前半戦
ご都合主義のフィクションです。
BEFORE THE GAME
「僕、絶対にヒデコちゃんのリコーダーを舐めたいんや」
教室のセットの中央で、ランドセルを背負った小学生に扮した、三十路を越えたばかりの人気芸人が甲高い声で言い切ると、客席から笑い声が起こった。
「でも、一回舐めるだけじゃ飽きたらへん。そこで僕はとんでもないことを考えつきました」
コント特有の説明口調で、さらに小さい笑いが起こる。
「それは、僕とヒデコちゃんのリコーダーを入れ替えることです。そしたら、次の音楽の授業で僕はヒデコちゃんのリコーダーを舐められる。さらに、ヒデコちゃんも僕のリコーダーを舐めるんや! それを継続さえしていけば、完璧なループが出来上がる!」
そう叫んでから、芸人は変態的な顔芸をしてウケを取った。
「よおし。それやったら、さっそく計画開始や……」
「わ! ちょっとタクヤくん、何してんの!」
「げ! ヒデコちゃん!」
お約束的な展開ではあるが、舞台下手から「ヒデコちゃん」に扮した芸人の相方──こちらも同様おっさんであるが──が、現れて爆笑が起こる。
いよいよこれからコントのキモ、慌てるタクヤくんと追い詰めるヒデコちゃんのやりとり、さらには隠れたヒデコちゃんのキャラクターを用いての意外な展開、そして独創的なオチへとつながっていくわけだ。
が、そこの内容の詳しいところは今、さほど重要ではないので省略しよう。
では何が重要かというと、三点ある。
一、この人気芸人がやったコントはゴールデンタイムに放送されたということ、
二、そしてその番組はいわゆるお笑い特番であったこと、
三、さらにその特番の視聴率は良く、特にこのコントを見た者は多かった、ということだ。
今述べたことはマクロに過ぎたので、今度はミクロな重要事項も並べなければならない。
どういうことか。
とある公立中学校、笛吹中学校(略称はウチュウ)の二年二組の生徒の多くも、このコントを見たということである。
ある者は晩飯を家族とともに食らいながら。ある者は塾帰りのファミレスで。またある者は、幼き恋人の部屋でよからぬことを企みながら。
別に笛吹中学の区域が電波的に特別というわけではないから、これは当然と言えば当然だ。だから、もっと踏み込んでいこう。
それを見た生徒のうち、「リコーダーをこっそり交換して背徳的にいい思いをする」というコントのマクラに触発された者が、或いは危機感を抱いた者が、五人いたということである。
五人もいた。これ、重要。
インスピレーションは、強大な影響力を思春期の少年少女に及ぼす。それは時に叡智を導き出しうるが、一転愚行や蛮勇、誤った正当化をもたらすこともある。
しかし厳密に、かつ悲観的に付言するならば、前者となる場合は、後者となる場合より、相当に少ない。
本当に、少ないのだ。
しかし彼らに諫言をかける者などいない。現段階で彼らの思惑を知っているものは誰もおらず、刑法典でも思考段階の犯行を罰することはできない。そして彼らは自らの計画を、誰にも見られないように静かに、素早く実行するだろう。
もはや当事者同士でないと、彼ら五人の少年少女は止められない。
いささか唐突な印象は否めないが、視点を笛吹中学校、二年二組の教室にやってみよう。あの運命的なコントが放送されてから一日がすでに経過している。
時間は夕方のようだ。担任教師が終わりのホームルームを取り仕切っている。
やがてそれも事務的に終焉を迎え、掃除当番以外の生徒は次々と教室から出て行った。下校のために。クラブ活動のために。塾通いのために。思いは異なれど、皆一様に退出していった。
残った掃除当番たちも、やる気のなさと熱心さが交叉した手付きで箒やチリトリ、黒板消しクリーナーを稼動させて手早く掃除を終える。そして荷物をまとめて、めいめいの目的のために教室から去っていく。
──ただ一人を除いて。
その一人とは、鍵当番だった。
それ自体は至極当然のことだろう。鍵当番とは最後まで残る宿命を得ている存在だ。掃除を終えたら教室は施錠しなければならない。扉は前方と後方の二つがあり、後方は教室内部から施錠、前方は教室外部から施錠する仕組みのものだ。
単純な任務。中学生でこれができなければ危ない。
しかしここで、鍵当番は行動に出た。
内部から後方を施錠せずに、前方だけを施錠したのだ。
これでは教室への出入りができてしまう。
二年二組は一階にあるから、窓が開いていても扉が開いていても侵入が容易だ。幸い窓はすべて閉まってはいる。しかし、扉が開いていては何の意味もないのだ。
よく見ると、最後に退出する鍵当番がチェックするべきカーテン閉めもなされていない。尤も、これは鍵当番の緊張によるものであったのだが。
しかして二年二組の教室は不完全に施錠されたまま、無人となった。
そして、鍵当番が職員室に鍵を返却した。
本来ならこれでお役御免、教室に戻る必要など一切ないのだが、鍵当番はそのまま教室へと踵を返した。二階の職員室から階段を一つ下がって二組へ向かう。渡り廊下には人がいないが、そそくさと、怪しげに見えないように後方の扉まで移動して、そっと扉をスライドさせる。
当然、開く。自分が開けておいたからだ。閉めないでおいたからだ。
もうこの鍵当番──いや、少年・武志と本名で呼ぼう──が、昨日のコントに触発された五人の内の一人だ、ということはお分かりだろう。武志の侵入によって、この日の静かな戦争が始まったのだ。
TURN 1
自分ひとりの教室の意外な広さに戸惑いながら、武志は軽く体を震わせた。さっき教室を施錠するときも同じだったはずなのに、どうして今だけそう感じるのだろうか。そんな風に冷静な自己分析をする余裕は、今の武志にはなかった。
昨日のコントは衝撃だった。好きな子の笛舐めという概念こそ知っていたが、交換とは。全く考えたこともなかった。
確かに中学校のアルトリコーダーは、小学校で使ったソプラノリコーダーとは異なり、リコーダー自体に名前が彫り込んだりはされていない。されているところも数多くあるのだろうが、笛吹中学校はその範疇にない。
また、リコーダーケースに名前を書く者は多いが、リコーダー本体にそうする者は稀だ。コントは小学校の設定でやっていたが、実現のためには中学校でやったほうがやりやすいだろう。
とりあえず自分の席に向かって、武志は机の中に刺さっているアルトリコーダーを取り出した。三つのパーツに分かれているから、ひとまず組み立てておく。
笛吹中学校の生徒は、紛失等で個人的な用意でもしない限り、全員同じ型のアルトリコーダーを所持していて、その九割以上が机の中に入れっぱなしで通学には持ち運ばない。
それは、武志がリコーダーの交換を望んでいる少女にとってもそうで、武志の鋭い視線の先には、事実、少女の机と、そこから亀の尻尾のようにちょこんとはみ出たリコーダーケースがあった。
──少女・亜紀。
武志が狙っている子の名前だ。いわゆるクラス一の美人というやつで、なかなか気が強く、思ったことをずけずけと言うため、美貌の割には男子から高い人気を誇っているとはいえないが、それでもある種仄かな憧れのようなものを抱かせる少女である。
亜紀の机へと武志は歩む。どちらかというと、武志は亜紀のリコーダーを舐めたいという欲求よりは、自分のリコーダーを舐めて──あまり、表現が適切ではないか──リコーダーを吹いてもらいたいという欲求のほうが強かった。
「交換」という概念が、一気に武志を行動に駆り立てた理由のおおもとは、ここにある。
武志が変態であるかどうかは各人の評価に任せるとして、客観的なところを述べれば、彼は真面目なところの多い野球部員で、ほどほどに社交的だがそう賑やかではない、そのような人物であった。そんな武志が、まさかこんなことをするとは誰も思わないだろう。多分だけれども。
ピッキング犯も、開錠に時間がかかるようなら諦めて立ち去るという。罪状や罪の重さは異なるものの、交換作業もできるだけ早く済ましたいところだ。
武志は亜紀のリコーダーケースを取り出し、続けて本体を取り出した。
軽く確認するが、名前が書いてあったりはしない。これだけなら誰のものかは分からないだろう。そう安心して、武志はリコーダーの交換作業に取り掛かろうとした。
そのとき、武志はとある発見をした。
亜紀のリコーダーの吹き口の近く。黒ではなく薄いクリーム色の部分の根元に近い辺りに、一センチを少し超えるくらいの傷がある。そこまで目立つものではないが、何かで削ってしまったような傷がある。
武志の背中から冷たい汗が噴き出した。このまま交換して、ばれはしないだろうか。仮に気づかれたら、亜紀は傷のあるリコーダーを探すだろう。その手が自分に及べば破滅が待っている。男子からも女子からもいじめられること確実だ。
しかし、だったら諦めるのか。
否、と武志は即座に心の中で首を振った。その決断は、大人しい武志にとっては珍しいものだ。
三歩で自分の机に戻ると、中から何かを引っ張り出す。
美術の時間で使っている、彫刻刀だった。
そして軽く外を見て、誰も近くにいないことを再確認してから、傷のある亜紀のリコーダーを横目に、自分のリコーダーの同じ箇所に、傷を作り始めた。
果たしてそれが、上手くいった。
奇跡だ、と武志は思った。多少違ったものになるのは仕方がないと覚悟していたが、恐ろしく似通った傷ができた。今この二本のリコーダーを取り落としてしまったら、拾ったときにはどちらが亜紀のものか、武志自身でも分からなくなるほどだ。
身体に震えが走る。それが緊張からくるものでないことが、今の武志には分かった。
ならば後は簡単だ。丁寧にリコーダーを取り替え、もとあった場所に返す。終わりだ。「吹く」ということだけを追求するのなら、三つのパーツ全てを交換する必要はなく、上部だけすればよい。だが、それで違和感などを覚えられてしまったら、かえって逆効果だ。丸ごと交換したほうがよい──というのが、前日のコントの中にも盛り込まれていて、その偏執的なところがまた受けたのだが、武志もこれに倣うことにした。
もともと誰にも見られていないのならば楽な作業なのだ、後は静かに教室を出て、職員室から再び鍵を持って行き、教室をちゃんと施錠して終了である。ただ、すぐに職員室に向かって鍵を持ち出すのには、少し抵抗があった。というのも、鍵を利用するには教師との対話が欠かせず、さっき返却したときにいた教師はまだ同じところにいるからだ。
「教室を施錠し忘れました」といったらよいだけの話だが、それだと教師に印象が残る。ましてその教師は武志たち二年生の音楽を担当しているのだから、余計避けたくもなる。
というわけで、少し時間を置いて、鍵番の教師が変わったころに「忘れ物をしました」といって教室を施錠するのがより自然だ、と武志は考えた。今日は試合の合間で野球部の練習がないから、それまでは図書室で勉強でもしていればよい。
その発想に従って、武志は教室を出た。廊下から生徒は何人か見られるが、こちらに注意を払った様子もない。敢えて堂々としなければならないぞ、と武志は自分に言い聞かせ、階段を上がっていった。
そのすぐ後。
二年二組の別の生徒──少年・忠司は、先程彼の親友である武志がいた教室に、そのこと自体は露知らず、後方の扉が開いていることを「ラッキー」と考えながら、忍び込んだ。
TURN 2
忠司と武志は親友同士だと周囲から認知されている。実際その通りだ。昼食もよく共にしている。武志の野球部に対して忠司はバスケ部と、部活は異なってはいるが、かなり仲が良い。
だが、彼ら二人の性格は対照的だった。大人しめの武志に対し、忠司は三の線があるというか、目立ちたがりというか、そのような明るさと軽さを持った中学生である。
そんな忠司は、前日の例のコントを見て、こう思った。
これ、実行したら、後で男子の間で笑い話にできるぞ。スターになれるぞ。
中学生になれば、男子の間でしか回らない話題、その逆、どちらも数多くある。クラスのあいつとこっそりリコーダーを交換してやったぜ、なんて話題もそうだ。もちろんはしゃぎすぎると後でばれるのだが、それはそれで面白いかな、なんてことを忠司は考えていた。
では、誰を標的にするのか。
亜紀であった。
やはりクラスのかわいい子でないと、面白くない。動機はそのような単純なものだった。加えて亜紀のリコーダーを吹く、という行為もそこそこの興奮がある。
まさか親友がすでに同じことをやっているとは思っていない忠司は、意気揚々と、かつ抜き足で亜紀の机に向かった。リコーダーケースを取り出して、自分のものと中身を取り替える。
「うっ」
思わず、唇からうめき声が漏れた。亜紀の(実際には武志の)リコーダーには、当然のごとく、しかし忠司にとっては予想外に、吹き口の近くに傷があったからだ。
「ありゃ。どー……すっかなあ……」
気にせず取り替えてもいいのだが、それで気づかれると笑い話にする前に計画が破綻してしまいそうだ。そうなると忠司はただの変態になりかねない。
今で十分変態だろうとの声も降って来そうだが、客観的に見て忠司は変態というよりは面白人間で通っているようだ。女子の前で下ネタを振っても、さほど嫌がられないような、そんなレベル。
「よしっ」
そこで忠司も、武志と同じ行動に出た。自分のリコーダーに傷をつけることにしたのだ。あまり緻密にやってしまうと、カミングアウトしたときに友達に引かれるかな、とも思ったが、逆にそれも面白いだろう、という気も強かったのだ。
彫刻刀で慎重に傷をつけてみる。同じようにできるかな、と不安にもなったが、意外にもこれが上手くいった。端から見たら区別がつかないほどだ。
さっきの武志は、別に奇跡を起こしていないのかもしれない。
そこからは忠司も早い。リコーダーを入れ替えて出て行くだけだ。ここで見つかってしまうのは面白くないので、人目にはしっかりと注意を払う。幸い特に危殆もなく、忠司はにやにやしながら教室を離れ、部室へと向かっていった。
もちろん、忠司の目論見は失敗している。忠司が亜紀のものだと思ったリコーダーは武志のものであり、それゆえ忠司は今、武志のリコーダーを所持していることになるからだ。
そろそろ、分かりやすく表記していく必要性が現れてきた。
そこで、「リコーダーリスト」なるものを示してみよう。大仰ではあるが、単純に少年少女の名前を記し、その下にカッコ書きで、誰のリコーダーを持っているか、そして今回の交換によってどのリコーダーが動いたか、を示しているだけだ。それに則ると、今のリコーダーリストはこうなる。
亜紀(忠司・変) 武志(亜紀) 忠司(武志・変)──全て、傷あり。
「変」というのが変態の変ではなくて変動の変だということは、断る必要もないが一応。
──正直どっちでもいいのだが。さて、現段階では、まだこれに頼らなくともリコーダーの状況は理解できるだろう。しかし、不幸なことに、例のコントに影響を受けてしまったのは、五人いたと既に述べた。そのうちの一人に亜紀が入っている、と今ここで明言してしまうが、それにしても後二人足りない。彼らのせいで、二年二組のアルトリコーダー事情は、これから複雑混迷を極めていくのである。
噂をすれば、そのうちの一人──少女・絵里が教室前に姿を見せた。後方の扉を開け、ほっとした顔つきをする。鍵を取りにいかなくてよくなったからだろう。
三人目の闖入者も、もちろん目当てはリコーダー交換であった。
TURN 3
絵里は中学生らしく、好きな人に告白したいなあとか、されたいなあとかいう願望を持ち合わせている。標準的な体格と顔立ちをした彼女は、人気があるわけではないが、眼鏡の奥の瞳は黒の割合が大きく、かわいらしいといえばかわいらしい。
やや寡黙であまり友達づきあいのよくない絵里であったが、かといってクラスの中で疎外されているわけでもない。
しかし、そんな絵里には、ちょっと普通からは外れた嗜好があった。
男同士のキスだ。
いわゆるBLを好む女性は多い。百合物が好きな男性だって多いのだし、それ自体はそう異常でもないだろう──突き抜けてそれを愛好しない限りは。
そして絵里は、その「突き抜けて愛好する者」であった。簡単に言えば、度を越した腐女子だった。
ホモセックスと呼べばいいのか、そういう「生々しい」ところにこそさほどの興味がないとはいえ、男同士がキスをすることに、絵里は凄まじい興奮を得るのだった。
それはそのような趣向の小説や漫画、同人誌を読んでも得られるし、日常の同級生で仲がよさそうな二人が、例えば倉庫の裏などで、「実は俺、お前のことが……」のような雰囲気になりながら一線を越える妄想をすることでもまた、得られるのだった。
そろそろ、絵里がここに来た理由が明らかになってきたのではなかろうか。
例のコントは、絵里に凄まじい衝撃を与えた。それはコペルニクス的な転換に近いものであった。そもそも好きな子の笛を舐める、という行為の主体は基本的に男であるし、好きな男の子は絵里にも確かにいるものの、その行為自体にあまり興味がなかった。
教室に忍び込んで、対象の笛を舐めるだけならば。
だが、交換ならば話は別だ。
自分のリコーダーを交換する必要はない。普段自分が妄想逞しくしている、仲のよい男二人のリコーダーを交換すればいい。
恐らく当の二人は気づかないだろう。しかし、絵里だけははっきりと知っている。あの二人は、正に今、お互いのリコーダーを舐めあっているのだと。
自分で舐めたくなければ、舐めさせあえばいいじゃない。
我ながら見事な発想だ、と絵里は自負した。前日の夜は興奮して余り眠れなかった。今もその興奮状態は持続しているが、余韻に浸っている暇はない。見つかったら自分の人生の何割かは終わる、と覚悟してきているのだ、事は手早く済ます必要がある。
急ぎ、絵里は二人の標的の机に目を走らせた。
──武志と、忠司の二人の机に。
お互いのリコーダーを使う親友同士! 絵里のツボだった。絵里の妄想がやや加速気味になる。もともと前に出るタイプの忠司と、物静かなタイプの武志である。その二人がいいコンビなのである。どっちが主導するのかしら、などとありえないことがつらつらとドーパミンと共に絵里の脳髄を駆け巡る。
手早く二人のリコーダーを引っ張り出して、中を確認するのも取り敢えず交換し、元に戻した。実際は武志のリコーダーケースには亜紀の、忠司のそれには武志のリコーダーが入っているのだが、そんなことは当然知らない。さらにどちらのリコーダーにも、同じところにそっくりな傷跡があるのだが、それにも気づかなかった。もし仮に気づいていたら、すわ運命的だと絵里の妄想は加速しすぎて時が一周するに至ったかもしれない。
交換を終え、絵里は大きく一息ついた。
そしてすぐに、逃げるように立ち去っていく。
今の絵里の行動で、リコーダーリストに変化が現れた。
亜紀(忠司) 武志(武志・変) 忠司(亜紀・変)
このままで終われば、武志は元の木阿弥、忠司にとってはおいしい展開が待っている。
このままで終われば、だ。仮定法である。つまりそれは、実現しない。
絵里が教室を出て数分後。後方の扉が四度開いた。ぬっ、と生徒が入ってきて、顔をこわばらせつつ机に向かう。過去に二度魔手がかかった、亜紀の、机に。
「大丈夫……だよね……」
そして、不安げに一人で呟く。中からリコーダーケースを取り出し、そっと撫でる。
少女・亜紀、ご本人の登場であった。
TURN 4
亜紀は自分の容姿に自信がある。
実際それに見合った、いやそれ以上の容姿を持っているのだから問題はない。そんな彼女だ、誰かに告白されそうだぞ、だとか、あの男子がそれっぽい目で私を見ているぞ、だとかいう感覚が、人よりも鋭敏だった。
それを自意識過剰として責めることは難しい。現にその殆どは的中しているからだ。
そして前日のコントも、そんな「いやな予感」を亜紀にもたらした。
小学生の時から、「好きな子の笛舐め」という行為を知っていた亜紀だが、誰かが自分の笛でそうしているのではないか、という疑念は抱いてこなかった。習慣的にリコーダーを使う前は吹き口を軽く掃除しているし、仮に誰かそんなことをする人間がいたとしても、それで問題がないと思っていたからだ。
だが、あのコントはまずかった。
笛の交換。その手があるか、と亜紀は苦々しく顔をしかめた。アルトリコーダーには名前が書いていないから、それは実際に可能だ。このコントは多くの同級生が見ているだろう。その中で、実際に行動に移しそうなやつは、果たしているか。
いそうだ、というのが亜紀の出した結論だ。そのために今、ここにいる。
自分のリコーダーに名前こそないが、吹き口の所に傷があることを亜紀は知っていた。机の整理をしているとき、彫刻刀が滑ってリコーダーを傷つけたのだ。いい思い出ではないが、今回はそれが図らずも役に立つことになる。
リコーダーに傷がついていなければ、既にやられている。
これは真理だ。それさえ確認すればいい。そう思ってやってきた。かすかに震える手で自分のリコーダーを取り出し、上部を見る。
──傷は、あった。
「ふう……」
とりあえずは安堵の声を漏らし、肩の力を抜いた。だがそれでも、厭な予感は晴れない。何かこう、残りの間違い数が不明な難しい間違い探しを解いているときのような、釈然としないものが亜紀を取り巻いていた。そしてそれは、次なる疑念を生む。
──もしも既に、交換が終了していたとしたら?
その疑念は、傷の存在から反駁可能だ。しかしそれも、次の論理の前では危うい。
もし交換が終了していたら、交換者は亜紀のリコーダーの傷に気づいただろう。ならば、この傷がそれをごまかすために新たにつけられたものではないとどうして言い切れようか?
考えすぎかな、と亜紀は思った。実際、今亜紀のケースには忠司のリコーダーが入っておりその推論は正解なのだが、亜紀の良心は「それはないだろう」と訴えていた。
だが、いったん考え付いたら確認したくなるのが人間の性である。そこで亜紀は、かねてから「こいつなら交換しそうだ」と思っていた同級生のリコーダーだけを確認することにした。そのリコーダーの同じ部位に傷があれば、それは即ち自分のもの、ということになる。
その同級生を絞るのに、亜紀は時間をそう要さなかった。
「武志だな」
自分のことが好きなのだろうな、と亜紀が思えるような男子はあまりいない。恐らく、自分の性格のきつさによるのだろう。それでもなお、武志は亜紀に好意を持っているな、というのが普段の生活で分かっていた。女子とは鋭い生き物である。注意召されよ、男子学生諸君。
自分の机のリコーダーを調べることは少しも奇妙なことではないが、他人の、しかも男子のそれとあっては、理由がどうあれ話が別だ。亜紀は急いで武志のリコーダーを調べた。
ケースのファスナーを開けるのに、手が震える。自分は何も悪いことをしていないのに、何なのだこの震えは。夜中に親に隠れてゲームをしているときと同じ震えではないか、と亜紀は悲しく思った。しかしそれでもリコーダーは取り出せる。問題の箇所が露になる。
傷は……あった。当然だ。しかし亜紀にとっては当然ではない、というのも当然である。
「うっ……わぁ」
亜紀は呻いた。そりゃそうだろう、実際に自分のリコーダーが交換されていたということを実感したのだから。別に武志のことは嫌いではないが、それでも少しの怒りと、それに潜むほんの少しの恐怖が亜紀に芽生えた。それと同時に、ほんの少しの背徳的な快楽も背中を走ったので、怒るに怒れない気持ちにもなったのだが。
とにかく、こうなったら武志の陰謀は防ぐ必要がある。亜紀は決心し、二人のリコーダーを取り替えた。彼女にしたら、元に戻しているような感覚なのだろうが、実際は武志のケースの中には武志のリコーダーが入っているため、亜紀は図らずも武志のリコーダーを手に入れてしまったことになる。亜紀が自分のだと思っているリコーダーは武志ので、亜紀が武志のだと思っているのは忠司のであるのだ。ややこしい。リコーダーリストの出番だ。
亜紀(武志・変) 武志(忠司・変) 忠司(亜紀)
とにもかくにも、亜紀は満足して教室を出る。世界の何かを救ったような気分になって、口の端っこが思わず釣り上がってしまう。そして、軽くスキップをするように、下駄箱の方へと向かっていった。
と、その数分後。
リコーダーの取り合いは終わらない。教室の後方扉を開け、「やはり開いていたか」というような表情を浮かべて、ようやく五人目の戦士──もとい変態──が、教室にするりと入りこんだ。
少年・大輔。
忠司の所属するバスケ部の同級生であり、二年二組のムードメーカーである。
TURN 5
大輔は先ほど、忠司に会った。
職員会議の都合でバスケ部の練習はない。にも関わらず二人は、部室で会った。
大輔自身は単にバスケシューズを持ち帰るために立ち寄ったのだが、そこに現れた忠司は、何をするわけでもなく、そわそわした様子でボールをいじっていた。まるで、特に用事はないけど学校からは離れたくないな、と言わんばかりに。
「お前、どうしたんだよ?」気軽に尋ねても、忠司はニヤニヤ笑いを浮かべているだけで気持ちが悪い。どうせまた、変なことでも考えているのだろうと合点し、忠司に背を向けて大輔は別れを告げ、学校を後にしようとした。そのときだ。
「なあ大輔、お前昨日のお笑いスペシャル見た?」
声にやや上ずったものを含ませて、忠司が尋ねてきたのだ。
「見たけど。何」
「見たの? じゃあ、リコ……いや、なんでもない。じゃあな」
ニヤニヤしながら、向こうからさよならを言ってくる。いぶかしみながらも、大輔はそのまま彼と別れた。それでもどこかしっくりこない。別れ際に何か言いよどんでいたし、まるで自分の知らないところで重大な事柄が進行していたかのような不吉さを大輔は感じた。
「リコ……」
忠司の言を反芻してみる。これに続く単語などたくさんあり、予測は難しい。リコという女かもしれないのだ。だが、その前のお笑いスペシャルと繋げて考えてみた途端、大輔は推論を立てることに成功した。
「リコーダー?」
大輔も昨日のお笑い番組を見ていたが、その中で最も印象的だったのが、例の笛交換コントだった。あれは面白かった。そうだ、きっと忠司も、そのことを言いたかったに違いない。大輔はそんな確信を得たが、すると次なる疑問が浮かび上がる。
では、なぜ忠司は言葉に詰まったのか。
リコーダーのコント、面白かったよな。そう言えばよいだけの話なのに、「なんでもない」とお茶を濁す必要はない。加えてあの挙動不審。何か変だぞ、と大輔は思った。間違いなく忠司は、あのコントの話そのものは狙いではなかった。だとすると。
あいつ、もしかしてあれを、本当に実行しやがったのか?
そんな突拍子もない、しかし大輔にとっては十分な蓋然性のある推論に達するのには、そう時間を要さなかった。
そうだ、忠司はきっと、放課後の教室に忍び込んで女子の誰かと自分のアルトリコーダーを交換したのだ。何のためにか。忠司のことだ、ネタにするためだろう。それで俺と部室で会ったもんだから、つい逸ってしまったのだ……
大輔はいつの間にか、そんな論理に絶対の自信を持っていた。中学二年生特有の根拠のない自信というやつかもしれない。まあそれは実際正解なのだから、特に問題はない。だが、その後の大輔の思いつきは、些か問題があるといえた。
──だったら俺と忠司のリコーダーを交換してやれば、面白いではないか。
忠司のリコーダーケースの中には、女子のリコーダーが入っているのだろう。だったらそれを自分のものにして、忠司には男である自分のリコーダーを入れてやる。そうすれば、後々忠司がこの経験談を自慢げに語るとき、「まさかの展開」として楽しむことができる。
こんな考えの根底には、忠司が女の笛を舐めるなんてけしからん、だとか、自分もできるものならやってみたいなあ、なんていう思いがあったことは否めない。
忠司が誰のリコーダーを自分の物にしたのか、という問いには簡単に答えられた。亜紀だ。
こういう場合、忠司はクラスで一番美人な女子のものを取るに決まっている。そんな根拠のない、しかし正解である推論も手伝って、大輔は教室にこっそりと入っていった。
あまり長居をすると不利なことになる。早速自分と忠司のリコーダーを取り替えた。大輔自身は、実は忠司の侵入の後に、絵里と亜紀が来ていることは知らないのだが、幸運なことに、亜紀のリコーダーは奇妙な移動を経て、忠司のリコーダーケースに収まっていた。つまり、交換が成功したわけだ。そういう複雑な事情はまったく知らず、大輔はほくそ笑んだ。そして忠司の、実際は亜紀のリコーダーを眺め、少しうっとりしてから、例の傷を見つけた。
「げ」
大輔は一瞬焦った。しかし一瞬、だ。すぐに気を取り直す。この傷は亜紀のリコーダーのもので、忠司のものではない。ならば、忠司はこの傷に気づいていないこともある。仮に気づいていたとしても、彼は盗人なのだ、大々的に調査をすることなど叶わないだろう。
そんな思考を経て、大輔はそのまま交換を実行した。武志や忠司のように、もし亜紀から直接交換していたならば、大輔も傷の偽造を考えたかもしれない。だが大輔は、それを諦めた。
亜紀(武志) 武志(忠司) 忠司(大輔・変) 大輔(亜紀・変)
新たに傷のついていない大輔のリコーダーが加わり、このような模様になった。大輔はこっそりと教室から退出する。
そして、渡り廊下から彼の姿が消えた──と思った直後、新たな人物が現れた。
武志であった。
さっき教室に来たときと同様、落ち着かない雰囲気である。かといって、教室に向かう足取りが止まることはない。あたりをきょろきょろとしながらも、後方の扉を開けて、するりと中に入った。どうやら、施錠目的ではないようだ。




