後半戦
TURN 5.5
武志が再びここを訪れた理由は、今となっては陳腐な表現で簡潔に説明できた。
曰く、犯人は必ず現場に戻ってくる。
早い話が心配になったのだ。教室を施錠しなおそうと職員室を軽く覗くと、まだ鍵番の教師が変わっていなかった。それゆえ鍵の持ち出しを諦め、さてどうしようかと逡巡したのち、ここに来てしまったのだ。
とりあえず、確認だけしておこう……
そう考えてきたはいいものの、どうやって確認すればいいのかなど見当がつかないことが判明した。自分と亜紀のリコーダーを見る。両方に傷がついている。だがそこまでだ。どちらがどちらのものかは、今となってはわからない。もちろん両方に傷があれば安心できるのは確かだが、それがどうしたというのだ。武志はようやく、ここにいる意味がないことに気づいた。
そそくさと教室を出る。あたりを見回して、人がいないことを確認する。
人がいた。
目の前に人がいた。
「うわっ!」
のけぞる武志。それを見て逆に驚く同級生──忠司。
「あ、おい武志、お前なんでこんなところに」
忠司が声をかけた瞬間、「わ、忘れ物っ」と武志は叫び、脱兎のごとく駆け出していった。
「お、おい!」
ドラマみたくベタに手を伸ばしてみるが、武志は振り返りもせずに消えてしまった。
「ったく、なんなんだ、あいつ。変な雰囲気だったなあ……」
目を丸くしながらも、軽く愚痴めいてから、忠司は教室の中に入った。
その動機は武志と同様である。ちょっとばかり、彼もリコーダーのことが気になったのだ。
TURN 6
確認。とはいったものの、すぐに忠司も、先ほどの武志と同様の結論に至った。
今更そんなことをして、どうする。
珍しく自分が焦っているのを実感して、忠司は苦笑した。
リコーダーを交換してから、どことなくそわそわしている。部室に行ったり、教室に戻ってきたり。
とっとと帰ろう、と忠司は思った。
ちょっと自分と亜紀のリコーダーを見て、傷が付いていたらもうそれでいいや、帰ってしまおう、と自分に言い聞かせた。
そして、自分のリコーダーケースの中身を見る──
──が、傷が、ない。
そのわけはもちろん、直前に大輔の手によって、忠司の持っていた亜紀のリコーダーは大輔のところに行き、代わりに傷のない大輔のリコーダーが送られているからである。
「嘘だろ?」
忠司は動揺した。そんなはずはない。急いで亜紀のものも調べてみる。こちらにはある。となると、亜紀が自分と交換しなおした、ということはない。だれか別のやつが、忠司とリコーダーを交換したのだ。それしかありえない。
「待て、待て……冷静に考えろ、俺……」
忠司はおちゃらけたキャラクターを持っているが、けして頭が悪いというわけではない。むしろ物事をよく考えるほうだ。こんな状況でも、忠司の脳は正常な働きを見せた。
このクラスには、傷の付いたリコーダーは二本しかない(これは彼の知りうる知識のみを駆使すれば、真実である。仮定法だけど)。そして、今自分の(実質的には亜紀のだったはずの)リコーダーには傷がない。ということは、これを交換したやつのリコーダーには、傷がある。
即ち、究極的にはクラス全員分のそれを調べれば、事は足りる。
もちろん、全員分を調べるようなことはなるべくやりたくない。そこで忠司は、誰が自分とリコーダーを交換したそうか、ということに考察を始めた。
まず女子の場合。これはまあ、忠司のことが好きみたいな何かが理由なのだろう。だが実際そんな女子はいないだろうという諦観が、忠司にはあった。
男子の場合、交換したがる理由は何か。少し考えを巡らせ、結論に達する。
それは、その男子が、忠司の行為を知っていて、その成果を横取りしようと思ったから、である。
ここにきて忠司は、自分が亜紀のリコーダーを獲得している最中、誰にも見つからなかったかについて自信がなくなった。
ひょっとすれば扉の窓越しに見られたかもしれない。ここは一階だから、外から見られたかもしれない。カーテンは完全に閉まりきっていない。忠司はカーテンへと歩み寄り、遅まきながらしっかりと閉めた。
では、その男子は誰だろうか。正直なところ、誰かに盗み見られたのならば、それが誰かと言う特定はできない。忠司としては、そんな気配を微塵も感じなかったからだ。だが、推論的に、「こいつっぽい」という男子を何人か、ピックアップすることはできやしないか。忠司はそう考えた。
ここでさらに忠司が理性を働かせれば、その男子の筆頭に大輔を挙げることは出来ただろう。部室での模糊とした会話で疑念を抱かれたかもしれない、という閃きによって。
だが不幸なことに、忠司はそこまで頭が回らなかった。というのも、大輔よりももっと強烈な不信感を彼に残した男子が、一人いたのである。
武志だ。
教室の前で数分前に会い、声をかけた途端に逃げ去っていってしまった。これは怪しい。もし武志が忠司の行為を目撃し、その横取りを図っていたのなら、あのような動揺にも頷けるものがあるからだ。これはますます、怪しい。
そんなわけで、忠司は「とりあえず」武志と、ひょっとしたら自分のことが好きで、交換がありえるかもと当たりをつけた女子を一人、ピックアップして調べることにした。検出方法は傷の有無の確認と易しいものである。
なに、女子のほうの名前を挙げろと? いやいや、それには及ばない。
忠司は真っ先に武志のリコーダーを調べ、そこに傷を発見したからだ。
やはりか、と忠司は思った。つまり、武志の持っているのが亜紀ので、忠司の持っていたのが武志のなのだ、と納得する。実際武志が持っているのは、忠司が傷をつけた忠司本人のものなのだが、もちろん知る由もない。とりあえず、忠司はこの二つのリコーダーを交換した。だがここでまた問題が起こる。
忠司の机にあった武志の(そう考えているのは忠司で、実際には大輔の)リコーダーには、傷が付いていない。それを武志の所に入れるのだから、傷がないと怪しまれる。
武志は傷があるのを承知で、忠司からリコーダーを奪ったからである。そんな事実はないが、忠司の中の論理はそうなっていた。
また偽装が必要か、と忠司は嘆息しつつも彫刻刀を手に取った。そして今まさに武志の(大輔の)リコーダーに刃を立てようとしたとき、忠司の心に意地悪な考えが浮かんだ。
この武志の(大輔の)リコーダー、絵里のものと交換してやろう。
授業中など、絵里が武志をじいっと見つめていることが多いことを、忠司は知っていた。それを彼は、絵里の片思いだと解釈した。
普通はそうだろう。まさか絵里が、武志と忠司を見ながら変な妄想に耽っているとは思うまい。
とにかく、忠司は武志に対するささやかな復讐のつもりで、絵里と武志の(大輔の)リコーダーを交換した。お前は絵里の笛でも舐めとけ。そんな考えである。
しかしそれでも、傷の問題は残る。忠司は彫刻刀を持ち直し、絵里のリコーダーに、上手に今までと同じような傷を入れた。武志の(大輔の)リコーダーは絵里の所に行ったので、絵里のものに傷をつけなければならない。
そうすることによって、どこか後戻りは出来ないような気分に忠司は陥ったが、同時にこのまま下校できるな、と思えるくらいの達成感も得ていた。
全ての後始末を終え、前回同様上機嫌で教室を後にする。結局忠司は、二回の交換を行ったことになる。リコーダーリストを引っ張り出そう。
亜紀(武志) 武志(絵里・変) 忠司(忠司・変) 大輔(亜紀) 絵里(大輔・変)
要は、忠司は自分のリコーダーを取り戻してしまったことになるが、もう修正は利かない。彼は下校してしまったからだ。
しかし忠司の下校程度では、全体の局面はまだまだ終わらない。
見よ、空になった教室を。空のままなのはほんの数分のことだ。すぐにまた後方の扉が開く。彼らの侵入がほとんどバッティングしないことが奇跡に見える。まあ、それぞれが人気のないときを狙っているのだから、不可能ではないにせよ、であるが。
ともあれ、教室には一人の少女が姿を見せる。
──変態・絵里さん、二回目の登場です。
TURN 7
二年二組の教室には先ほどから五人の生徒が入れ替わりたちかわり出入りを繰り返しているが、そんなことをしているのが自分ひとりだけだ、と思っている者は、武志と絵里しかいない。
厳密に言えば、武志はさっきの忠司との遭遇によって、彼が教室に入ったことはうすうす予測できているので、絵里だけだということになる。
そう、絵里はそこに絶大の自身があった。
それが幸運なのか不幸なのかはさておき、そんな自信は当然、増長をもたらす。たとえば、一回目は成功したのだから、二回目もきっといけるはず、のような。
柳の下に同じ泥鰌はいない、なんて諺が懸命にも諫言してくれているのだが、人はそれをなかなか守らない。尤も、絵里の行為は一回目から失敗している。本人は武志と忠司のリコーダーを入れ替えたつもりだろうが、実際は亜紀と武志のリコーダーを交換していたからだ。だったらこの事例は、柳の下の泥鰌とはいえないことになるが、それは至極どうでもいいことか。
どうせ絵里の二回目の試みも、失敗するのだから。
前回忍び込んだときよりも、絵里の動きには大胆さがある。経験は人間を大胆にさせるのだろう。それが人類史上、いくつの悲劇を引っ張ってきたかは考えないことにする。
さて、絵里のここでの目的を語らねばならない。彼女はお察しの通り、男同士のリコーダーを交換して悦に入るかわいい女の子であるのだが、今回またそれをしに来たのではない。ほかにもそうやってみたい男子の組み合わせはいるのだが、同じことを二回やるのも味気ない気がしたのだ。
絵里は、自分のリコーダーを交換しに来た。
彼女にも好きな男子がいる。その彼と交換してしまえば、という武志や忠司らと同じ発想である。というか、その発想がまず根底にあって、そのあと前回の絵里の行動のような、応用編とでも言えばいいのか、とにかくそんな行動があるわけなのだが。
昨日例のコントを見たときや、武志と忠司のリコーダー(実際は違うが)を交換しているときは、自分と意中の男子のリコーダーを交換しようとは思わなかった。やってもいいかな、なんてことは思っていたが、せいぜいがそのレベルで、実行にこぎつけようと念じるほどの熱意は持ち合わせていなかった。
しかし繰り返すが、経験は人を、絵里を大胆にさせる。
簡潔に言えば、一回成功させたので今度は自分のもやっておきたくなったのだ。目的物を手に入れた後のついでの買い物、にでも喩えられようか。
というわけで絵里は、リコーダーを交換し始める。意中の男子のリコーダーが握られる。
その男子とは誰なのか。
恐らく、お分かりのことだと思う。ここで新しい名前を出してくるのは、原因は言語化しないでおくが、趣に欠ける、というか、まあそんなところになってしまうだろう。そうすると対象は三人に絞られる。そしてその三人すらも、消去法で一人に限定可能だ。
その通りだ。大輔である。
絵里にとっては、武志と忠司は妄想の対象で、大輔は夢想の対象なのだった。同じバスケ部で同じクラス、仲もよい忠司と大輔の二人でそういう妄想をしない理由はここにあった。妙なところで絵里も現実的なのである。
ともあれ、絵里は二人の交換を行った。しかし今までの流れからわかるように、それぞれのリコーダーの真の所有者は違う。絵里のケースの中に大輔のリコーダーがあり、大輔のそれには亜紀のリコーダーがあるわけだ。
しかも、亜紀の(絵里は大輔のものだと思っている)リコーダーには傷がついている。
武志も忠司も発見し、そして彫刻刀で偽装した傷。
絵里もそれを発見する。眼鏡の奥の瞳が少しだけ細くなる。
そして彼女のとった行動は──無視することだった。
確かに交換してしまえば、大輔の手元には傷のついたリコーダーが残るだろう。
しかしそれで気づかれるなどということがあるだろうか。絵里は反語的に問うた。
気づかれるかもしれない。絵里の中の慎重さが答えてきた。
だったら、気づかれて問題があるだろうか。絵里は再び反語的に問うた。
問題がない、と絵里の中の大胆さが答えてきた。
そう、気づかれたら気づかれたで構わないのだ。女にとって、自分のリコーダーを舐めたがる男子は相応に気持ち悪いが、男にとってそういう女子はどうなのか。絵里は自分が格別不細工でもないことを知っていた。そこからマンガ的な展開が待ち受けているかもしれない。
実際問題、女子が男子の笛を舐めているのを見つかってから恋愛が始まるマンガが実在するのかどうかは疑問だ(エロマンガならあるだろう。見たことはないが、あるに違いない。なぜかそう断言できる)。しかし妄想癖の強い絵里のことだ、甘めの空想に一旦頭を支配されると止まらない。最初に侵入してきたときと同様、にやにやしながら教室を後にする。
空想とは熱病のようなものである。したがってうわ言も出るはずだ。うなされていただけなのだ。それを何年か立って、「あの時お前、こんな風にうなされていたんだぜ」と蒸し返しはやし立てる極悪非道な輩など、いるだろうか。いてはならないのではないか。……変に恨み言めいてきたのでここで止める。絵里の将来に黒歴史のなきことを。
リコーダーリストをつけよう。
亜紀(武志) 武志(絵里) 忠司(忠司) 大輔(大輔・変) 絵里(亜紀・変)
忠司と大輔のリコーダーが元に戻っている状況だ。今のところ、誰も得していない。
そして絵里の退出からきっかり二分後、教室の後方扉が開いた。侵入者……八度だ。多分八度だと思う。今度は絵里ではない。にやけながら帰路に着く彼女とすれ違った人物である。
それは、亜紀だった。
先程「いやな予感」を見事的中させた(対処には失敗したが)彼女がなぜまた来たのか。
──もう一度、別の「いやな予感」に襲われたからに他ならなかった。
TURN 8
先ほど武志とリコーダーを交換、自分のものを取り返した(と、自分では思っている)亜紀だ、本来ならばもう下校してしまってよかった。いや、本人もそんな気ではあるのだが、飲み会が終わった後でもどことなく居酒屋の前でたむろしている大学生のように、惰性で中学校に残っていたのだ。
それでも一人で放課後できることなど限られており、そう時間の経たない内に、結局亜紀は下校を決めた。
だが運の悪いことに、或いは幸運なことに、その道中で、具体的には中庭付近で、亜紀はやけにへらへらとした挙動不審なクラスメイトとすれ違ったのである。
忠司だった。
忠司からしたら、亜紀のリコーダーを取り返した後に、悪戯心で武志と絵里のリコーダーを交換してやった(どれも失敗しているが)帰りである。亜紀に気づくと、一瞬体を強張らせたが、すぐにやにや笑いに戻って「よ」なんて言葉をかけて来たのだ。
「うん。……バイバイ」
そう返答し、意気揚々と帰っていく忠司を見送る。ここで、亜紀は「いやな予感」がした。
忠司のやつ、私を見て一瞬びくっとしなかった?
もちろん、放課後に亜紀とばったり会う、なんてことは予想外のことだろうから、さほど気に留めることではないのかもしれない。だが、武志の例からもわかるように、亜紀はやや疑心暗鬼ぎみになっていた。
もしかして、忠司のやつも私のリコーダーを取り替えてたりして……
そんな疑念がむくむくと沸き起こる。
大正解だ。
思い込みはだいたい気のせいであるが、ちょっとの疑念は当たっているものである。疑念・気のせい反比例の法則だ。さる有名な学者が言ったことにしたいものだが、なかなか叶わない。
とにかく、亜紀は検証を始めた。まず、忠司の歩いてきた方向だ。二年二組からだっただろうか。校内の見取り図を頭に浮かべる。間逆の方向ではない、という結論が出た。次に、バスケットボール部の位置を考える。そっちから歩いてきた可能性があるからだ。だがそれは否定された。それこそ間逆なのだ。
くよくよと迷っていると、段々とイラついてきた。なぜ自分がこんな理不尽なことで悩まなければいけないのだろう、と悲劇のヒロインを気取ってみる。それはね亜紀ちゃん、君がかわいいからだよ。そんな言葉を他人から掛けられるのを待っているかのように。実際、かわいいのだからいいのだが、数十年後どうなるかは知らない。
いっそのこと、もう一度二年二組に戻ってみよう。亜紀はそう決心した。靴を履き替えてそのまま教室へ。途中同じくにやにやとした絵里とすれ違ったが、それには気づかなかった。こういうことは同性が疑われにくいから、性別変換トリックや、性同一性障害トリックがミステリで多用されるのである。
教室に入る。まだ鍵が開いていてよかったと思う反面、やっぱり忠司はさっきここにいたのではないか、という疑念が強くなる。さっさと自分の席について、リコーダーを確かめる。
上部に見慣れた傷があるリコーダーが、現れた。
だがこれで安心するはずがない。武志の時も、結局この傷は偽造だったのだ。武志の机のリコーダーを確かめる。傷がついている。これは絵里のリコーダーだが、亜紀は武志が偽造した武志自身のものだと思っている。それは実際、今亜紀のケースに収まっているというのに。
「まったく」
鼻息荒く、忠司のリコーダーチェックに移行する。
予想通り、上部に傷がついている。亜紀のものと全く同一だ。
「ほらあ」
誰もいないのに、詰るような声音で呟いた。この忠司のリコーダーは偶然にも忠司本人のものだが、亜紀はそう思わない。自分のものだと思っている。まず武志が自分のを取った後、亜紀が元に戻し、そのあと忠司も同じ行動に出た。そう思っているのだ。
だからこそ、亜紀は自分と忠司のケースの中のリコーダーを取り替えた。それにより、所有関係が元に戻ると信じて。
しかし結局、リコーダーリストは次のようになっただけである。
亜紀(忠司・変) 武志(絵里) 忠司(武志・変) 大輔(大輔) 絵里(亜紀)
ごちゃごちゃと面倒くさいことになってきた。
亜紀は教室から出た。当たり前だ、長居しているとよくない。しかし、まさか忠司も自分のリコーダーを狙ってくるとは。少々予想外だった。自分のことが本気で好きそうな男子というのは、クラスには武志くらいしかいなかったのだが、と自分の勘を疑う。
いや、待てよ。忠司は単に、面白がってやっただけの可能性がある。
動機もののミステリでは不合格の答えだが、忠司について言えばさもありなん、といったところだった。ついでに他にこんなことをしそうなやつがいるだろうか、と考察を広げてみる。一通り考えてみたが思いつかなかったので、亜紀はこのまま下校することにした。
ここで自分の(違うけど)リコーダーに新たな印をつけようか、とも考えたが、もし仮にそれを偽造されたら自分の完全敗北であるような気がして、止めた。全力を出して負けるのが怖い心理である。
それさえ、やっておけば……という後悔のような振りをここで展開してもよいのだが、生憎と現在亜紀は忠司のリコーダーを所持している。いまさら何をやっても無駄だ。
下駄箱で亜紀は見知った顔を見かけた。大輔だ。クラブか何かだろうか。挨拶をしてそのまま帰る。彼が教室にこれから侵入し、亜紀のリコーダーを狙うとは到底考えられなかった。忠司と一緒にクラスを盛り上げる立場にはいるが、大輔には常識的なところが多い、と亜紀は踏んでいる。
大間違いだった。
亜紀を見かけた大輔は、さっき亜紀が忠司とすれ違って抱いた疑念と同じものを持った。
もしかして、さっきの俺の行動がばれてた?
いかにも亜紀は教室の方から来たくさいのである。そう考えると、確かめずにはおられなくなるのが彼の性分だ。今下駄箱にいるのも、教室での交換を済ませてからすぐ帰るのが、なんとなく嫌だったからである。大輔はそわそわと、二年二組に戻っていった。
TURN 9
教室に忍び込んだ大輔は、すぐに自分のリコーダーを調べた。手がかりならある。大輔は前回の侵入で忠司からリコーダーを分捕っている。それは亜紀のもので(珍しく、実際にその通りで)、そのリコーダーには傷がついていた。だから今、自分のリコーダーに傷がついていなければ、それは亜紀の手によって交換がなされた可能性が高いのだ。
そういう論理でケースを調べる。
傷がなかった。
やはりか。ここにきて大輔は、これが亜紀の手によるものだと確信した。彼の持つ手がかりからはそうなるのが妥当だろう。今現在、大輔は自分自身のリコーダーを持っている。大輔はそう考え、事実(偶然とはいえ)そうなっていた。
だが、ここで一つの疑問が生じる。
この傷のついていないリコーダー、本当に俺のか?
大輔は忠司とリコーダーを交換することで、亜紀のそれを得た。ということは、そのとき忠司のリコーダーは、亜紀の手元にあったはずである(実際はなかったが)。そして現在、大輔が確かに持っていた亜紀のリコーダーは移動している。ここは亜紀がやった、と見るのが妥当だろう。きっと大輔が教室にいるのを見て疑いを持ったのだ。そして、大輔のケースを調べ、中にあった傷つきのリコーダーを発見した。となると、亜紀と大輔のリコーダーが交換されたことになるが、亜紀のもとにあったリコーダーは忠司のものであるのだから、その際大輔の持っていた亜紀のリコーダーはそのまま亜紀の元に行っているものの、その代わりに来るのは大輔ではなくて忠司のリコーダー、ということになる。
「これ、忠司のじゃん!」
大輔は言った。だとすると問題が生じる。本来ならば亜紀がやった(実際にはやっていないが)交換、つまり亜紀と大輔の交換をもう一度すればよいのだが、それだと亜紀の元に忠司のリコーダーが行ってしまう。それは、忠司の計画は半分達成したことを示す。
いや、それでもいいのだ。実際さっきの交換ではそんなことは全く考えていなかった。普通に忠司のリコーダーが亜紀のもとに行っていても、不愉快には思わなかった。
だが、絵里の時と同様、人間は一度成功すると図に乗る生き物なのだ。ここは何としても、亜紀のリコーダーを手中に納め、自分のそれを送ってやりたい。
そのために大輔は思考する。まず、一番考えやすいところからだ。
大輔自身のリコーダーは、どこにあるのか。
もちろん、忠司のところであろう。まず忠司による、忠司と亜紀の交換。そして大輔による忠司と大輔の交換。最後に亜紀による、亜紀と大輔の交換。それを終えた今、そうなっているのが自然だ。
何度も申し訳ないが、実際は大輔が思うより遥かに複雑な様相を呈しているのであるが、彼にとっての真実はこれであるし、彼の知りうる情報から導ける真実もまた、これなのである。
そこで大輔は、忠司の机を調べた。リコーダーを取り出し、眺める。
一つの驚愕が訪れた。リコーダーに、傷がついていたのだ。ならばこれは、大輔のものではない。実際、忠司のものであるのだから。
「どういうことだ……?」
わけがわからなくなるが、亜紀のリコーダーを調べ、同様の傷がついていることを確認すると、冷静に考えて見れば簡単なことだったと大輔は思った。順を追って考えればいいのだ。
まず、なぜ傷のついたリコーダーが二本あるのか。それは亜紀のものだけで十分だろう。その答えはこうなる。忠司が亜紀と交換をしたときに、偽装のため傷を自分のリコーダーにつけたのだ。
大輔、正しい推理である。
そして大輔が忠司と交換を行い、亜紀が教室に入ってくる。リコーダーに傷こそあれ、それが偽造ではないかと疑う。ならばと大輔の机を調べると(もちろん調べていないけれど)、傷ありのリコーダーが発見される。
ここで注意すべきは、亜紀は直接大輔と交換したのではないというところ。もしそうなら、大輔のところには傷ありの、忠司のところには大輔が送った傷なしのリコーダーがあるはずだからだ。だが実際は逆だった。
これは、亜紀が大輔だけでなく、忠司も教室に侵入していたことを知っていたことを意味する。大輔が亜紀と交換したのではないかと疑って、中で推理した結果、大輔は忠司から横取りしただけなのだ、ということに亜紀が気付いたのだ。それならば、亜紀はすべてを元に戻そうとするだろう。忠司が亜紀から取り、大輔が忠司から取った。それが分かればその逆をやればいいだけだ。かくしてこのような状況が出来上がった。
結論。今持っているリコーダーは、忠司でなくて大輔のものだから、そのまま交換してよい。
中学二年生でこれほどの論理的思考ができるのがすごいのかどうかはともかく、大輔は一定の結論に達した。なるほど、筋は通っている。亜紀からしたら、忠司と大輔のリコーダーはそのままにしておけば、今のような疑いを得られることもなかっただろうとか、そんな突っ込みも入れられるが、それは正直どうでもよい。
なぜなら、お分かりのように、大輔の論理は、前提からして間違っているからだ。
大輔の侵入ののち、彼は亜紀しか来ていないと思っている。絵里とか忠司とかもがっつり侵入してリコーダーを交換しているのだが、そんなことは思考の片隅にすら現れていない。それも仕方がないことだ、の一言ですべて片付いてしまうのだが。ともあれ交換だ。
今回は大輔も、自分の(偶然、本当に自分の)リコーダーに傷を入れた。
これで五人全員のリコーダーに傷がついたことになる。
亜紀はどうやら相当に鋭い女のようだ。リコーダーに傷があっても疑ってくる。だがそんな彼女も今頃は帰り道。自らの目的は達せられたと思っているだろう。まさか、大輔がもう一度侵入しているとは思うまい。
ともかく、大輔は亜紀とリコーダーを交換した。亜紀のところには傷入りのリコーダーがちゃんと行ったことになる。本人はこれで二人のリコーダーが位置転換したと思っているが、ところがどっこい亜紀のケースには忠司のリコーダーがあったのだ。
亜紀(大輔・変) 武志(絵里) 忠司(武志) 大輔(忠司・変) 絵里(亜紀)
だから、こうなった。
まあ、大輔からしたら、自分のリコーダーを亜紀に送ること自体は成功しているのだが。
沢山ものを考えると、その真否にかかわらず人は満足しがちである。大輔もそのご多聞に漏れず、満ち足りた表情で下校していく。これで、リコーダーを取り合った五人のうち、四人が舞台から退場したことになる。
四人だ。五人ではない。
最後の一人にして事件の発端──野球部の武志クンは、まだ学校にいるのだ。
大輔が教室を出てから数十分後。
ようやくその彼が、教室の鍵を持って二年二組に現れた。
長かった、長すぎた戦いも、どうやらこれで終幕のようだ。
TURN 10
武志が教室に三度現れた理由は何か。
それは、施錠である。
教室をきちんと施錠しないで帰ると、用務員の人が夕方にそれを見つけ、やがては教師の耳に入る。担任は自分が鍵当番だということを知っているから、お叱りが待っている、というわけだ。だからここできちんと施錠しなければならない。忘れ物を口実に職員室から鍵を持ってきたのである。職員室に行ったら予想通り、鍵番の教師は変わっていた。
だが、彼の目的はそれだけではなかった。
無論、それはリコーダーに関するものだった。
だが、一度亜紀との交換に成功した武志に、これ以上の願望はあるのだろうか。彼自身は、亜紀や忠司、大輔の侵入を知らない。仮に知ったら、緊張のあまり失神してしまいそうである。このままにしておけばいいのではないか。
違うのだ。「そのまま」がいけないのだ。
武志は、一度変えた二人のリコーダーを、元に戻そうとしていた。
早い話が怖気づいたのだ。武志はこれでも野球部のピッチャーである。来年はおそらく、エースの名を背負うこととなるだろう。それくらいの実力はあった。
そんな彼が、女の子とリコーダーを隠れて交換していたということがバレたらどうなるか。
実際のところ、亜紀にはバレているのだが、まあそう仮定して、だ。そこから先を考え出すと、武志は急に不安になっていった。不安は胸を苦しくさせる。過呼吸を生み出す。パニックを生み出す。武志は食堂で、その一歩手前まで行った。
こんなに悩むのならば、諦めて元に戻したほうがよっぽど健康的だ。
苦渋の決断、でもなかった。それほど武志はびびっていたのだ。ではそんな彼がなぜ交換に踏み切れたのか、という問いに答えることは難しい。何かが彼を駆り立てたのだ。としか言いようがないが、それは明らかに聴衆を満足させない。
だが実際彼は、一度交換し、また戻そうとしている。
作業自体は簡単だ。今回は傷の偽装など、する必要はない。お互いのリコーダーを見比べてから、見分けのつかない傷を確認して、武志は二人のリコーダーを入れ替えた。実際は、武志のケースには絵里の、亜紀のケースには大輔のリコーダーがある。
すべてを終わらせ、ほっと息をつく。心からの安堵だった。施錠する身体が軽い。なんで僕はこんなちっぽけなことに悩んでいたんだろうと叫びたくなった。もちろん叫ばないが。
そうして職員室に鍵を片付けて、下駄箱を通じて帰路につく。これで、五人全員が二年二組から退場することとなった。
最終的に、リコーダーリストは左記の通りである。
亜紀(絵里・変) 武志(大輔・変) 忠司(武志) 大輔(忠司) 絵里(亜紀)
誰一人、誰一人として結局得をしていない。かろうじて武志のリコーダーを忠司が持っていることから、絵里の望みが若干叶っているが、「舐めあう」ことが重要なのだろうと考えれば、それも疑わしい。
だが、五人の少年少女は、頑張った。動機・目的・手段。それぞれ褒められるものとそうでないものがあるにせよ、自分の利益追求のため、働いた。
それがかち合ったとき、矛盾が起きる。それは社会の常識ではなかろうか。
それを教訓にして、彼らにはこの先より邁進してほしいものだ。
──まあ、誰もどうせ気づかないから、教訓にはならないだろうけど。
そう考える向きもあるかもしれないって?
甘い。
AFTER THE GAME
笛吹中学校の音楽室に、二年二組の生徒の奏でるリコーダーの音が響く。あの交換劇から三日後の、音楽の授業のことだ。どうやら練習しているのはヴィヴァルディの「春」のようだ。
ドーミッミッミッレドソー ソファミッミッミレドソー
そんな主旋律を中心に、まとまっているような、いないような音色が生まれている。
その一角で、だ。
少女・亜紀は、首尾良くリコーダーを死守したことに満足して、絵里のリコーダーを吹く。
少年・武志は、良心によりリコーダー交換をやめたことを誇り、大輔のリコーダーを吹く。
少年・忠司は、これが亜紀のリコーダーだと宣言する機を計り、武志のリコーダーを吹く。
少年・大輔は、忠司め、亜紀のリコーダーは俺のものだと思い、忠司のリコーダーを吹く。
少女・絵里は、ああ大輔君素敵よリコーダー最高と考えながら、亜紀のリコーダーを吹く。
五人は一様に、満足している。間違った真実の前で、都合のいい認識に溺れている。認識論者は、この状況をどう捉えることだろうか。
「はい次、出席番号十一から十五まで。鬼怒川くん、木下くん、木村さん、小林さん、小室さん、前に出てね」
音楽教師が生徒に告げた。呼ばれた生徒が順にでて、五人で「春」を吹く。主旋律が三人、和音が二人。テストのようだ。第一楽章のさわりだけなので、すぐに終わった。音楽教師はさらさらと成績をつけ、「はい、お疲れ様」と彼らをねぎらった。
「えっと、そうしたら次ね。出席番号十六から二十まで。ええと佐倉さん、三条くん、進藤くん、瀬川くん、あと曽我部さん。次よろしくね」
さらに音楽教師は次の五人を呼び、彼らはのっそりと前に出た。
佐倉亜紀。
三条武志。
進藤忠司。
瀬川大輔。
曽我部絵里。
この五人が、仲良く並んでリコーダーを構える。
それを前に、音楽教師は怪訝そうな顔つきをして、首をかしげながら一つ、尋ねた。
「あらあら、どうして五人とも、おそろいの傷跡をしているのかしら?」