよ」
ガシッ!
両手で雄平くんの左手を掴む。
「ちょっ、おい!」
まじまじと掴みながら、彼の手を観察する。
「やっぱりすごいゴツいね」
お世辞にも綺麗な手じゃない。
あちこちが硬く、土黒くなっていて、ボコボコしている。
だけど――そこに懐かしさを覚える。
指先、関節、手のひら。
全部を見終わって触り終わって、あたしの手を合わせる。
「そんなにおっきくはないんだね」
「まあな。よく言われるよ」
「うんおっけ! ありがとう、行ってくるよ」
「お、おう……なんだったんだ?」
不思議がる雄平くんを置いて、あたしは準備をしていく。
これが最後になるかもしれない打席に向かって。
カチャカチャ。
打者用のレガースを付けようとして、上手くいかない。
「あ、あれ?」
いつもやってることなのに、手が震える。
「何をしているんだ」
梓があたしの足元にしゃがみ込み、付けてくれた。
「ありがと」
「相手が投手交代で助かったな。どうせエルボーガードもつけられないんだろ? 貸してくれ」
「う、うん」
「本来ならこのまま着けずにベンチに下がってくれるのがありがたいんだがな」
「ごめんね。ワガママ言っちゃって」
「キミは昔から聞かん坊だからな。特に野球に関しては……」
「あはは……」
「だからこそ決めてきてくれ。ランナーの二人には伝えてあるが、この打席はノーサインだ」
「わかった。思いっきりフルスイングしてくる」
「千楓! ホームランでいいぞ!」
バチン!
痛ったい! 思いっきり背中を叩かれた。
でも、お陰で震えがなくなってきた。
バッティンググローブを付けて、ぎゅっぎゅっと握って確認する。
ビュン! ビュン!
少しは雄平くんのスイングに近づけたかな。
(これで甲子園のライトスタンドに二本は放り込んだから)
「バッターアップ!」
「あ、はい!」
左打席に立ち、右手に持ったバットでホームベースの端っこを叩いてストライクゾーンを確認する。
憧れた世界的バッターさながらに背筋を伸ばし、下から円を描くようにくるりと回して、バットを垂直に立ててから――
「ふぅー」
息を吐く。
意識の中に沈み込んでいく。
打者と投手だけの世界に変わっていくのを感じながら、構えを直す。
「プレイ!」
審判の声で、もっと深いところの意識まで来る。
応援の声が、ふっと遠ざかった。
スタンドのざわめきも、味方の声も。
すべてが水の底に沈んだように曖昧になる。
視界の中心に残ったのは、ただ一人――マウンドに立つ投手だけだった。
相手投手は、静かな世界でセットポジションに入る。
足を上げ――
ザッ!
キィン!
上げた足が地面に着いたと思った瞬間、あたしはバットを振り切っていた。
打ち返していた打球は一塁線上に叩きつけられ、低くて強いゴロになる。
その先には、今日はファインプレーを連発した一塁手。
シュッ!
チッ!
ファーストミットを出して捕ろうとするが、僅かに間に合わない。
ボールは弾かれ、一塁側のファールゾーンへ大きく転がった。
一塁塁審が大きく叫ぶ。
「フェア! フェア!」
「ちあき走れえぇぇぇ!!」
梓の声で静かな世界がぶち壊され、ハッとする。
あたしは一塁線上を思いっきり駆けた。
ダッダッダッダッダッダッダッダッ!
足がもつれそうになる。
もう限界を、とっくに超えていた。
右翼手と一塁手が慌てて追っているのが見える。
せめて一塁まで駆け上がって、この試合から退きたい!
ガッ!
まただ。
この試合、何度目かわからない転倒。
顔から地面に突っ込んでしまう。
「ぶへぇ!」
すぐには立ち上がれそうにない。
せめて、ちょっとでも一塁ベースに――近づきたい!
そう思って地面に突っ伏したまま、左手を伸ばす。
その指先に、チョンと何かが触れた。
砂まみれの顔を上げ、ぼやけた視界が戻るのを待つ。
白い四角の山が見えた。
一塁ベースだった。
何のコールも聴こえないけど、アウトと言われてないからセーフなんだろう。
その代わりに歓声が聞こえてくる。
あたしが出塁出来た歓声にしては、デカすぎる。
立ち上がって確認したいのに、立ち上がれない。
せめて……せめて、上を向こう。
身体をくるりとさせ、仰向けになる。
さっきも見た綺麗な青空が広がっていた。
「綺麗だね」
その青空を隠すように、二つの顔があたしを見下ろしてきた。
「大丈夫か千楓?」
「やっぱり限界だったな」
「雄平くん……梓」
「二人とも悪いんだけど、ベンチまで肩かしてくれる?」
「ベンチでいいのか?」
「ベンチでって……もう走れないよ」
そう言うと、二人とも笑い始めた。
「なんで笑うのさ?」
「なんでってなあ」
「とりあえず上半身だけ起き上がれ。ほら」
そう言うと片手ずつ2人が差し出してきた
2人に差し出された手を両手で掴んで起き上がると、本塁近くでみんなが抱き合って喜んでいるのが見えた。
「サヨナラだ。私たちの勝ちだぞ」
「へ?」
「一塁手に弾かれた打球がファールゾーンに転がってる間に、桜田さんが本塁に突っ込んでセーフになったんだよ」
「そうだったんだ……」
「だから今から整列だ……って千楓!寝転ぶな!」
あたしはまた地面に寝て、土の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
背中に伝わる地面のひんやりとした感触が、体の熱を少しずつ奪っていく。
視界いっぱいに広がるのは、どこまでも続く青空。
雲がゆっくりと流れ、形を変えながら遠ざかっていく。
その日のスコアボードには、こう刻まれていた。
葛城レッドアイアンズ 4 - 5× 葛城学園女子野球部
ここまで読んでいただきありがとうございます。
帰ってきたエースと、譲れなかったエース。
そのどちらもがいたからこその勝利でした。
次回も日曜21時に投稿しますのでお楽しみに!




